三宅香帆 著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書,2024年)を読んでいたとき、ふと思ったことがある。もし、読書が労働のノイズになるのなら、恋愛なんてなおさらノイズになるのではないか、そもそも労働と両立可能な恋愛などあるのだろうか、と。
恋愛とは歴史的には「情熱的な愛」のことだと言われている。情熱的な愛とは、簡単に言うと「この人と別れるぐらいなら死んだほういい」と思ってしまうほどその人のことを愛しているときの熱情である。小説・映画・詩などで描かれる恋愛はたいていの場合、そのような情熱的な愛がテーマとなっている。一例をあげるなら、加藤登紀子 作詞作曲で1987年に中森明菜がカバーした『難破船』がわかりやすいと思う。
しかし、実際に巷でおこなわれている恋愛はそこまで“病的”で重いものではない。そもそも生きるか死ぬかのギリギリのラインでひとを感情的に愛するという行為態度は、歴史的・文化的には西洋の恵まれた階級のごく一部のひとたちにしか発生しなかった。それが小説や映画などの媒体によってブーストされ「情熱的な愛(=恋愛)」が大衆レベルに広まったのである。だが、本来このような情熱的な恋愛は、めちゃくちゃハードルが高いうえに“危険な行為”でもある。ましてや資本主義的労働と両立可能なはずがない。
恋愛が文化的商品として流通する場合、それは情熱的な愛の形式をとる。だが、実際の恋愛は平熱的な「普通の恋愛」だったりする。このギャップはなぜ問題にならないのだろうか──。
もし、情熱的な愛を恋愛と考えるなら、平熱的な恋愛はあまりにも凡庸すぎるだろう。そのような平熱的な感情は「恋愛感情」などとはよべないはずである。平凡で平熱的な「好き」という感情が意味的に「情熱的な愛」として変換されるような幻想。短期的で不安定すぎる感情が生涯死ぬまで変わらない永遠不変なものに感じられるような錯覚。その変換キー(コード)になっているのが文化的な筋書き(スクリプト)である。
情熱的な恋愛のハードルは高い。もしこの基準で恋愛を定義づけてしまうと恋愛は不可能になってしまう。だから、実際の恋愛のハードルはそれよりも低く設定されている。逆にあまりにも低く設定されているがゆえに、ここからごく普通にみんなが恋愛すると思ってしまうのだ。
わたしたちが知っている恋愛は情熱的な恋愛のことだが、実行可能な恋愛はそのような恋愛ではない。したがって〈情熱的な恋愛ではないような感情をあたかも恋愛であるかのように思いこむ文化〉──これが恋愛の内実である。そして、最も重要なのは、文化的な恋愛スクリプトをインストールされ変換キーを持っているひとのみが恋愛という〈思いこみ〉を可能にするという点である。人間関係から生じる感情には様々な性質のものがあるが、そのなかから「好き」という感情を──情熱的な恋愛ではないような感情であっても──特権化し「これは恋愛感情だ!」と思いこめるモードを提供しているのが恋愛文化ということになる。
恋愛という文化は、もともとかなり難易度が高い情熱的な恋愛を大衆文化に流通させ、あたかもすべての人間が恋愛可能であるかのような錯覚をひろめることに成功した。このような特殊な感情が発生する場面は「出会い」から生じるのが常である。学校や職場のような場所でたまたま出会ったりするところからはじまる。だが、合コンやマッチングアプリにおける「出会い」はそのような出会い方とは質的にちがっている。「あるグループのなかから自分好みの相手を選ぶ」という選好はむしろ「お見合い」にちかいだろう。もともとの情熱的な恋愛は、あるグループのなかから好みの相手を「選ぶ」ものではなかった。たまたま出会った相手を否応なく好きになってしまうような選びようのなさこそが情熱的な恋愛の根底をなしていた。しかし、実際の恋愛ではおおむね選好によって相手を選んでいる。あらかじめ自分好みのタイプを設定し、そのタイプに合致するような相手を探している。この点も情熱的な恋愛と普通の恋愛との大きな違いである。
恋愛文化がここまで歴史的に普及した要因は、恋愛感情とよばれうる範囲が情熱的な恋愛を遥かに超えて大きく拡大していった点にあったと思われる。もともと恋愛感情はあるひとと出会ったときにたまたま発生するものだった。だが、大衆化された恋愛は恋愛感情が目的化され、好みのタイプを選択的に探し当て恋人をゲットするようなものに変貌したのである。
【関連記事】