おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想。

【小説】白石一文『僕のなかの壊れていない部分』/「死」や「生」について思索する恋愛小説

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 出版社に勤務する29歳の「僕」は3人の女性と同時に関係を持ちながら、その誰とも深い繋がりを結ぼうとしない。一方で、自宅には鍵をかけず、行き場のない若者2人を自由に出入りさせていた。常に、生まれてこなければよかった、という絶望感を抱く「僕」は驚異的な記憶力を持つ。その理由は、彼の特異な過去にあった。——生と死の分かちがたい関係を突き詰める傑作。

 

思索的で理屈っぽい小説

 2002年に刊行された恋愛小説。

 白石一文さんの長編第三作目にあたる。

僕のなかの壊れていない部分 (光文社文庫)

僕のなかの壊れていない部分 (光文社文庫)

 

 

 解説(重里哲也氏)は白石作品の特徴を次のように述べています。

「主人公が自分の胸に自問する。登場人物が議論する。そんな自問や議論に誘われて、読者は人間存在のありように思いをはせ、人生の価値を考える。そんなふうに読者の背中を押す作品群だ。」373*1

 

 まさにその通りだと思います。

 白石さんの小説は、登場人物が内省的で、思惟や思索を行いながら人生について真剣に考えるものが多い。だから科白の中で哲学的なことを話したりします。これが一部の読者からは理屈っぽくて学術論文を読んでいるようだと批判されることもあるそうです。

 それには僕もまったく同感。恋愛小説としてはあまり面白いとは思っていません。単に僕は、主人公が内省的な考えを吐露する部分を読みたいだけです。恋愛的な部分よりも、主人公が懊悩している姿をただ観察したいだけ。そこから生みだされるほんとうの言葉を知りたいだけです。

 

三人の女性と同時に付き合う「僕」

 主人公は「僕」の一人称です。名は「松原直人」。29歳 東大卒の出版社勤務。ピカピカのエリート。(ちなみに白石作品にはこういうエリート会社員が多い)

 「僕」の母はシングルマザー。貧困家庭に育ちました。幼いころの「原体験」がこの小説のひとつのキーになっています。「僕」が悲観的な人生観をもっているのも幼いころのトラウマに由来していると思われます。

 この男はエリートであるうえに、三人の女性と同時並行的に関係をもっています。

 一人目の女性が「枝里子」。彼女は26歳で美人。ファッション関係の仕事をしていてフリーのスタイリストをしています。(いまいちよく分からない職業ですが、なんとなくカッコイイ感じの仕事のようです)

 二人目の女性が「朋美」。34歳スナック経営。4歳の息子がいるシングルマザー。

 三人目の女性が「大西昭子」。貿易商の妻でマダム系。主人公とはセフレのような関係です。

 

 羨ましいかぎりですが、しかし「僕」はまったく幸福ではありません。生きることに対して常にある種の不全感を抱いています。生きること、死ぬことについて実存的な苦悩を感じているのです。

 この段階で主人公は既に「哲学病」であると分かります。だから「治癒」はありえない。「死」の問題を何か(恋愛など)で埋め合わせることなんてできないからです。

 三人の女性と同時につきあっている主人公の「僕」は、焼き鳥屋で働いている20歳の「雷太」、その彼女で女子大生の「ほのか」と、奇妙な同居をしています。

 物語はその同居している二人と、枝里子を中心として動いていくのですが、そのほとんどが主人公の「生」と「死」と「幸福」にかんする思索的な科白や議論が中心になっています。

 

 以下で小説を読んで印象的だった部分を紹介、引用いたします。

 

老いることも、死ぬことも生半可ではない

 主人公がある女性ノンフィクション作家(おそらく久田恵さん)の作品を読む場面。

 娘が母の死を看取るくだりが紹介されています。(『母のいる場所』久田恵 著)

 とても衝撃的で心に深く突き刺さりました。

 

 朝七時半を過ぎた頃だ。医師から電話があった。変わりはないが、ずっと息が苦しそうなんです、と言うと、朝一番で看護婦をこちらから派遣すると言われた。

 

 その直後だった。母の呼吸がさらに激しくなった。まるで、急な坂道を必死であえぎあえぎ登る機関車のように、シュワーッ、シュワーッと息を吐き、身体が持ち上がり、胸が大きく波打った。その激しさに思わず、横たわる母に抱きつき「おかあさん」と呼んで必死で抱きかかえた。私の腕の中で母が深々と息を吸い、胸がきしみ声をあげた。そして、突如、機関車が急停止したように母の息が止まった。一瞬、あたりが静寂に包まれ、母の口許から管がぽろりと落ちた。

 

「お父さん、お母さんの息が止まった……

 父は茫然自失してそこに立っていた。それから「そうか」と言った。

 老いることも、死ぬことも生半可ではない。どれほど困難なことなのか。家族がいようといまいと、かたわらに誰がいようといまいと、結局は孤独な一人の戦いで、誰もがそれを自力で乗り切らねばならない。

 

 だから、「人が死ぬということは、こういうことなのよ」と母はこの日、私にしかと教えてくれたのだ。

 大丈夫。やれる。きっと。お母さん、あなたのように、私も。同じようにやれる。52−

 

 

生存のまごうかたなき骨組を、老・病・死の「苦」とうけとめた

 主人公の回想として登場する女性仏教者(おそらく江原通子さん)が釈尊の教えについて説明する場面。(『落花芳草』江原通子 著)

 仏教的な死生観が見事にわかりやすい言葉で表現されています。

 主人公はこの死生観に感化されたようです。

 

生きるということは、そういうことだったのだ、人間存在から、若さや、美しさや、愛や、情念や、富や、地位や、世間的能力など、うつろい行くものすべてを、ささらでも使って根こそぎかき出してみれば、あとに残る骨組は、万人共通の老・病・死があるばかりだったのだ。自分をはじめ人は誰でも、老いに直面し、病に直面し、死に直面してみてはじめてそのことに気がつく、いやもしかしたら、気づくことさえなく死ぬのかもしれない。

 

 それに対して釈尊は、漆黒の髪を持ち、人生の花開いた美しい青春の日に、生存のまごうかたなき骨組を、老・病・死の「苦」とうけとめた。しかもそれを、生存するものすべて(一切衆生)の苦ととらえ、その苦を超える道を求めて出家された。若き日の釈尊は老・病・死が万人にとってまぬがれがたい真実であるにもかかわらず、人がそれをいとわしく思う底に、

 若さには 老いに対する

 健康者には 病者に対する

 生きているものには 死者に対する

 無意識の優越感、傲慢の思いがあるということに思い至ったと伝えられる

 

老・病・死をかかえこんだ髑髏(どくろ)にいのちの衣をきせたのが「生」というものであるならば、ひとときまとうその衣は、出来得れば美しくたおやかでありたい。

 日々に生きゆく姿は、日々に死にゆく姿だと思えば、ものみな有難い。

 活き活きと生きゆくことが、活き活きと死にゆくことだと納得すれば、心やすらぐ。81−

 

 

運に対しては無力である。生かされている限り生き、そして死ねばよい

 戦争経験者の小説家 古山高麗雄の言葉が紹介されています。(『物皆物申し候』妻の部屋 遺作十二篇 より)

 人生には自分でどうにかできる部分と、自分ではどうすることもできない部分がある。この考え方に納得させられました。あと、ポジティブで明るい前向きな人生観に異議を呈しているところ(松岡修造的人物像へのアンチテーゼ!)も見逃せないポイントです。

 

私は、運にはカブトを脱いでいる。運も実力のうち、だとか、運は自分できりひらくもの、だとか、そういう思考は私にはない。運は、人の手に負えるものではない。私たちは、それに翻弄されながら生きるしかない。

 

 人は偉そうなことを言い、他の動物とは格段の差のある生物なのだろうが、運に対しては無力である。人は、自分たちが、もろく儚い存在であることを自覚しながら、生かされている限り生き、そして死ねばよい。前向きに考えなければいけないとか、年をとっても生き生きいきろ、だの、そういったことを人はいろいろと言うけれども、自分がそう思ってそうすることはいいが、他人にまでそれを強いるな。

 

人はなにも、みんなそろって前向きに考えなくてもよい、生き生きと生きなくてもよい、陰気に生きてもいいし、酔生夢死で終わってもいい。どう考え、どう生きるかはその人の勝手だ。だが、思うようにならないこともあるのが生物である。思いが叶わないときは諦めるしかない。104−

 

 

家庭を持ち、ずっと一緒に暮らしていきながら、僕たちは一体どこへ向かって行くんだい

 これぞ「白石一文」というくだり。

 セックス後の気だるさから始まり、「生きること本体の深い意味」を問うことを経由して「死」の問題へと至り、二人で一緒に生きていくことの意義や枝里子に対する不満(考えずに感じているだけ)を見いだす場面です。実際にこんな男がいたらかなりウザいでしょうね。

 

 長いセックスのあと、枝里子は気だるくなるという。僕も同じだ。そして僕は考える。この破廉恥な人を人とも思わぬ行為の先には一体何があるのだろうと。これは一体何だろうと。すると枝里子は言う。その気だるさを否定的に捉えてはならないのだと。そして、そんな暗く湿った後ろ向きの疑問に拘泥すると人間は生きる意欲を失ってしまうのだと。たしかにその通りかもしれないと僕も思う。だが、すぐさま、次の疑問が浮かんでくる。じゃあ、生きる意欲を失ったからといって何があるのだと。

 

 僕が知りたいのは、意欲、慰め、ゆとり、安らぎといった感覚的なことではない。僕は枝里子と会うたびに、一緒に寝るたびに心の奥底でいつも彼女に向かって問いかけている。僕はきみとずっと一緒にいることで、一体どうなるのだろうかと。僕たちは二人でいることで、生きる意欲やゆとりや安らぎや慰めを超えて、生きること本体の深い意味にどこまで近づくことができるのだろうかと。きみはその点について僕にどのくらい保証を与えてくれるのだろうかと。

 

 ——家庭を持ち、ずっと一緒に暮らしていきながら、僕たちは一体どこへ向かって行くんだい。きみにはその行く先がおぼろげながらにでも見えているのかい。もし見えているのなら面倒臭がらずにどうか教えて欲しい。実は僕にはよく見えないんだ。だから不安なんだ。恐ろしく不安なんだ。大きな海の真ん中で、僕たちの乗ったボートは本当にちっぽけだ。

 

たしかにきみが言うように、空を見上げれば青い光が僕たちを包み込み、あたたかな風が吹いている。それでも、僕はどうしても忘れることができない。このボートの小ささや、そして何がこれから起こるか分からないこの海の存在を。さらにはいつの日にか、必ずやどちらかが先にこのボートから降りてしまうということを。これはきみが言うような選択の問題ではないんだ。選択する前の、もっと重要で根源的な問題なんだ。愛や憐れみや労りといった人間的感情が入り込む余地のない、時間を超越した恐ろしく冷徹で無慈悲な問題なんだ。

 

 だが、枝里子の饒舌な言葉の中にはその答えの切れ端ひとつない。彼女は何も答えてはくれない。僕が知りたいと思う気持ちを彼女は共有すらしない。そのくせ僕の求めるものは僕のような単純なやり方では見つからないと断定するのだ。ならば、どうやれば知ることができるのか、彼女はその複雑な方法を知っているとでもいうのか。

 結局、僕には分かっている。

 要するに彼女は何も知りたくはない、ただ感じたいだけなのだ。199−

 

 

どうして僕は自殺しないのだろう?

 こういう疑問を唐突に出してくるのも白石流です。

 これに関しては異論がありますが、長くなるので割愛します。

 

僕は目を閉じて、日々考えつづけている問いが頭の中に喚起されるのを待った。

 どうして僕は自殺しないのだろう?

 

 それは多分、自分には他人の命を奪う権利や資格がないように、自らの生命を奪う権利や資格もないからに過ぎないと僕には思える。ともすれば人は自分の力で生きていると錯覚しがちだが、そんな力は人間にはない。誕生それ自体が自分の意志や力とは無縁であり、生きているさなかは確かに思えるその意志や力も、死の前では生まれたときと同様にまったく無力なのだ。

 

要するに人間は、最初から最後まで、自分のことを何も決めることができない。であるなら、自分の生を勝手に終わらせる権利などあるはずもないし、他人の命を奪う権利もあるわけがない。人は生きているのではなく、ただ生きさせられているだけなのだ。244

 

 

どうして人間は新しい生命を生み出そうとするのか?

 主人公は、子供を生むことは殺人である、とはっきり述べています。こういう考え方を「反出生主義」と呼びます。(代表的論者はショーペン・ハウアー、デイヴィッド・ベネターなど)。

 これに関しても異論があります。子供を生むことを普通に論理的に考えれば、必ず「反出生主義」になってしまうのですが、そもそも子供を生もうとする人は「論理」で生んでいるわけではなく、「論理」を超えたもの、つまり「不合理」や「不条理」な欲望に突き動かされて生んでいると思うのです。

 理屈だけで言うと、生きていることそのもの自体が相当に不合理です。致死率100%で必ず死んでしまうのに、相も変わらず自死せずに生きている。どうせ死んでしまうのに「生きる」ということはどう考えても無意味です。これは、絶対に不可能であることが分かっていながら、それでもあえて実行し続けるという無意味さ、不合理さです。

 だけど、私たちは生きている。生きてしまっている。生きているということは、ただそれだけで論理や理屈を超えている事態なのです。だから、反出生主義者は必ず自己矛盾に陥ってしまいます。「生むこと」を否定することは同時に「生きること」そのものを否定することになるのに、反出生主義者は自死せず生きてしまっているからです。

 それに加えて言うなら、ペシミストの言う「人生は無意味だ」という素朴な主張も単なるトートロジーにすぎません。理屈で考えたら人生はどこまでも本当に無意味だからです。「人生は無意味」というのは私たちのデフォ設定。だから、生きることは、無意味だけど生きていくこと。理屈を超えた事態。不可能性への抗いのような行為が生きることです。

 問題は「死」は悪なのか、「死」が悪だとして「死」を凌駕する善が「生」にあるのか、ということです。しかしこれは結局、個々人の人生観の問題なので、どういう結論を導いたとしても、現に子供を生んでいる女性を批判することはできないと思います。

 

…それでも、新たな問いはさらに生まれるのだ。

 どうして人間は新しい生命を生み出そうとするのか?

 と。

 

 人間がただひとつ意志を発揮する場があるとすれば、他人の生を創造するということだと僕には思える。

 しかし、なぜそんなことを人間はやらかしてしまうのか、それが僕にはよくわからない。なぜなら、他人の生を生み出すということは、そのままその他人の死を生み出すことと等しいからだ。人を生むことは、その人を殺すことでもある。

 

 僕は触れるでも感じるでもなく、ただ知っていた。

 自分がいずれは死んでしまう——という事実の底深い意味を捉えない人間は、必ずや自らを殺すか、他人を殺すかのどちらかを選択しなければならなくなってしまうのだ。この世界のただならぬ無慈悲さの正体は、ひとえにそうした選択を迫られてしまうことにある。

 

 そのいい例が女性たちだ。

 かあちゃんがそうだったように、ほのかの母親がそうであったように、思いつきで子供を作りたいと言いだした大西昭子がそうであるように女性たちは我が身の欲望に取り憑かれて、自分を捨て去ることがどうしてもできない。彼女たちは自身の死を閑却して、安直に他人の死を生み出しつづけている。

 

 子供を生むということが、その子をやがては死に至らしめる行為なのだと彼女たちは考えもしない。自分たちこそが正真正銘の殺人者であることに、おそらく一瞬たりとも気づいたことがない。

 

 僕には、そういう女性たちの蒙昧さが歯がゆかった。

 世の中のありとあらゆる人々は、「生まれてこなければよかった」し「仕方なく生きている」のだ。確実に死にゆく運命の途上にあって、その現実を覆すだけの反証を自分の中に見いだすことは誰であっても不可能だ。

 

 あの女性仏教徒が書いていたように、たしかに〈人間存在から、若さや、美しさや、愛や、情念や、富や、地位や、世間的能力など、うつろい行くものすべてを、ささらでも使って根こそぎかき出してみれば、あとに残る骨組は、万人共通の老・病・死があるばかり〉なのだ。

 

 かあちゃんも、ほのかの母も、大西昭子も朋美も枝里子も、そうした〈万人共通〉の〈生存のまごうかたなき骨組〉から目を背け、〈無意識な優越感、傲慢の思い〉に身をまかせて、かりそめの幸福を渇望し、最も愛すべき対象を過酷な死に追いやっていく。244−

 

 

この世界で常に人間を拘束し、徹底的に支配しているのは恐怖だ。愛などではない。僕たちが確かめねばならないのは、生きるということの意味などではなく、死ぬということの真実の意味なのだ

 恋愛小説でこんな科白が出るでしょうか。重すぎます。

 主人公は「愛」なんて信じていません。「死」の問題と真剣に向き合わない以上、すべての「生」は自己欺瞞であるし、単に「恐怖」に支配されて自己保存的にホメオスタシスオートマトンに動かされているだけなのです。

 

 … 人間は一人ひとり靴のはき方も違えば、トーストの齧り方だって違う。それは僕たちとイヌイットキューバ人が違うことと同じように違う。だが、そんな違いにいちいち何かを読み取ろうとすれば、失うのは自分自身なのだ。誰だって、本質的には同じなのだ。どこにもさしたる違いなどあるはずがない。自分は自分のためにあるのではなく、ただ他人のためにある。他人があって、初めて朧げなる自分自身があるにすぎない。

 

にもかかわらず、この世界で常に人間を拘束し、徹底的に支配しているのは恐怖だ。愛などではない。愛はよく光に譬えられるが、その光を光たらしめているのは、深い闇にほかならない。世界を認識するには二つの方法があって、一つは光に導かれる一筋の道を信じて、その光に沿って狂信的に短い人生を生き抜く方法だ。もう一つはより精緻な方法で、それはさながら宇宙空間に我が身を投げ出すがごとく、その世界全体、つまりは深く閉ざされた闇そのものを見据えることだ。

 

しかし、人間はその巨大な闇の前では余りにも卑小であるだけでなく、そもそも生まれ持った二つの瞳だけでは決して闇を凝視することができないのだ。すべての希望、愛、それぞれの生命には絶望と恐怖、死がつきまとっている。そして、つきまとっている絶望と恐怖、死こそが人生の大部分なのだ。一人ひとりの運命の終着点に「絶対的恐怖」としての死を置く限り、愛が恐怖に打ち克つことは不可能だ。

 

だが、この恐怖の根源は実のところ決して「死」そのものにあるわけではない。人間が最も恐れるのは、「死」を運命づけられ、その「死」におびやかされてしか生きることのできない人間それ自体でしかない。なのに人間は死をひたすら恐怖しつづける。死は恐れれば恐れるほど、いついかなる幸福の時間にも必ず人の心の襞に住みつき、ちりちりと震え、人を幸福の海に心から解き放つことがない。だからこそ、もう一度しっかりと僕たちが確かめねばならないのは、生きるということの意味などではなく、死ぬということの真実の意味なのだ。314−

 

 

愛するということは、自分のすべてを滅ぼして、ただ相手のためだけに、ただ相手の中にだけ生きようとすることだ

 「愛」の不可能性について述べている場面です。

 おそらく、人間は死ぬまで自己愛を捨てられない(ゆえに真の愛は不可能)ということを言っているのだと思います。

 自己犠牲という愛もあるのではないかと思うのですが、主人公はこれは認めない人のようです。

 

人と人とは、本来はお互いの生命の奥底まで浚って繋がるべきなんだと僕は思う。人間同士の結びつきには、対等だとか平等だとか、尊重だとか、犠牲だとか、そんなものは存在し得ないんだ。

 

恋愛だってそうだろ。愛することが重要なんじゃない。相手を大切に思うことが重要なんじゃない。その程度のことでは、人間は自分にとって本質的な問題を解決することはできやしない。愛するということは、自分のすべてを滅ぼして、ただ相手のためだけに、ただ相手の中にだけ生きようとすることだ。

 

だけど、そんなことは誰にもできやしない。どんなに愛し合った恋人同士でも、どんなに愛し合った夫婦でも必ずや別れるときが来る。そのとき、一人が死んで、もう片方が後を追って死んだなんて話をきみは身の回りで聞いたことがあるかい。僕は一度だって聞いたことないよ。でもそれは誰にとっても仕方のないことだし、当然のことなんだ。人には、与えられた命を自分でどうにかする権利なんてこれっぽっちもないんだから。

 

命を自分の意思や力でどうにかできるなんて考えてしまったら、恋愛なんていう脆弱でかりそめの花は、咲き誇るどころか、たちどころに枯れ果ててしまうに違いないからね。人間一人一人が生命を自分のものだと考えることで生み出される世界では、ただ暴力と差別、支配と隷従だけしか生き残れないと僕は思っている。いま、この世界がまさにそうであるようにね。289

 

 

誰かのことを悲しむことは、自分のために悲しむことにすぎない

 主人公は、母が死んでもすぐには悲しめない人でした。しかしある日、不意にその悲しみが襲ってきたのです。愛別離苦の「不意の悲しみ」という突発的な感情の訪れを見事に表現しています。

 しかし主人公は、親愛なる人の喪失体験であっても、悲しみを悲しむことは「罪」なのだと考えます。悲しみという感情をあくまでも倫理の対象にするのです。

 「道徳感情」という言葉がありますが、主人公のように人間の自然な感情を理性的倫理で判断しようとする態度は、主知主義と呼ばれるものに近いのではないでしょうか。

 

 激しい感情の波が一気に胸に押し寄せてきた。

 自分はいま母のために泣きたいと思っているのだ。そう思っている自分を見つけて、さらにそんな自分自身にも泣きたいと思っているのだ。悲しみというのは何と本能的なものだろうという気がした。

 

 母の死を見た時、いや母の癌を知らされた時、いや母という余りに動物的な生を息子として自覚した瞬間から、僕はずっとなにものかによって悲しまされようとしつづけてきていた。僕はいままでその理不尽な圧力に懸命に耐え抜いてきたのだ。誰かのことを悲しむことは、自分のために悲しむことにすぎないという、幼稚すぎる真実を、僕はどれほど苦心惨憺して守ってこなければならなかったか。

 

しかし、そうやって死を悲しむことは、結局は罪を生むことにしか結びつかない。他人の死を激しく悲しむ者は、自分の死に恐れ戦く者だ。その恐怖こそが、他人を平然と傷つけて恥じることのない人間を作り出しだしてしまう。

 

そうやってかあちゃんの悲しみを悲しめば悲しむほど、僕はこの僕自身のことをまるで赤の他人に対するように悲しみ、同情し、憐れまなくてはならなくなってしまう。自分を憐れみ、自分を慰めることほどこの世で罪深いことはあるまい。304−

 

 

あなたがうんざりしているここ、このここに、自分で自分の居場所を作るしかない

 主人公はずっと枝里子の生き方をあれこれ理屈をつけて否定してきました。しかし、その枝里子から鋭いカウンターが入ります。この枝里子のカウンターは、なよなよしていた主人公にうんざりしていた読者にとって、心からスカッとする一発になること請け合いです。

「ここではないどこか」をずっと思考しつづける主人公に対し、「ここではないどこか、なんてあるわけない。ここを生きるしかないんだ」という鋭い指摘。確かにその通りだと思います。

 

 私は私の居る場所をずっと求めてきた。それは誰だって同じ。別にあなただけが苦しんできたわけじゃない。だけど、いくら求めたって、探したって、自分の居場所なんて見つかるはずがないのよ。どんなにいろんな人と付き合ってみたって、自分の場所なんて誰も与えてくれやしない。あなたは言ったわ。もうどこにも行きたくない、ここにいるだけでも十分にうんざりしてるって。だったら、私は訊きたいわ。あなたのいるここって一体どこなの。ここって一体何なの。

 

たしかに私は、あなたと私が一緒にいる場所が欲しかった。だけど、それはあなたと一緒にその場所を探そうってことじゃなかった。だってそうでしょう。ほんとうに居場所が欲しかったら、求めたり探したりするのをやめて、あなたみたいに彷徨いつづけるのをやめて、まず足を止めて、あなたがうんざりしているここ、このここに、自分で自分の居場所を作るしかないのよ。

 

私はあなたと家族になろうなんて一度だって思ったことない。ただ、あなたと一緒に居られる場所を二人で作っていきたいって思っただけ。なのに、あなたは、いつでもどんなことでも、自分勝手に解釈して、自分勝手に失望して、自分勝手に諦めてばかりだった。そういうあなたが、私には哀れだったわ。心配でたまらなかった。このままだと、この人はきっと不幸になってしまう。それも誰も経験できないようなひどい不幸になってしまうと感じた。だから、私は、あなたのことを見過ごせないと思ったの。

 

曖昧なのは私じゃない、あなたの方よ。ここよりほかのどこかなんてないのに。天国も地獄も、あの世もこの世も、みんなここなのに。過去も未来も全部ここで起こり、ここでこれから起こるだけ。私もあなたもここにいて、生まれる前も、死んだあともずっとここにいるの。神様も悪魔もきっとここにいて、来る前の場所も帰っていくべき場所も、どこにもないの。みんなここにしかない。

 

私はあなたにいつも言いたかった。あなたは目を凝らして、一体どこを見ようとしているのって。あなたには、いまのあなたが立っている場所から、そのあなたの足元からずっとずっとつながっている世界しか見ることができないのに、それでもあなたは一体何を見ようとしているのって。あなたがちゃんと自分の足元を見つめ、それから顔を上げて、ようやく目を見開けば、この世界は無限に広がって、この世界こそが、あなたの見ることのできる、そして見るべき唯一の場所だって分かるはずなのにって。

 

それをあなたは私の気持ちなんて想像しようともせず、ただ、私の目の前で、自分を消そう消そうとするばかりだった。別に私はあなたのことを嫌ってもいなければ、怪しんでもいなかったし、まして憎んでなんかいなかったのに。私は、あなたのことを心から愛してたのに。あなたのためなら、どんなことでもしようって固く心に決めていたのに。あなたはただ、私のことを恐がるだけ。私がまるであなたに何かひどいことでもしようとしているみたいに、私のことを否定して、私から逃げ出しただけ。私は、あなたのようにひどい人に一度だって会ったことがないと思ったわ。345−

 

 

ただ一つ、人が幸福になる道は、自分自身よりも他の存在を愛することだ

 枝里子からの一発をくらっても、なよなよしている主人公。

 ここでも真実の愛を志向するのです。

 僕はこの辺を読んでいて怒りが込み上げてきました。どこまでも主知主義的な主人公に対して。

 こういう頭でっかちの観念バカ男には絶対になりたくない!

 お前は一体どこを生きているんだ!と言いたい気持ちです。

 主人公は新興宗教に入信する以外に道はないでしょう。枝里子というすばらしい女性がいるのに…。

 

 取るに足らない、ちっとも生まれてこなくてよかったこんな僕でも、僕のためにこうして泣いてくれる人のためだけに生きていけるのならば、どんなに安らげることだろう。枝里子のために自分のすべてを捨てることができるのなら、何と素晴らしいことだろう。

 しかし、何がどうあっても、それだけは不可能なのだった。

 

 彼らは一様に説いている。

 ただ一つ、人が幸福になる道は、自分自身よりも他の存在を愛することだと。

 だが、そのさらに奥深く、彼らはこうも説いているのだ。

 自分自身よりも他の存在を愛するときは、決して異性を愛するように愛してはならないのだと。

 

 男は女を女として愛するのではなく、女は男を男として愛するのではなく、あたかも自分自身を愛するように愛さねばならないのだ、と。

 なぜなら、男女の愛は不幸な果実を必然的にもたらすからだ。

 僕だけでなく、この世界で生きるすべての人々が、その不幸な果実の一個一個にすぎないからだ。348

 

 

本当の幸福は死と親密でなければならない

 死と生と幸福の関係。

 仏教的な死生観に感化されている主人公にとっては、死をベースに生や幸福を考えるのは自然なことであると思われます。やはり「死」について考えなければ、この人生は何ものでもないという思いは主人公に同感いたします。しかし、どのように自分の死を考えるかは非常にむずかしい難題です。

 

 雷太もほのかも、死とのつながりの中に自らの幸福を求めようとしているのだろう。そして、それ自体はきっと正しいことなのだ。何よりも誰よりも、それは正しいのだ。何のために生きるかも、自分がどうなっていくのかも、実はどうでもいいことなのかもしれない。人はただ死ぬために生き、やがてこの肉体は燃えて灰となるだけなのだから。

 

 物質的な充足や地位や名誉の獲得、競争での勝利や他人からの称賛、そうしたものは単に高く高く櫓を組み上げていくことに過ぎない。人生の破局である死から、人はそうやって必死に逃れ、遠くへ遠くへ離れようとあがく。幸福を死との距離で測る限りは、誰であれそうした無意味な行為を積み重ねていくほかに生きていくすべがない。だが、苦難や苦しみを乗り越えることにのみ幸福を見いだしていると、人は最後には死という暗黒の沼に引きずり込まれ、自分を完全に破壊されてしまうのだ。

 

 破壊的な死からどれだけ遠くへ行けるか、どれだけ死を忘れてしまえるかを試すような幸福は幸福でもなんでもない。そんな幸福の櫓は高くなればなるほどに、そこからいずれは転落する運命を悲惨なものに塗りかえていく。最後の一瞬、空中に放り出された僕たちは、死の海に没するまでの長い長い恐怖の時間、生まれてきたことを恨み、呪うしかなくなるのだ。

 

 死は海面のようなものだ。

 その面をくぐったとたんに僕たちは海中に入る。そこは、僕たちの恐れる死も、愛し合う喜びもないまったく新しい世界だ。死を通り過ぎた先の、想像のむずかしい、しかし決して想像することの不可能ではない世界だ。

 僕は考える。本当の幸福は死と親密でなければならないのだと。死と親密な、まさに海面すれすれのところにある幸福こそが、真実の幸福なのだと——361−

 

 

こことはちがうどこかが必ずやある

 ラストで主人公が、やはり「ここではないどこか」は必ずあると述べる場面です。

 枝里子の「ここを生きるしかない」という断念に対して納得がいかないのでしょう。

 僕は「駄々をこねている」のは枝里子ではなく主人公の方ではないかと思います。

 主人公は単に頑なに「超越」を志向しているだけです。

 枝里子が言っていたように、誰にだって超越志向(ここではないどこかへの志向性)は必ずあります。異世界への憧れがある。だからみんなポケモンgoをやったりVRをやったりするわけであって、その辺のことを主人公は考えていない。

 畢竟、超越志向を抱えたまま地獄のような社会を生きていくしか方法はないのです。

 

 … 何一つとして定まり不変でいられるものはこの世にはない。生きながら死のうと、死にながらに生きようと、所詮は人の生にさしたる差異はないのだろう。たとえ自分を捨て、他人に酔い、他人に乗って流されるように生きてみたところで、この世界に生きるあいだは、結局は僕と同じように、誰もが足元に降り積もりつづける鉛のような疲労にからめとられ、立ち往生し、ついにはあらゆる意味を喪失してしまうに違いない。

 

 それでも枝里子は、いまこのとき、ここ、このここにこそすべてがあると最後まで信じきれるのだろうか。これほどに不毛な世界が唯一無二の世界だと、彼女は本気で信じ込んでいるのだろうか。僕にはどうしてもそうは思えない。

 

 こことはちがうどこかが必ずやある。

 だからこそ、ここでは、たとえどんなに自分以外のものに対して懸命につとめ、自らを虚しくしたとしても、その本当の価値が認められることがないのだ。そうした行為は、この世界とは異なる新たな世界へと飛び立つときに初めて、前途を照らす灯火になり、僕たちを運ぶ翼になってくれるものだからだ。幸福も不幸もこの世界だけのもののはずはない。それは次の世界へ、さらにはその次の世界へと果てしなくつづいていく。

 

僕たちは決して自分のためだけの喜びや哀しみ、憎しみに足をすくわれてはならない。枝里子のように生きることに気を取られているばかりでは、やがて待ち受ける新しい世界への道筋を見つけることができなくなってしまう。目の前の小さな輝きに目を奪われてばかりいては、遥かかなたで燃え上がり、僕たちを導いてくれる光に気づくことはできないのだ。

 

 愛することも信じることも懐かしむことも、その対象が人であれ自然であれ何であれ、それは要するにこの世界に居つづけたいと駄々をこねているだけのことだ。367−

 

 

以上。

 

*1:数字は小説(文庫版)の頁です。適宜読みやすいように改行した箇所があります。

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