おんざまゆげ

@スラッカーの思想

(ア)セクシュアリティ再考──「ちんぽ脳」からの脱却──

 

【はじめに】

アセクシュアル」は多様(スペクトラム)であり、様々なジェンダーによってアセクシュアルへと至る経路や悩みかたはちがってくる。だから、この記事では「アセクシュアル全般」についてはまったく当てはまらない。一般的な観点から書いている部分もあるが、それらも「ひとりのアセクシュアル・シス男性」特有の経験にもとづいている。それでも共有化できる部分が少しでもあればいい。わたしのように何十年も悩むひとがひとりでも減ってほしいからである。

アセクシュアルとは人に性的に惹かれない人が自分のことを呼ぶ言葉です。人生のなにかほかの要素が、アセクシュアリティの理由の一部や全てになるかどうかは、関係ありません。アセクシュアルにはたくさんのタイプがあります。アセクシュアルとは自分の体験を説明するために自分で選ぶラベルなのです。理由を説明するためのものではありません。*1

 

「自認」までの道のり

 異性愛以外のセクシュアリティでは「きっかけ、気づき、認識、理解」といったような肯定的な自認プロセスを必要とする。アセクシュアルの場合、まずは〈誰にも性的に惹かれないことがありうる〉ということを知っているかどうかが重要になる。つぎに、それに自分が該当するかどうかが問題になってくる。

 自認プロセスでは大抵の場合、悩みや苦悩をともなう。「誰にも性的に惹かれない」ということを自覚できておらず、漠然とした違和感として感じられている場合もあれば、「誰にも性的に惹かれない」と自覚していてもそれがどのようなセクシュアリティなのかがいまいちよくわからずに悩む場合もある。なにかのきっかけで異性愛からの“ズレ”に気づき、あれこれ悩んだ後、認識がすすんで「そうか、こういうことだったのか!」と理解し自覚して以降も、他者との人間関係のなかでモヤモヤしたことが続いて悩まされることも多いのである。

 まず、はじめに言っておきたいことは「気づき」は早ければ早いほどいいということだ。できるだけ早く気づくほうがいい。悩む必要のないことに無駄に悩まされる期間は少ないほうがいいからである。悩まなくていいことに悩まされること──この時間は短いほうがいいし、ないほうがいい。

 

異性愛規範

 わたしは人生の大半を異性愛者だと思って生きてきた。その一方で小学3年生の頃にはすでに自分のなかの異変にも気づいていた。「無性愛」みたいなものがあるということを知ってからも「アセクシュアル」という言葉に出会ってからも、自分が異性愛者であるということに固執しつづけた。のちに分かったことは、わたしはもともと異性愛者ではなく異性愛規範に従って生きていただけだったということだ。

 ここでいう「規範」とは、社会や世間から発せられる「このような人間になりなさい」(命令)や「このような人間になってほしい」(期待)を社会的に内面化したもの。文化的につくりあげられたものであるが、もちろんこのような文化は法・政治・経済などによっても支えられている。

 規範は性行為に関する社会的支配の重要なモードだと社会学者は指摘する。なぜなら、規範は1日24時間、人々を「取り締まれる」ところまで無意識に内面化されるから… *2

 セクシュアリティは社会規範という点で非常に重要な意味を与えられる。社会的メッセージは、性的であらねばならない、性的でありたいと望まねばならない、性的であることに長じていなければならない、そして性的に正常でなければならないという。*3

 

 アセクシュアルの本を読んでいて羨ましいと思ったのは、(英語圏の例であるが)すでに10代後半で自分をアセクシュアルと自認して生きている当事者がたくさんいたことだった。もし小学生の頃に自分は異性愛者ではないと自覚できていたら(アセクシュアルと自認できなかったとしても)わたしの苦悩はもっと少なくてすんだはずである。

 この世界は「異性愛」というセクシュアリティが標準仕様になっているため、自分のセクシュアリティがその仕様からズレていると途端に生きづらくなる。なんとなく自然に「自分はアセクシュアルである」と思えるひとは皆無で、まずは異性愛規範からのズレに苦悩しなければならない。異性愛者はそのようなズレの苦悩を経験せずにすむのであるが、異性愛以外のセクシュアリティではそのセクシュアリティそのものに気づき悩むまえに「自分は異性愛者ではないのかもしれない」ということに気づき、これが「悩み」として体験され「問題化」しなければならないのである。つまり、セクシュアル・マイノリティはマジョリティがつくりだす異性愛規範によって、標準的な異性愛からのズレに悩まされ、つぎに「自分は世間一般が期待するような人間ではない」ということに悩まされ、自分のセクシュアリティに何となく気づいたあとも異性愛以外のセクシュアリティへと当てはめる作業(identify)に悩まされることになる。

 

恋愛的指向(romantic orientation)

 小学生の頃、恋愛ドラマのキスシーンの意味がまったく理解できなかったことを覚えている。キスは謎の行為、なぜするのかわからない、キスすると気持ちよいのだろうか…。すでに小学生の段階でキスを特別な行為として位置づけているひとたちが大勢いたから、なおさら謎だった。かれらはそれをどこで教わったのだろうか。「3年4組の〇〇さんとキスしたい」とか「このクラスでキスしたい女子生徒を3人教えて」とか、そういう具合に恋愛(好き)とキスという行為が誰から教わったわけでもなくごく自然につながっていたのである。わたしにとってこれが第一の謎になった。

 恋愛感情のようなものは幼い頃から経験していた。男性と女性をはっきりと区別して女性のほうに好意を抱きやすかったし、特定の女性と仲良くなりたいという特別な気持ちを持ったこともあった。小学生の頃、休み時間に女性と一緒に遊んだりしているときに手と手が触れあったりすることがあったが、このときも好意を抱いている女性の手と触れあったりするとドキドキして緊張したりしていた。一方、男性や興味のない女性の手が触れたとしてもドキドキすることはなかった。おそらくこれが恋愛感情だったのだろう。この「ドキドキ」が「ムラムラ」に変換されたなら(あるいは接続していたなら)わたしは異性愛者だったのかもしれない。しかし、ドキドキする関係とムラムラする関係はまったく異なる体験なのであった。わたしは恋愛感情の経験を根拠としてずっと異性愛者だと思って生きていたのだが、これは恋愛的指向と性的指向をたんに混同しているだけだったのである。

 

性的指向 (sexual orientation) *4

 性的指向とは、あらゆる関係性のパターンのなかで「性的(性愛的)な関係」のみに着目した性関係指向である。関係性には様々なパターンがあるが「性的な関係」に限定されるのが特徴だ。ここには友達関係や恋愛関係は含まれない。そして、性的関係の指向対象の要素は主にジェンダーによって分類されている。したがって「どのようなジェンダー対象と性的関係を結びたいか」という性的な関係指向が性的指向となる。

 異性愛女性の性的指向は男性というジェンダーであるが、これは自己決定的に選択したものではない。だが、男性だったら誰にでも性的魅力を感じるかというとそうではなく、男性のなかから選択的に男性ジェンダーと結びつけられたジェンダー以外の魅力(容姿や性格など)によって性的魅力を感じたり感じなかったりすることになる(こちらは「性的指向」ではなく「性的魅力」による選択)。*5

 だがアセクシュアルの場合、ここがちがってくる。ジェンダーを含めたすべての要素を考慮しても「誰とも性的関係を結びたくない」というのがアセクシュアル性的指向だからである。アセクシュアルはすべてのジェンダー性的指向が向かないだけでなく、ジェンダーを含めたどんな要素によっても誰にも性的に惹かれない(性的魅力を感じない)という無性的特徴を持つのである。性的指向は「どのようなジェンダーに性的魅力を感じるか」ということを示すものであり、個性(特定の誰か)を指向する「誰に性的魅力を感じるか」を示すものではない。しかし、性的指向としてのアセクシュアルの場合、例外的に個性を含めたすべての要素が対象になっているのである。

 

性と愛

 つぎの文章はアセクシュアルにとって非常にわかりやすい説明になっている。

 性は欲望の言語、愛は関係の言語。性と愛とがべつべつのものであることがこれほどはっきりした今日の世界で、「性愛」などという混乱を招く用語を使う必要はない。わたしたちが知っているのは、性が愛を随伴することもあれば、そうでないこともある、というあからさまな経験的事実だ。*6

 

 性的指向という概念はもともとは「性が愛を随伴すること」を前提としていた。「愛」の関係が「性」という欲望の言語によってどのようなジェンダーに方向づけられるか。異性か同性か両性か。これが最初に考えられた性的指向だった。しかし、アセクシュアル性的指向として位置づけられた今、そのような前提は崩れている。「愛」という関係に「性」という欲望を必要としない──あるいは「愛」も「性」も必要ない──場合もありうるからである。性愛関係か、性関係か、友愛的な関係か……さまざまな関係性が考えられるが、これらは以下で説明する〈性欲望〉によって規定されることになる。

 

「性的魅力」について

 

分割される「魅力=惹かれ」(attraction)

 アセクシュアルの簡単な定義は「誰にも性的に惹かれない」である。アセクシュアル・コミュニティでは定義に使用されている「性的魅力(=性的惹かれ)(sexual attraction)以外にも、「恋愛的魅力」(romantic attraction)、「美的魅力」(aesthetic attraction)、「官能的魅力」(sensual attraction)、 「感情的魅力」(emotional attraction)、「知的魅力」(intellectual attraction)などが知られている。他者のどのような特徴や要素に魅力を感じるか(惹かれるか)によってさまざまな「〇〇魅力」が性的魅力から区別されて用いられている。たとえば、性愛や恋愛をするひとが他者の容姿に惹かれた場合、その美的魅力は性的魅力や恋愛的魅力と一体となっているケースが多いが、アセクシュアルやアロマンティックのひとは美的魅力を感じてもその「惹かれ」が性的魅力や恋愛的魅力にはならない。このような魅力の分離性を説明するためにさまざまな「〇〇魅力」が増えていったわけである。

 

「魅力」研究の歴史

 「魅力」は社会心理学の分野では「対人魅力」(interpersonal attractin)として研究されてきた。

 対人魅力の研究テーマは、古くはソシオメトリーを用いて友人選択を調べる親和性の研究が主であったが、1960年代から特定の他者に対する好き嫌いの規定因に関する研究が増え、対人魅力という言葉が定着した。[……]70年代後半になると、それまでの初対面ないし未知者に対する好意度の研究から、実際に継続中の恋愛や配偶などの親密関係の研究が増加し、愛情と好意は別次元だと主張するルビン(Rubin,Z.1973)の研究を端緒として、愛の研究が盛んになった[……] *7

 

 ある時期までの「魅力」研究は、《人びとがある人びとをなぜ好むのかという一般的質問に答えようとして行われたもの》だった。また、《対人的魅力と嫌悪の先行条件に関しては非常に多くの文献が存在するが、最も強力な対人的魅力、すなわちロマンチックな愛については実験的研究はほとんどない》。 つまり、当初、研究されていた「魅力」とは恋愛や性愛とは関係のない好意や好感度のようなものだったのである。社会心理学では「魅力」を実験的に測定する必要があり、文学の領域に属するような恋愛や性愛に関する魅力は実験になじまない。《ロマンチックな愛への実験的研究はタブーであった》。*8 ちなみに、わたしが持っている有斐閣の『心理学辞典』(2002年)を紐解いても「性的魅力」は索引にすら掲載されていない。*9

 

「性的魅力」は知っている、だが惹かれない!

 「対人魅力」の研究は《引きつける人の特性のみではなく、引きつけられる人の特性にも言及しなければならない》。*10 つまり、「他者のどのような要素が魅力になっているのか」(客観的な他者評価)と「実際にどのような要素に魅力を感じるのか」(主観的な惹かれ)を分けて考えなければならない。アセクシュアルで重要になるのは後者の「主観的な性的惹かれ」があるかないかである。前者の「客観的な他者評価としての性的魅力」については、アセクシュアルのひとであっても把握しているひとがほとんどだろう。そうでなければ「性的魅力」という概念を理解することはできず、「誰にも性的魅力を感じない」という表現は成り立たないはずである。

 わたしは、「性的魅力を知っている」(認識評価)と「性的魅力を感じる」(性欲望)の違いをまったく理解していなかった。異性愛規範を強く内面化していればしているほどその違いを理解できずに混同している可能性が高いと思われる。そうなると、あるひとを見たときに「このひとは容姿端麗だから性的魅力が高いだろう」と感じたりすることを「性的惹かれ」だと勘違いしてしまうのである。

 やっかいなことに、アセクシュアルのひとであっても、「あの子ってセクシーだよね!」「たしかにそうだね!」という会話が成立してしまうときがある。あるひとを見たときの「あの子 セクシーだね!」という他者の表現は「他者評価としての性的魅力」なのか「主観的な性的惹かれ」を言っているのか、一義的に規定できない。だから、「主観的な性的惹かれ」を一度も感じたことのないアセクシュアルであっても、その会話に「他者評価としての性的魅力」として同意することが可能なのである。このようなホモソーシャルな会話の実践を積み重ねれば積み重ねるほど「他者評価としての性的魅力」を「主観的な性的惹かれ」と思い込み、自分は異性愛者だと勘違いしてしまうおそれがある。

 また、アセクシュアルのひとであっても自分の性的魅力は高く評価されたいと望んでいるひともいる。

 私が性的に欲されたいのは、私が感情的な安心と自身の有能感を得たいからだというのを、私はつねに知っていた。性的に欲されうるということは人が持ちうる最大の財産の一つで、人生自体をくぐり抜けることを容易にする特権と保護の一つの形であり、人々が無闇に欲しがることのある性質である。たとえ私たちが他者に対して同等の欲望を感じることがなくてもそうなのだ[……] 性的欲望のターゲットとなることは、捨てられることに対する一つの格別の武器で、私の見た目についての不安に対する一つの格別の慰めでもあると感じられた。*11

 

 

マスターベーションについて

 わたしがずっと異性愛者だと思っていたもうひとつの根拠が「マスターベーション」体験である。しっかりと確かめたわけではないが、わたしは他の異性愛男性と同様なマスターベーションをおこなっていたと思われる。だから、自分は異性愛者なのだろうと思っていた。

マスターベーションをしていてもアセクシュアルである」と主張する場合、たいてい次のように説明される。アセクシュアルは〈性的指向〉だがマスターベーションは〈性的行為〉であり、性愛的関係を指向すること(=誰かに性的に惹かれること)と〈性的行為〉はべつ次元の話である、と。

 アセクシュアルのひとであっても他者とセックスすることはありうるし、こういう場合でも他者に性的に惹かれていたり性愛関係を結びたいと欲していなければアセクシュアルなのである。アセクシュアルであるかどうかのポイントになるのは、セックスやマスターベーションの有無にあるのではなく、「他者に性的に惹かれるか」という点にある。「セックスする」という〈性的行為〉の次元と「他者に性的に惹かれる」という〈性的指向〉の次元はまったく異なる。アセクシュアルはあくまでも〈性的指向〉のことであって〈性的行為〉の有無とは無関係なのだ。

 

性欲望/性行為/性関係

 セクシュアリティを「性欲望/性行為/性関係」の三つに区分したとき、〈性欲望〉はつぎのように説明される。

 性欲と性行為と性関係とは、厳密に区別されなければならない。

 性欲は、個人の内部で完結する大脳内の現象である。[…] 「性的欲望」とも訳されることのあるセクシュアリティとは、「両脚のあいだ (between the legs) 」にではなく「両耳のあいだ(between the ears)」、すなわち大脳にある。だからセクシュアリティ研究とは、その実、下半身の研究ではない。何が欲望の装置になるかは、人や文化によって違う。[…] 欲望が「恋愛」という「関係妄想」をファンタジーとしてともなっている場合にさえ、欲望そのものは個人内で完結している […] その限りで、欲望は── 想像力と同様に ── 自由である。人は神と交わることも、聖母に抱き取られることも、あるいは強姦することも、幼女を切り刻むことも、欲望することができる。それを禁止したり、抑圧することは ── 本人以外には ── だれにもできない。*12

 

 つぎに〈性行為〉とは《 欲望が行動化したもの 》であり、《 その行動には、他者(身体)を必要とするものと必要としないものとがある 》。そのうち前者を「他者身体とのエロス的な関係」(=性関係)とよび、後者の他者身体を必要としない性行為を「自己身体とのエロス的関係」(=マスターベーション)と定義する。*13

 性欲望に駆動された「他者身体とのエロス的な性行為」を〈性関係〉と位置づけ、上野千鶴子はこれを「公的セックス」とよび、「他者身体を必要としない自己自身とのエロス的な性行為」を「私的セックス」とよぶ。*14 これによって「私的セックス」としてのマスターベーションはセックスに含められることになる。

 マスターベーションが相手のある性交の不完全な代替物であるという考え方は、今日のマスターベーション研究の地平からは、完全に放逐された。それどころか、実証研究によれば、パートナーとの性関係が活発である人ほど、マスターベーションの回数が多いことも報告されている。つまり性的アクティビティのレベルの高い人は、自己身体とも他者身体とも性的に関係する機会が多く、一方が他方を代替するわけではないことがわかる。*15

 

「性器的/性的」興奮

 性的な興奮には性器的興奮(性器部分の血流増大など)と「ムラムラする」と表現されるような心理的な性的興奮の二種類が存在する。たんに性器を物理的に刺激するだけでも肉体的な性器的興奮は反射的に生じうるが、性器にはまったく触れずに、視覚や聴覚による性的刺激の受容や性的ファンタジーを想像するだけでも心理的な性的興奮は生じうる。このふたつの興奮は、測定可能な客観的興奮(=性器的/肉体的興奮)と主観的興奮(=心理的な性的興奮)というふうにわけてもいいかもしれない。

 したがって「両脚のあいだ」からも「両耳のあいだ」からも性器的/性的興奮は生じうるのだが、前者は反射的な性器的興奮であり、後者は性的欲望から生じる心理的な性的興奮となる。重要なのは、ムラムラすると随伴的に肉体的な性器的興奮が生じうるが、それとは逆に肉体的な性器的興奮はムラムラすることがなくても触覚的な物理的刺激のみで反射的に生じうるという事実である。つまり、性器的興奮は心理的な性的興奮を意味しない場合があるわけである。セックスでオーガズムに達するためには触覚的な物理的刺激が必要になるが、この場合、性器的(肉体的)興奮は同時に主観的な性的興奮にもなっていなければならない。*16

 ちなみにバイアグラはリビドー(欲動)増強剤ではなく、性器的興奮を持続させるのに有効な場合があるだけであって、ムラムラを生じさせたり高めたりする効能はない。ひとによっては肉体的な性器的興奮がムラムラの高まりにつながっていく場合もあるが、このふたつの連関がどのような生理的なしくみによって成り立っているのかはよくわかっていないのである。*17

 「誰にムラムラするか」という〈性関係〉、ドキドキ(=恋愛感情)の関係がムラムラする関係に変換されたり接続されたりする〈性愛関係〉は〈性的欲望〉と関係しており、アセクシュアルが病理化される場合、そのような〈性的欲望〉が低下していると判断される。また、ペニスの勃起が病理化される場合、性器的興奮に問題があると判断される。

 

オートエロティシズムとオートセクシュアリティ

「私的セックス」は、いまでは「オートエロティシズム:Autoeroticism」と「オートセクシュアリティ:Autosexuality」の二通りの解釈が可能である。オートエロティシズムとはほぼマスターベーションと同義であるが、オートセクシュアリティは「他者よりも自分自身に性的に惹かれる性的指向」を意味する。これは他者とセックスしたくないというわけではなく、他者よりも自分自身との性的関係のほうが性的に興奮するというセクシュアリティである。*18

 性的指向という概念は今なお拡張されつづけており、他者との性的関係だけでなく自己自身との自己愛的な関係にも使用されるようになっている。したがって、マスターベーションをしているという客観的な事実だけでは、それが〈性行為〉なのか〈性的指向〉なのかはわからないのである。

 オートセクシュアルかどうかは不明であるが、シンガーソングライターのビリー・アイリッシュは自分自身の身体を愛する方法としてマスターベーションすることをすすめている。

… なかでも、マスターベーションが彼女に与えるプラスの面を力説する。「余計な情報だけど、セルフプレジャーは私の生活の大部分を占めていて、とても助けになっている。皆もマスターベーションをするべき。ずっと身体醜形障害に悩んできた私としては、強調したい」。彼女のおすすめは、鏡の前での行為だそう。「セクシーだし、自分自身や身体と深く生身で繋がることができる。これまではできなかったけれど、自分の身体を愛せる。鏡で自分を見て、きれいだなと思えることは本当に助けになる」… *19

 

「ポルノ」をどう考えるか

 私的セックスと公的セックスの大きなちがいは、〈性行為〉に他者身体を必要とするかどうかにある。公的セックスは〈性関係〉 になるため、市民社会のルール(=法の遵守)が適用される。

公的なセックスには、社会関係に関わるすべての市民社会的なルールが適用される。相手の合意がなければ夫婦のあいだでも「強姦罪」が成立するし、相手がいやがる性的アプローチは「セクシュアル・ハラスメント」となる。それらはこれまで、「プライバシー」の名で封印されてきたものだ。性関係は「プライバシー」どころではない。なぜなら性関係も複数の個人のあいだの社会関係の一種だからだ。*20

 

 したがって、2次元(漫画やアニメ)やモノへの性愛関係が性的指向に含められたとしても「小児性愛」(pedophilia)を性的指向として認めることはありえないのである。

 性行為に他者身体を介在させたとたんに、性関係という名の関係が成立する。性欲のなかには、性関係欲というものが含まれる。だが、他者が登場したとたん、それは自己完結する欲望ではなくなる。[…]いやがる相手の抵抗を排して性交したほうがずっと興奮するとか、子どもの無知や無垢につけこんでその身体を性的に玩弄したいという関係欲があったとしたら? ── それらの欲望をも、「性的少数者」の欲望の一種として、認めることができるだろうか?*21

 

「ポルノ」の問題を考えるうえでも、まずは〈性行為〉と〈性関係〉、私的セックスと公的セックスを区別することは重要である。私的セックスは〈性行為〉をマスターベーションに限定するが、公的セックスは〈性行為〉に他者身体を介在させる〈性関係〉である。ポルノを見ながらマスターベーションすることは〈性行為〉ではあるが〈性関係〉ではない。*22

[…] 欲望を持つことと、欲望を行為に移すこととのあいだには、千里の径庭がある。M君はスプラッタービデオのコレクターだったことがあとで判明したが、そしてビデオで見たように被害に遭った幼女のカラダを切り刻んだことが報道されたが、あまたのスプラッタービデオの愛好者がそのまま犯罪者になるわけではない。

 […] 想像力は取り締まれない。── それが多数派のフェミニストが暴力的なポルノの法的な取り締まりを求めることに、わたしが同調できない理由である。*23

 

「まずポルノはそれを不法化しても抑えることができません。そして私は『ポルノは理論であり、レイプは実践』だというマッキノンの主張に同意しません。インターネットであれ、DVDであれ、バーチャルな性的表現物をたくさん消費する男性が、実際の性生活で必ずしも積極的ではないという調査結果があります。」*24

 

 わたしは後述するようにシスヘテロ男性が執着している「ちんぽ脳」(=異性愛性交への執着)を批判している。厳密にいうと「ちんぽ脳」とは性欲ではなく「男らしさ」と結びついた性規範のことである。日本製ポルノ(いわゆるAV作品)のほとんどは「ちんぽ脳」を満足させるための作品になっているため、ポルノ問題をどう考えるかは重要なテーマになる。上野千鶴子がいうように《想像力は取り締まれない》し《欲望を持つことと、欲望を行為に移すこととのあいだには、千里の径庭がある》。ゆえに、わたしはそのような男性の性的執着を断ち切るためにポルノを規制したりポルノを利用しないマスターベーションを推奨したり禁欲したりすることが必要だとは思っていない。ポルノは「ちんぽ脳」を強化するかもしれないが、逆に「ちんぽ脳」からの脱却に寄与するかもしれない。

 フェミニストのレオノア・ティーファー(Leonore Tiefer)はポルノ規制に反対する論文において次のように述べている。

 セクシュアリティに関する研究および臨床実践を専門とするフェミニストおよび、心理学者として、私は女性たちの自由な自己表現の危機よりもむしろ明らかに性的な素材の抑圧から起きる危険のほうが大きいという結論にいたった。もし、ポルノグラフィと見なされる幅広いアイテムに何らかの共通性があるなら、それは「性の制限を超える素材」として述べられる。しかし、女性のセクシュアリティは抑制され、隠蔽され、そして抑圧されてきたので、必要とされるものは制限を超える多くの機会を持つことであり、それを減らすことではない。 *25

 

 ポルノグラフィを制限することで女性が被る三つ目の害は、イマジネーションに関する学習を妨げられるということである。反ポルノグラフィのフェミニストたちは、ポルノグラフィは文字通りに解釈されると論じる。[…]だが、現実に性的ファンタジーはこのように機能しない。 *26

 

[…]個人の主観的幻想とイメージの関係は微妙、かつ個別的である。人は、イメージをそれまでの経験によるコンテクストから翻訳するし、私たち一人ひとりが何をイメージするかは、まったく一般化できない。 *27

 

 日本製AV作品の性的スクリプトは男性向けにつくられており、そのほとんどは「ペニスの勃起‐挿入‐射精」という「ちんぽ脳」的パターンを繰り返している。これを文字通り解釈すればAVは「ちんぽ脳」を強化する。だが、ティーファーが言うようにAV作品は見るひとによって多様に解釈されうるし、作品のどの部分を性的素材として利用するかは見るひとの自由な想像力に任されている。見るひとは男優に同一化するか、女優に同一化するか、作品内部/外部からの第三者の視点で見るのか…。こういう見方の違いも見るひとの自由である。

 また、AVを見てマスターベーションすることと実際にセックスすることは、まったく異なる体験であるため、「ポルノは理論、レイプは実践」というふうに二つをつなげて理解することはできない。これを「スポーツ観戦/スポーツ実践」の比喩でたとえるなら、スポーツを観戦することと実際にスポーツすることはまったく異なる体験である。スポーツすることにまったく興味がないひとでもスポーツ観戦は好きかもしれないし、スポーツ観戦が好きでスポーツするようになるひともいるかもしれないが、だからといってスポーツ観戦からえられる喜びや興奮は実際にスポーツすることからえられる喜びや興奮とは違うであろう。そもそもスポーツ観戦とスポーツ実践は個人的体験としてまったく異なる世界なのである。すべてのスポーツ観戦者がスポーツ実践を目的にしているわけではないのだ。同様に、AVを見てマスターベーションする行為は実際のセックスとは異なっており、内容以前に形式として二つの体験的世界は違うのである。

 

 

 

「ちんぽ脳」からの脱却

 

セクシュアリティを書き換える

 最近出版された松浦 優 著『アセクシュアル アロマンティック入門  性的惹かれや恋愛感情を持たない人たち』(集英社 ,2025)では、ミシェル・フーコーを参照しながらアセクシュアル的な観点から「快楽の脱セクシュアリティ化」を模索している点が印象的だった。わたしがこの観点を最初に得たのは松浦理英子 著『優しい去勢のために(ちくま文庫,1997)を読んだときである。これに関しては『現代思想  総特集 フェミニズムの現在(2020年3月臨時増刊号)に所収されている郷原佳以の論文『非性器的センシュアリティを呼び戻すために──松浦理英子論序説』が参考になる。

 松浦理英子は愛犬家として知られているが、わたしも犬が大好きで、犬を見ると「撫で触りたい」という衝動に駆られる。このような衝動は「非性的な惹かれ」として経験され、「感覚的惹かれ」(sensual attraction)とか「接触の惹かれ」(touch attraction)と呼ばれている。*28

 松浦はエッセイ「性器のないエロス」において、従来のセクシュアリティ(性器的なエロス)にはおさまらない「エロティックなセンシュアリティ」を次のように説明している。

 ここでエロティックというのは、必ずしも性愛を連想させる事柄のみを指すのではない。直接性器に結びつかない感覚、皮膚がむず痒くなるような感覚だとか血管の引き締まる感覚だとか心臓に濡れ手を押しつけられるような感覚だとか眼球の裏側を舐められるような感覚等、快不快は別としてともかくもいくばくかの昂揚感を交えた生理的変化はすべてエロティックあるいはセンシュアルであると言える。*29

 

 郷原は松浦の「性器なきエロス」を「非性器的センシュアリティ」と呼び、《「センシュアル」というのは松浦自身が折々に用いる言葉だが、これを「官能的」と訳してしまうと語弊がある。文字通り「センス(感覚)」に触れる身体と魂の触れ合いが問題になっているのであり、それは「友愛」の関係でもある。》と述べている。*30

 ここで松浦理恵子を紹介したかったのは、松浦はアセクシュアルの観点から「性器なきエロス」や「非性器的センシュアリティ」に辿りついたわけではなく、性器結合的なセクシュアリティを批判する観点から「セクシュアル・スクリプト(性的脚本)の書き換え」を行っていたと思うからである。わたしはこの流れにアセクシュアルを位置づけたい。従来の「ちんぽーまんこ」のセクシュアリティを大きく書き換える「快楽の脱セクシュアリティ化」の可能性をアセクシュアルとともに考えたいと思っている。*31

 

異性愛性交

 20代最大の悩みはシスヘテロ男性特有のものだった。20代を通してずっと悩んでいたのは「自分は“インポテンツ”で性交できない」ということだったからである。今なら正確に記述できる。そのときの悩みは「性交したいのにできない」ではなく「性交しなければならないのにできない」ことだった。キスしたいとか性交したいとか思ったことはない。なのに、ずっと「性交しなければならない」と思っていた。そして、わたしは「性交しなければならない」という異性愛(性交)規範を問題にしたのではなく、「性交できない=インポテンツ」ということのほうに悩むことになる。

 結論から先に言っておくと、わたしは「インポテンツ」は異性愛規範がつくりだした「性的不能神話」であり、その状態は、ちんぽをまんこに挿入する際にちんぽが持続的に硬くならない現象を「ED(Erectile Dysfunction:勃起障害)」とよんでいるだけの「男性セクシュアリティの病理化」だと思っている。このような主張は、男性学でもアセクシュアル・コミュニティでもほとんどトピックになっていない。「インポテンツ」を性的スクリプトの書き換え(快楽の脱セクシュアリティ化)の観点から論じているのは、なぜか女性学研究者や女性フェミニストたちばかりなのである。

 

性交中心主義(=性器結合中心主義)

 わたしは「インポテンツ」は障害でも病気でもないという立場をとる。*32  まず「インポテンツ」という用語がおかしい。この言葉じたいが異性愛規範によってつくりあげられているのである。〈性行為〉としてのセックスには様々な方法があるのに、そのなかの「性交」(異性愛の性器結合=ちんぽとまんこの結合)というひとつの方法だけを規範化し、これができないと「インポテンツ=性的不能」と判定され治すべき病気とみなされる。性交できないなら他のセックスをすればいいだけなのに、である。(もちろん、その他のセックスもしたくなければしなくていい)。

 性交できない/したくないことが「病気」とされるためには、いくつかの前提条件が必要になる。その最たるものが異性愛規範と結託した性交中心主義である。性交中心主義は男根主義、婚姻制度、生殖主義、膣オーガズム神話などによって成り立っており、これらが異性愛規範とともに相互に支えあいながら強化されつづけている。極力「ED(勃起障害)」(ファイザーバイアグラを売り込むために広めた医療用語)を使用したくないのもそのためである。

 性交中心主義は性交をすべのセックスの中心(頂点)に位置づけ、そのほかのセックスを「前戯」とよんだりタブー化したりして周縁化している。そして、性交できない/したくないひとたちを「異常(=病気)」だとして問題化し、性交を人間ならだれもがしなければならない「正しいセックスの方法」にしたてあげているのだ。

 そう考えると、性交できない(したくない)シスヘテロ男性を「インポテンツ=性的不能」とみなす性規範構造はアセクシュアルのシス男性を生きづらくする構造とほぼ重なるのである。また、その構造は「性交できる異性愛者を標準とする社会」からズレるすべてのひとの生きづらさと関係がある。*33

問題なのは、異性愛/同性愛の階層秩序ではなく、「正しい」異性愛/それ以外のすべてのセクシュアリティの階層秩序ではないでしょうか。*34

 

 

〈「勃起‐挿入‐射精」=「正しいセックス」〉は[ヘテロ]セクシズムである

 以上の性器結合的な性交中心主義は、フェミニスト竹村和子によれば《性差別と異性愛主義を両輪とした[ヘテロ]セクシズム》によって再生産されている。*35

 近代の市民社会の性力学を構成しているのは、一方に性差別、他方に異性愛主義という別個の抑圧装置ではなく、性差別と異性愛主義を両輪とした[ヘテロ]セクシズムであり、ただ一つの「正しいセクシュアリティ」を再生産するメカニズムである。*36

 

… 規範として近代社会が再生産しつづけているのは、異性愛一般ではなく、ただ一つの「正しいセクシュアリティ」の規範ではないだろうか。*37

 

 

 そして「正しいセクシュアリティ」(=異性愛性交)を竹村は次のように説明する。

「正しいセクシュアリティ」とは、終身的な単婚(モノガミー)を前提として、社会でヘゲモニーを得ている階級を再生産する家庭内のセクシュアリティである。「正しいセクシュアリティ」は「次代再生産」を目標とするがゆえに、男の精子と女の卵子・子宮を必須の条件とする性器中心の生殖セクシュアリティを特権化する。したがって「正しい」性行為には、理念的には、かならず膣へのペニスの挿入と射精が伴わなければならず、それ以外の性行為は前戯であり、後戯であり、要するに、付け足しとみなされ、次代再生産をおこなわない・おこなえないカップルは ── たとえ合法化された夫婦であっても ── 不完全な形態だとみなされる。子供のいない夫婦、セックスレスの夫婦が、そのことによって「特殊」としるしづけられているのは、その証左である。したがって当然のことながら、ペニスと膣のどちらかを欠く同性同士のセクシュアリティは、異端として排除される。アナルセックス、フェラチオ、クンニリングス、相互マスターベーション等々しかおこなわない性行為は、「正しい」性のあり方ではないということになる。*38

 

「正しいセクシュアリティ」を最終的に根拠づけているもの、それが「ペニスの快楽」である。「ペニスの快楽」とは、「ペニスの勃起から始まり、膣への挿入を経て、射精オーガズムで終わる異性愛性交」のことであり「ちんぽ脳」とはそのような「勃起‐挿入‐射精」への執着ーとらわれーのことを言う。

 なぜ、「インポテンツ」を性的スクリプトの書き換えの観点から論じているのは女性の研究者や女性フェミニストたちばかりなのか──。その答えは以下の引用から理解できるだろう。*39

 異性愛の男と同性愛の女を分け隔てて、後者を倒錯化するには、異性愛の男のエロスをペニスの快楽だけに限定しなければならない。あるいは他のすべての快楽を二次的なものとして、最終的、理念的にはペニスの快楽に統合させなければならない。それ以外の性愛の実践 […] [多様で多義的なセクシュアリティを ] フェティシズムサディズムマゾヒズム、服装倒錯などという病理として排除しなければ、異性愛の男のエロスを同性愛の女のエロスから分離し、特権化することはできない。逆に言えば、男/女、異性愛/同性愛という階層秩序は、性差の非対称性、性対象の非対称性によってのみ成立するのではなく、現実に存在しているあらゆる形態の性実践や性幻想、また心遣いのすべてを、ペニスの快楽へと編成しなおし、ペニスの快楽以外のものを不完全で二次的な快楽として周縁化する巨大なエロスの解釈地図によって生み出されるものである。*40

 

「ちんぽ脳」から脱却するために

「ちんぽ脳」とは、《現実に存在しているあらゆる形態の性実践や性幻想、また心遣いのすべてを、ペニスの快楽へと編成しなおし、ペニスの快楽以外のものを不完全で二次的な快楽として周縁化する巨大なエロスの解釈地図によって生み出されるもの》である。ここから「性交したい/したくない」という〈性欲望‐性実践〉レベルの有無が「性交できる/できない」という〈性的能力〉の有無に変換されてしまうのだ。「ちんぽ脳=男らしさ=ホモソーシャル」が「男らしさの能力(Potenz:ポテンツ)」と強固に結びつき、「インポテンツ(Impotenz)」が致命的な欠陥(障害や病気)のようにだけ解釈され、バイアグラその他の薬剤によって「治さなければならない病気」だとみなされる。男根主義的に「正しいセクシュアリティ」を規範として維持するために──。

 したがって、シスヘテロ男性が「ちんぽ脳」から脱却することは、同時にホモソーシャルからの脱却を意味する。まずは「童貞」「非モテ」「インポテンツ」といったシスヘテロ男性の〈性的能力〉と関連づけられた「男らしさ」──男性セクシュアリティと男性ジェンダーとの相互補完的関係──を見直すところからはじめなくてはならないと思う。

 

エイブリズム(ableism)の原点にペニスの能力化」がある

「インポテンツ」という言葉が使用されるようになったのは17世紀になってからのことだった。しかし、《歴史家の発見によれば、紀元前七世紀のメソポタミアの文献に、性的な力を回復するため、男達は様々な植物の根や葉を摂っていたと書かれている》。*41 また、《二◯世紀までの社会通念では、セックス=結婚=子づくりは切っても切れない関係にあったと、複数の歴史家が語っている。だからインポテンツは、性交ができるかどうかだけではなく、男性が結婚して子供をもうけることができるか、という意味で長い間議論されていたという》。*42 その後、バイアグラが発売する前後で「インポテンツ」という用語は論文各所から姿を消し、そのかわりに「ED」という医療用語が使用されるようになる。*43

「ペニス:陰茎」とは実在としての男性性器のことであるが、「ファルス:男根」は「力の象徴=男らしさの能力」をさす。したがって「インポテンツ」という用語が誕生するためにはペニスはペニスのままではなくファルス化(能力化)される必要があり、性交したり結婚したり子供をつくったりすることが男性の「性的能力」だと解釈されるためには、「したい/したくない」という欲望の問題が「できる/できない」という能力の問題としてだけ理解される必要がある。そうなるためには「男性は〜しなければならない」というジェンダー規範が社会的に存在していなければならず、このような「しなければならない」という規範は男性ジェンダー(男らしさ)と男性セクシュアリティを結びつけその結節点に致命的な問題として「インポテンツ」を位置づけるのである。*44

 障害学では「能力」は個人の身体内部に秘められている力(個体能力観)ではなく、関係的で社会的なものであると考える。おそらく、個体能力観の原点に「ペニスのファルス化」があったと思われる。現に歴史的に「インポテンツ」の治療はアンチエイジング(若返り)やエンハンスメント(能力増強)とも関係が深く、ここからヘルシズムやエイブリズムの発想につながっていったとも考えられるのだ。

 

「女性のセクシュアリティ」を優先して考える

 シスヘテロ男性が「ちんぽ脳」から距離をおく第一ステップは、まずは「女性のセクシュアリティ」を優先して考えることにあると思っている。たとえば、シェアー・ハイトが1976年に発表した『ハイト・リポート Part1/Part2』(パシフィカ,1977年)は、男性にとってもいまだに重要な作品である。この本はたちまち全米で大ベストセラーになったが、ハイトはリポート内容への反発や不満から誹謗中傷や殺害脅迫などにあい、一時的に米国にいられなくなり、のちにドイツに移住することになった。(Shere Hite - Wikipedia)

 このリポートは対面調査ではなく、1972年以降、全米の女性にあらかじめ質問紙を配布して郵送によって回答をえるという方式で調査されている。対象年齢は14歳から78歳までの3019名。まず画期的だったのは年齢を78歳まで引き上げた点である。*45

 ハイトはまえがきで次のように述べている。

 女性はこれまで、セックスについてどう感じるかをたずねられることはなかった。研究者たちは統計的な“平均”のみを追い求め、およそ誤った理由のための誤った質問を繰り返してきた──そうして結局は、女性にどう感じるかをたずねるのではなく、どう感じるべきかを教えることに終始してきたわけである。そこでは女性のセクシュアリティは本来、男性のセクシュアリティと性交に対する反応とのみ見なされてきているにすぎず、それ自体、単なる男性のセクシュアリティの対応物としてではなく、複雑な本質を持つものとして理解されたことは、ほとんどなかったのだ。*46

 

 この調査で印象的だった点については雑誌のインタビューにこう答えている。

「かなり多くの女性たちにとって、性交はオーガズムを得るうえで有効な方法ではない、ということなんです。数字的にいうと、一般的にいわれているセックス、つまり膣へのペニスの挿入でオーガズムに達するという人はわずか30%しかない。22%は“時どき”、19%は性交中にクリトリスへの刺激(手による)が必要だといっているんですね。しかも29%の人は、全然オーガズムを感じないといっている……。つまり直接的なクリトリス刺激が、いつもオーガズムを得るにはどうしても必要だということなのです。この調査で明らかになったのは」

 

──と、いうことはつまり、マスターベーションこそが女性のセクシュアリティを理解するカギだ、ということですか。

「そうです。これは男性のセクシュアリティについてもいえることですけどね。マスターベーションしているという女性は80%、そのうち90%はいつもオーガズムを得ているといっているんです。だとしたら、パートナーとのセックスで、この知識を利用しない手はないとわたしは思いますね」

 

──だとしたら、女性たちは男性にこのことについてはっきりといったらいいと思いますけど。それがいえないのはどういうわけなんでしょうね。

「女性たちが必要としているものと、社会がわたしたちに期待していることとのあいだに矛盾があるからだと思いますね。男に嫌われ、その結果、経済的基盤を失ったりしたら……という“歴史的な恐れ”、わたしたち女性を性的奴隷の状態に置いているものはこういうものなのです。」*47

 

 この調査結果からわかったことは、女性は男性の「ちんぽ脳」に苦しめられているということだった。目次もそれにそったかたちで、「1章 マスターベーション、2章 オーガズム、3章 性交、4章 クリトリスへの刺激、5章 レズビアン、6章 性的奴隷、7章 性の革命、8章 年とった女性たちの性、9章 新しい女性のセクシュアリティのために 」となっている。特に最終章では、「セックスを定義しなおそう/性交の未来/タッチング(触れること)もセックスである」という小見出しになっており、結論としては性交中心主義やオーガズムを絶対化するセックスから距離をとっている。

 これまでにはっきりしたことだが、わたしたちの文化において、広く一般に知れわたっている性関係のパターンは女性を食いものにし、圧迫を加えている。「前戯」、「挿入」そうして「性交」(スラスト運動)、続いてこの一連の行為のクライマックスおよび終結としての男性のオーガズム──これでは女性がオーガズムに達するチャンスはほとんどないのである。そうしてこの一連のパターンはほとんどいつも男性のコントロール下におかれており、しばしば、女性を非人間的に悩ませてきたものであった。一言でいうと、男性の性的欲求を満たす以外の、女性の性的感情は、制度的に禁止されてきているということなのである。

 この点については多くの女性が、つぎのように自分たちの欲求不満を表現している。「わたしにはさっぱりわからないんです。男性のオーガズムは毎回必ず起きるものと決まっているのに、なぜ女性だけが、オーガズムのためにがんばらなくてはならないのでしょう? 現在のような男女間のセックスとは、男性のセックスなり、と定義できるわけですね。」[…]「彼らのいうセックスとは、ひとりの人間の満足のために二人の人間が従事する行為なんです。」*48

 

 以下は、非性交的なセックスをしている女性の発言。*49

 四年間ボーイフレンドとつき合っていますが、わたしたちはファックすることをほとんどやめています。わたしにとって価値がないからです。わたしがいやなら彼もわたしにそれを無理強いしません。避妊の問題やらオーガズムの有無やらを考えると、まったく無駄なことだと思うのです。[…]それなしでも彼は達するし、わたしも堪能しているのです。妊娠の心配もありません。このやり方はいいと思っています。*50

 

 最後に、ハイトが「快楽の脱セクシュアリティ化=セクシュアリティの書き換え」を主張していたことを以下の引用で示しておく。

〈女性はいつも性交を望んでいるか〉

 女性たちは前戯、挿入、射精という古い機械的パターンに退屈しているだけでなく、その多くは常時性交をすること、はじめからわかっている結論として性交をすることを、機械的なもので、不快であると感じているのである。性交がすべてのヘテロセクシュアルな性的出会いの一部でなければならないという前提に立つかぎり、性関係の古い機械的パターンが除かれる道はほとんどない。性交は男性のオーガズム(ふつう性行為の終わりのしるし)へと進むのがふつうだからである[…]

 だが、ヘテロセクシュアルな性関係が制度化されたものでないとするならば、性交は既定の結論ではないはずだ。また「セックス」の終結としての性交における男性オーガズムを、既定の結論とする理由もない。女性は、自分が性交を望まないならば、たとえ男性と肉体的に接触しているときであっても、性交をしない権利を主張すべきなのである。クリトリスへの刺激をともなう、ともなわないにかかわらず、自己のオーガズムへ至る性交を期待することが、なぜ男性の「当然」なのだろう。そうして性交なしのオーガズムへ至るクリトリスへの刺激を期待することが、なぜ女性の反逆なのか。

 この本でわたしたちが考えている変革は、「女性もオーガズムを必要とする」という考え方よりもっと深いものなのだ。それは、女性がオーガズムを感じたのちに男性が感じるべきだとか、その逆だといったような問題ではない。オーガズムを目標として固定することも、また肉体関係を機械的パターンに統一することになるからだ。

 事実、セックスは必ずしもオーガズム、あるいは性器の刺激を目的とする必要はないのだ。肉体的に他人と関係をもつ方法は、ほかにいくらでもある。男性のセクシュアリティもまたほかの多くの選択が可能となるように拡大されるべきである。現在一般に考えられているように、性交とオーガズムにヒステリックに固着させる必要はないのだ。

 ほんとうに必要なことは、セクシュアリティ全般についての定義のしなおし(いいかえると、いっさいの定義の放棄)であり、肉体関係についてのわたしたちの意識を別のレベルまで拡大することなのである。*51

 

[…]

 

 結論的にいえば、女性たちが自分が性交を強制されていないとわかっても、なおかつ性交を望むかどうかという問題に答えるためには、女性一般が性交を望むかどうかではなく、それをひとりひとりの女性の個人的選択の問題としてとらえることが重要なのだ。彼女が性交を望むか否かは彼女自身の選択であり、彼女が男性と肉体関係をもつためにしなければならないものではないのである。

 だから、肉体的な接触の好ましい一形態としての性交は、人びとが選択する一方法にすぎなくなるものと思われる。しかしながら、それが接触の唯一無二の形式である、ということはもはやあり得ない。それは可能なかぎりの肉体関係の全様相のなかでの多くの選択のなかの一つであり、特に強調されるべきものではなくなるだろう。ヘテロセクシュアルな性交というものは、その定義が狭すぎるので、大多数の人間がほとんどの場合に行うセックスの唯一の定義にはなりえないのだ。*52

 

おすすめ作品

 最後におすすめの作品(映画や小説)について簡単に紹介しておこう。

 まずは、窪美澄よるのふくらみ(新潮文庫,2016)。どちらかというと反面教師的な作品としておすすめである。「インポテンツ」の男性が幼なじみの女性にふられる。別れの理由は、女性は性交したがっているのに男性はそれに応えようとしない、という点にあった。男性は最終的に風俗で働いている女性とつきあうことになるのだが、この女性はセックスに消極的で、べつに「インポテンツでもいい」というのである。だがしかし、この小説のラストは、諦めかけていた「インポテンツの治療」を再開するというものだった。著者が何を意図していたのかまったくわからないが、ここまで男性の「ちんぽ脳」を忠実に描く必要はなかったのではいか。とりあえず男性の「インポテンツ」がマジョリティ作品でどのように描かれるのかを知るうえではこの作品を読むのが手っ取り早いと思う。

 つぎに、凪良ゆう『流浪の月(創元文芸文庫,2022)。映画化もされた有名作品。映画のほうがおすすめである。主人公の男性はおそらく「インターセックス」だと思われるが、映画では最後のほうで全裸になり次のようなセリフを述べる。《いつまでも 俺だけ大人になれない 更紗はちゃんと大人になったのに 俺はハズレだから こんな病気のせいで... 誰にもつながれない...》。最後の部分の「誰にもつながれない」という嘆きが異性愛性交の規範の強さを物語っていると思う。ここで紹介したい人物がいる。自閉症の反病理化運動の先駆者であるジム・シンクレア(Jim Sinclair)だ。シンクレアは「インターセックス」でアセクシュアルを自認してもいた。シンクレアの書いたエッセイはいまでもアーカイブスで読むことが可能で、『流浪の月』の主人公といかに違っているかを知ってほしい。*53

 最後に、朝井リョウ正欲(新潮文庫,2023)。こちらも映画化された有名な作品で、映画や原作では述べられていないものの主人公は「アセクシュアル」でもある。異性愛があたりまえである世界で、そこからはみ出る人間が「宇宙人」のようになってしまうことが詳細に描かれている。この点に関してジュリー・ソンドラ・デッカーは次のように述べていた。《…アセクシュアルの人でも、性行為をせずに満足できる倒錯プレイを見つけることができます。/少数ではありますが倒錯趣味やフェチプレイを好むアセクシュアルの人が存在することを認識することが重要だと思います。そしてそういう嗜好があっても、アセクシュアルでないということではありません。…アセクシュアルのためだけのフェチ団体だって存在するのです。》*54

 

【脚注】

*1: ジュリー・ソンドラ・デッカー『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて  誰にも性的魅力を感じない私たちについて』(明石書店,2019:157)

*2:レオノア・ティーファー 『セックスは自然な行為か? 』(新水社 ,1998:249)

*3: (前掲書:177)

*4:この記事はアセクシュアルを中心にセクシュアリティを再考することを目的にしている。以下で述べる性的指向の説明も「アセクシュアル性的指向である」という観点から旧来型の性的指向の定義を優先して書いている。

*5:性的指向と同様に、誰を性的に好きになるかは選択の結果ではなく非選択的な出来事(運命的な出会い)によって決定されると考えるひともいる。しかし、「別れる」という決定が可能である以上、誰と性的関係を結びたいと思うかどうかは選択の問題に還元されうる。関係を結ぶきっかけが非選択的な出来事(出会い)だったとしても、関係を維持し続けることは通常は選択的であり、そのふたつは連続した今ある関係性に還元されるからである。また、マッチングアプリ全盛の時代、「非選択的に誰かを性的に好きになる」という考え方はあまりにもロマンチックすぎると思われる。

*6: 上野千鶴子女ぎらい―ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店 2010:75)

*7:心理学辞典(有斐閣,2002:550-1)

*8:対人的魅力の心理学』(誠信書房,1978)

*9:「愛の研究」のきっかけをつくった《愛情と好意は別次元だと主張するルビン(Rubin,Z.1973)の研究》は、『愛することの心理学(新思索社 ,1991)として翻訳されている。その他の文献ではスーザン・ヘンドリック/クライド・ヘンドリック『恋愛・性・結婚の人間関係学: 親密関係の社会臨床心理学ハンドブック(川島書店 ,1998)や同じ著者による『恋愛学講義(金子書房 ,2000)がおすすめである。

*10:対人的魅力の心理学』(誠信書房,1978)

*11:  アンジェラ・チェン『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(左右社,2023:345)

*12: 上野千鶴子『女ぎらい—ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店 2010:75-6)

*13:[上野,2010:76]

*14:[上野,2010:77]

*15:[上野,2010:91]

*16:もちろん、たとえ性器的興奮と性的興奮が連動していたとしても、オーガズムに達しない場合もある。

*17: 女性向けバイアグラ臨床試験によっても性器的興奮と主観的興奮の乖離が報告されている(メイカ・ルー『バイアグラ時代――“魔法のひと粒”が引き起した功罪』作品社,2009:200-203) 。

*18:「オートセクシュアリティ」にかんしては次の記事を参照した・'I'm autosexual and I fancy myself more than other people'(BBC)・What Is Autosexual?(webMD)・Autoeroticism(wikipedia)

*19:ビリー・アイリッシュ、「セルフプレジャーは私の生活の大部分を占めている」』(Vogue Japan,2024年)

*20:[上野,2010:77]

*21:[上野,2010:78-80]

*22:ここで念頭においている「ポルノ」とは、合法的に制作されたポルノ作品に限定し、主にアダルトビデオ(AV)のような作品群のことである。

*23:[上野,2010:79-80]

*24:上野千鶴子さんインタビュー@韓国・IF |」(ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network) 

*25:レオノア・ティーファー 『セックスは自然な行為か? 』(新水社 ,1998:176)

*26: (前掲書:180‐1)

*27: (前掲書:171)

*28:しかし、もし動物性愛者だったなら動物を撫でる行為も性的な行為になりうるだろう。ある行為が性的体験となっているかどうかは他者からは知り得ない以上、わたしたちがある行為を性的行為と判断するかどうかは、その社会の文化や法律などによってある行為が性的行為であると規定(規範化)されているかどうかによる。今のところ多くの社会では「かわいい」という理由から動物を撫でる行為は性的行為だとは解釈されていない。(江原由美子は「セクシュアル・ハラスメントの社会問題化──性規範との関連で」(『フェミニズムのパラドックス: 定着による拡散勁草書房,2000年)という論文において、ある行為の意味的解釈を可能にする規範のことを「解釈装置としての規範」と定義し、セクシュアル・ハラスメントについて分析している。)

*29: 松浦理英子 「性器のないエロス」『優しい去勢のために』(ちくま文庫,1997:79)

*30: 郷原佳以「非性器的センシュアリティを呼び戻すために──松浦理英子論序説」(『現代思想  総特集 フェミニズムの現在』(2020年3月臨時増刊号:107)

*31:シェア・ハイトは『ハイト・リポート Part1』で「官能的(センシュアル)」と「セクシュアリティ」を次のように区別していた。《官能(拡散していて焦点の定まっていない肉体的感覚)とセクシュアリティ(オーガズムへの動因)とのあいだには決定的ともいうべき断絶があるように思える。そうして、オーガズムを得るためには、まずたいていの場合、これらの二つを一つにすべく、頭を使い、働かせ、気持を集中させることが必要なのだ。》(パシフィカ,1977:271) ハイトはこの本の結論部分で「センシュアル」を「セクシュアル」に統一するオーガズムへの道ではなく、官能的なタッチングの重要性を強調することになる。したがって、ハイトはこの本ですでに「快楽の脱セクシュアリティ化(=セクシュアリティの書き換え)」を主張していたことになる。

*32:もちろん、「性交したいのにできない」ことに悩み、パートナーと相談したうえでカウンセリングやクリニックに行くことまで否定するつもりはない。

*33:「インポテンツ」とアセクシュアルの男性は同じ性規範──性交しなければならない──によって苦しめられているにもかかわらず、アセクシュアルを肯定的なアイデンティティとして主張するために「自分はインポテンツではない=病気ではない=健康である」と健常性を強調することがある。このように、セクシュアリティの病理化=規範化に抵抗するために正常性や健常性を主張することは、さらなる男性セクシュアリティの病理化=規範化に加担することを意味する。また、セクシュアリティを健康さの文脈でとらえることはヘルシズムやエイブリズムへの道につながってしまうので注意が必要である。これにかんしては、ユンジュン・キム「セックスは健康のために必要か?──無性愛という喜び」(『不健康は悪なのか――健康をモラル化する世界』,みすず書房,2015:186)が参考になる。

*34:ラディカルに語れば… 上野千鶴子対談集』(平凡社 2001:201)

*35: 竹村和子愛について アイデンティティと欲望の政治学』(岩波書店 2002)

*36: (竹村 2002:40)

*37: (竹村 2002:37)

*38: (竹村 2002:37-8)

*39: この竹村の引用を読んだうえで、以下の上野千鶴子の主張を読むと、たとえフェミニストであったとしても、得てして「ちんぽ脳」に加担してしまうということがわかる。

 たとえば親しい女友だちが非常に悲しんでいるとき、私が彼女をどんなに抱きしめて慰めてあげても、女だというだけで彼女の核心に届かないというときに、マラ1本あればすむな、男に抱かせるのがいちばんだな、と思うときがあります。そのときに自分の男を貸し出してやりたい、それですむならいくらでも貸してあげる、それで幸せな気持になるんだったら、私を幸せにしてくれた男だから間違いない、そういう気持があります。ほんとうに嘆き悲しんでいる女には、なにか内側に入り込んでくれるものがなければどうしようもないときがあって、女の私にはできないけれど、男だったら、と思うからです。(『スカートの下の劇場』(河出文庫 1992:118‐9))

 これにたいして掛札悠子は次のように反論している。

 この一文は、レズビアンに対する無知と同時に、異性愛者の女性の間や異性愛者と同性愛者の女性の間、さらには同性愛者の女性の間に存在する共感を無視する態度をさらけだしている。「ほんとうに嘆き悲しんでいる女」の核心に届くことは「女の私にはできない」と言う。これは「女」がある欠落を抱えている存在であり、その欠落は「女」には埋めることができないと、男に向かって宣言していることになる。実際は、この「女は欠落を抱えた存在で、それは男にしか埋めることができない」という嘘が、まさに女を心理的な弱者という状態においこむために、長い間、男によって言われてきたというのに。そして、[…]一般的な「女と女」の関係はもちろんのこと、レズビアンの関係も欠落した部分のある不完全なものだという印象を決定的にする。[…]

 さらに、ここでは人間の間に生まれる共感と一人一人の人間がもっている性的な指向性が混同され、すりかえられつづけている。嘆き悲しんでいる女性に対する慰めが、なぜ性的な行為、それもペニスで女性内部に「入り込」むことへとつながるのだろう。ある人がおかれている立場や状況に対する共感は、性的な興味や欲求とはまったくべつのものだ。そして、おかれている立場や状況から生じる怒りや悲しみ、絶望感、欠乏感などは、性的な行為で埋められるものではないし、埋めるべきものでもない。そしてまた、「ペニス」を絶対視するこの態度はいったいなんだろう? 「男を貸し出す=ペニスを貸し出す」だというなら、異性愛の女性にはお気に入りのバイブレーター一本あれば十分だということにもなってしまう。それに、ペニスが使えない男はここでは用なしだ。

 上野さんが自分自身についてどう思っているにせよ、この論理を「女は」という主語ですすめるのはいささか無理がある。これではまるで、男の願望として描かれてきた「ハーレム」を女が追認しているように見えてしまう。そして、女が男を介さずにつながることを禁止され、男を間にして女と女が反目しあうようにしむけられてきたこれまでの歴史が忘れられてしまう。『「レズビアン」である、ということ』(河出書房新社,1992:38-9)

 

*40: (竹村 2002:129-30)

*41:アンガス・マクラレン『性的不能の文化史―“男らしさ”を求めた男たちの悲喜劇』(作品社,2016:10)

*42:[アンガス・マクラレン,2016:11]

*43:おそらく男性のアセクシュアルも歴史的には「インポテンツ」に含められていたと思われる。時代によっては男性同性愛も「インポテンツ」として病理化されていたからだ。[アンガス・マクラレン,2016:238,240,242]

*44:カウンターセックス宣言』(法政大学出版局,2022年)でポール・B.プレシアドはセックス/ジェンダー・システムを生体書き込みシステムであると捉え、《カウンターセクシュアリティの任務は…異性愛中心主義的な生体書き込みマシーンから逸脱する力を増大させることである》と述べている。そして、本書でプレシアドは、ディルドはファルス化されたペニスの代理ではなくむしろ《ディルドはペニスに先立つ》と主張し、「ペニスのファルス化」の幻想性を次のように批判する。

 初期のフェミニズム系のクィア理論は、ファルスとペニスのあいだには距離があること、そしてこの距離は、レズビアンのセックスによって克服し、再領土化し、打倒することができることを証明しようと試みた。ディルドはファルスではないし、ファルスの代理でもない。なぜなら、ファルスは──きっぱりと言おう──実在しないからだ。ファルスとは、異性愛規範的な家父長制文化の内部における、ペニスの幻想的・政治的な仮構物の実体化以外のなにものでもない。本当に問題にすべきは、現代解剖学の地図のなかに男性の覇権権力が書き込まれていることである。[プレシアド,2022:91]

*45:イカ・ルー『バイアグラ時代――“魔法のひと粒”が引き起した功罪』(作品社,2009:136‐137)

*46:[ハイト,1977:1]

*47:[ハイト,1977:6-7]

*48:[ハイト,1977:363]

*49:ガブリエル・ブレア『射精責任(太田出版,2023)では、様々なエビデンスをもとに「男性は女性と性交したいなら避妊せよ」と訴える内容であるが、非性交的なセックスが妊娠を回避する有効な方法であるということまでは述べられていなかった。

*50:[ハイト,1977:543−4]

*51:[ハイト,1977:533‐4]

*52:[ハイト,1977:五542−3]

*53: 次のサイトでアセクシュアルにかんするアーカイブスが見れる。ジムシンクレアの記事はこのサイトからアクセス可能である。・Ace Archive - Asexual and aromantic history 

*54:ジュリー・ソンドラ・デッカー『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて  誰にも性的魅力を感じない私たちについて』(明石書店,2019:61‐2)