生き延びた者は、膨大な死者を前に、
立ち止まることすら許されなかった——
遺体安置所をめぐる極限状態に迫る、
壮絶なるルポルタージュ!
2011年3月11日。
40000人が住む三陸の港町釜石を襲った津波は、
死者・行方不明者1100人もの犠牲を出した。
各施設を瞬く間に埋め尽くす、戦時下を思わせる未曾有の遺体数。
次々と直面する顔見知りの「体」に立ちすくみつつも、
人々はどう弔いを成していったのか?
釜石の人は、弱くて、強い。(帯より)
東日本大震災によって引き起こされた大津波は、ほぼリアルタイムで映像化され、テレビやネットによって全世界に配信された。
その映像たるや想像を絶するものだった。
言葉で表現することはほぼ不可能。
悲鳴をあげるしかなかった。
しかし、その映像には「遺体」は映っていない。
メディアで報道された映像は、辺見庸さんが言うところの〈希釈された映像〉だった。
あのような大津波に巻き込まれた人間は、その後、はたしてどうなったのか。
たくさんの人が死んでしまったし、いまだ行方不明のままの人もいる(2556人)。
わたしたちは「現実」を知るべきではないか。
「死者(遺体)」から目を背けるのはおかしいのではないか。
死者を受け入れることなしに、弔いはありえない。
死者を弔うことなしに、「復興」などありえない。
著者がなぜ「遺体安置所」を中心としたルポを書いたのか。
その動機は次のようなものだった。
... 来る日も来る日も被災地に広がる惨状を目の当たりにするにつれ、私ははたして日本人はこれから先どうやってこれだけの人々が惨死して横たわったという事実を受け入れていくのだろうと考えるようになった。震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。
だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数え切れないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはありえないと思っていた。復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架を背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。
そのことをつよく感じたとき、私は震災直後から二ヶ月半の間、あの日以来もっとも悲惨な光景がくり広げられた遺体安置所で展開する光景を記録しようと心に決めた。そこに集った人々を追うことで、彼らがどうやってこれほどの死屍が無残に散乱する光景を受容し、大震災の傷跡から立ち直って生きていくのかを浮き彫りにしようとしたのだ。
テレビ・メディアは数ヶ月ほどで平常運転に戻り、あれから6年。
3.11は過去に固定化され風化しつつある。
あれほどの悲劇が忘却されようとしている。
そんな今こそ、読む価値のある一冊だ。
以下、印象に残ったところを引用しておく。
... 体育館の入り口は山陰になって薄暗く、ドアにも〈遺体安置所〉と書かれた一枚の紙が貼られていた。警察官はゴム手袋にマスクといういでたちで忙しく出入りしている。かかえている大きなビニール袋のなかにつめこまれているのは犠牲者との思しき泥にまみれた衣服やバッグだ。この奥が安置所になっていることを確信した。
千葉は唾を飲んでから冷え切った体育館に足を踏み入れた。次の瞬間体に電流が走ったように思わずその場に立ちすくんだ。床の上に並べられた何十体という数の遺体が目に飛び込んできたのだ。二十体、いや三十体はあるのではないか。
... 呆然として近づいてみると、警察官が数人がかりで遺体の体を押さえつけて腕や足を伸ばそうとしていた。遺体は死後硬直がはじまっており、ある者は腕や足を前に突き出したまま死に、ある者は顔だけを斜めに向けたまま死んでいる。別の者は、犬のように四つん這いになった姿勢で横向きに置かれている。
... 昨日の昼まで明るく笑っていた子供や老人が泥だらけの悲惨な遺体となって、犬の死骸や瓦礫とともに道端に転ったままになってカラスの群れについばまれようとしている。
... 床に敷かれたブルーシートには、二十体以上の遺体が蓑虫のようにくるまれ一列に並んでいた。隅で警察官が新しく届いた遺体の服をハサミで切ったり、ポケットから財布や免許証を出して調べたりしている。二、三十人いるのに物音ひとつしない。遺体からこぼれ落ちた砂が足元に散乱して、うっすらと潮と下水のまじった悪臭が漂う。死後硬直がはじまっているらしく、毛布の端や、納体袋のチャックからねじれたいくつかの手足が突き出している。
... 3月11日以降、釜石のマチはどこも瓦礫がつみ重なる廃墟となり、ヘドロを被った死屍が累々と横たわっていた。民家に頭をつっこんで死んでいる女性、電信柱にしがみつきながら死後硬直している男性、尖った材が顔に突き刺さったまま仰向けになって転っている老人。風の強い日も、雪の降りつもる日も、遺体は何日間も静かに同じ場所でかたまったままだった。