おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「人生の意味」と「人生の不条理」ー死についての雑記(3)了

「あなたはなぜ、生きるのか」

「あなたはなぜ、生まれてきたのか」

「あなたはなぜ、死ななければならないのか」

「あなたはなぜ、死ななければならないのに生きるのか」

「あなたはなぜ、死ななければならないのに生まれてきたのか」

 

 そのような問いかけや疑問から始まる「生きる理由」や「生きる目的」に関係しているのが「人生の意味」です。人生の意味は「生きること」だけから成り立つのではなく、そこに「死」を含めなければ成立しないと思われます。

 人生の意味が切実な問いになるのは、私たち一人ひとりに逃れられないものとしての「死」が運命づけられているからです。もし私たちが永遠に生き続ける存在ならば、わざわざ人生の意味など考える必要性など生じないでしょう。

 

人生の不条理

一般問題と実存問題

 死や人生のような問題は一般的問題であると同時に個人的な問題(実存問題)でもあります。たとえば、「人生の目的は幸福になることである」とか「人間が生まれてくる理由は人びとを幸福にするためだ」とか、死の意味をソクラテスの死の三段論法のように「ソクラテスは死ぬ」というふうに理解すること…。これらは人間すべてに共通するかのような一般的問題として人生や死を捉えています。

 しかし、一般的問題として人生や死の意味を理解したあとに、なおも次のように問うことが可能なのです。「しかしなぜ、よりにもよって〈この私〉が死ななければならないのか」、「しかしなぜ、よりにもよって〈この私〉が生まれてきたのか」、「しかしなぜ、よりにもよってそれが〈この私〉の人生の目的なのか」…。

 つまり、人間一般には回収することのできない〈この私〉に固有の問題があるのです。これはトルストイの『イワン・イリッチの死』のように三段論法では導けない〈私〉固有の死のことです。

 

…「あなたが今生きており、まもなく死んでしまうこと」は、あなたにとっての問いでなければならない。あなたが死ぬことは他の誰かが死ぬこととは異なります。「すべての人間は死ぬ」ということとも異なります。ですから、あくまでもあなた自身で問わねばならないということです。…(中島 2013:165−6)

 

〈私〉と「私」

 しかし、〈私〉に固有の問題を〈私〉固有の「問題として」語ることはできません。なぜなら〈私〉は〈私〉をそれ自体として対象化することができないからです。

 「一人称の私」には二つの意味があります。一つは誰にとっても当てはまってしまう一般化された「私」と、世界に比類なき存在としての固有的な〈私〉です。〈私〉のような存在形式を一般化して対象化したのが主観的客観性としての「私」なのですが、この一般的な「私」が成り立つためにはそこから固有的な〈私〉を捨象せざるをえません。〈私〉のことを外側から「〈私〉のようなもの」として捉えたのが「私」のことなのですが、この「私」はどこまでも「〈私〉のようなもの」でしかなく、「私」は決して〈私〉のことではないのです。

 つまり、〈私〉を問題にしようとすると、必ず誰にでも当てはまってしまう「私」になってしまうのです。〈私〉それ自体を問題にすることはできず、〈私〉を問題にしようとすると必ずそれは「私」になっており、この「私」には〈私〉が含まれていないと感じられ、現にそこで問題になっているのは〈私〉ではなく一般的な「私」の問題なのです。

 「何か」が問題になり、その「何か」を問題として語ることができるのは、その「何か」を外部から対象化することが可能だからです。〈私〉の場合、〈私〉は〈私〉の内部では問題になりえても、この〈私〉の問題を「問題として語る」(あるいは思考する)には、〈私〉を外部から対象化することが必要になります。しかし、〈私〉に外部はありえない。〈私〉が〈私〉である以上、〈私〉は〈私〉の外側に立つことはできない。ゆえに、〈私〉を外部から対象化するときのその〈私〉は、常に〈私〉ではなく「私」のことです。

 問題になっているのは〈私〉のことなのに、問題にすることができるのは「私」のことだけになってしまうのです。ここにおいて、〈私〉固有の問題は永遠に残り続けることになります。〈私の死〉は「私の死」として問題化するしかありませんが、「私の死」には〈私の死〉は含まれていません。〈私の死〉は〈私〉にとっては思考不能・想像不可能なもの、永遠の謎として残り続けるのです。

 

〈死は対象ではない〉

... 死は距離を隔ててのみ思考の対象となりうる。それが自分自身の死を思考可能とする時間上の距離にせよ、他の人びとの死を思考可能とする空間上の距離あるいは時空両者における距離にせよ……。

 

 わたしはもっとあと、いまはあなた、いまはかれ、あなたはもっとあと、かれはもっとあとというのが問題となる客観性の五つの段階だ。しかし、まさに、ただ、もっともなまなましい現在ともっとも近い現存在とをある一点において合致させるためには、死は概念化の対象となりえないのだ。

 

... 自分自身の死は、この合致そのもの、この死にいたる合致だ。死の瞬間という鋭い尖端において、あらゆる空間上の距離とあらゆる時間上の隔りは零となる。この瞬間、この場で到来するが、じかにわれわれの生命、われわれの血肉にはすこしも関係のない出来事がある。…(ジャンケレヴィッチ 1978:34)

 

〈私の死〉と「私の死」

 私たちが死について考えることができるときのその語りの対象になっている死は、常に「私の死」であって〈私の死〉のことではありません。問題の起点が〈私の死〉であったとしても、思考対象となりえるのは常に「私の死」の方なのです。従って、〈私の死〉が「私の死」のことでしかない以上、死についてのあらゆる思考は「ごまかし」の一種でしかありません。

 

〈死の内部と外部〉

.... 私が死を考えるその意識とは、いったい何なのでしょう。私は死を克服しようとして死について考えます。しかし、それでも死ぬのです。

 

 しかしながら、私が死を考える限りにおいて、私は死の内部ではなく、その外部にいるのです。やがて死ぬという限りにおいて、わたしは死の内部にいるのですが、自分の死を考えるという限りにおいて、その内部ではなく、外部に出るのです。… (ジャンケレヴィッチ 1995:54)

 

 死は確実な出来事なのに、どうしてそのことをスルーしながら私たちは日々を(まるで自分は永遠に死なないかのように)平然としながら生きることができるのでしょうか。もしかしたら明日、あなたは死ぬかもしれない… あるいは次の瞬間、あなたは死ぬかもしれません。しかし、あなたは漠然と「死なないだろう」と感じている。

 実はこの「死なないだろう」という感じ方にはまったく根拠がありません。根拠なき自信のようなものによってその「死なないだろう」は成立している。この根拠なき「死なないだろう」という感覚がないと、私たちの日常は一切成立しません。

 「死ぬのは確実、だが死ぬ時は不確実」であると言えます。この不確実性にのみ立脚するのが漠然たる「死なないだろう」という感覚です。しかし、「死ぬのは確実」だとも実は思っていないのです。なぜなら、死が問題になりうるのは「私の死」だけであって、そこには〈私の死〉は含まれていないからです。〈私〉にとって〈私の死〉は対象化できない思考不能で想像不能な何かです。だから、〈私〉は〈私〉としては死ぬことができません。「死は確実」というときに問題になっている死は、対象化された「私の死」のことでしかなく、そこには〈私の死〉は含まれていないのです。

 従って「死は確実」だと理解できたとしても、これは〈私の死〉が確実だと言っていることにはならない。〈私の死〉は依然として〈私〉の内部では残り続けていることになります。ゆえに、「私は明日も生きるだろう」という漠然たる根拠なき自信、根拠なき不死性のような感覚は、死の時の不確実性だけに由来するのではなく、〈私の死〉が「私の死」に還元不可能であることから生じる〈私〉と「私」の関係に由来するものでもあるのです。

 

〈死の欺瞞性〉

... 私は私といつもごまかし合っています。だいたい、それだからこそ、死が生の内部で思考可能になるのです。私は突き詰めて考えることをしない。…

 

... 生は絶えずごまかしを必要とします。「私は人間が死ぬものであることを知っているくせに、自分は死ぬとは思わない」と、ジャック・マドールはいみじくも述べました。私たちは自分がいずれ死ぬことを頭では知っているのですが、それを腹の底からは納得しないのです。

 

 もしそんなふうに納得したら、私はもう生きていけません。ですから、私は死を他人に割り当てる。まず、隣人より始めよ、です……。 (ジャンケレヴィッチ 1995:26)

 

 われわれの置かれた立場は両義的なものである。外側から見れば、人間は明らかに自然の寿命を持っており、せいぜい百年ほどしか生きることができない。それに対して、自分自身の体験に関して人間が抱いている感覚には、この自然的限界という観念が備わっていないのである。…(ネーゲル 1989:14-5)

 

不条理とは何か

 不条理とは、一般的に言えば理想と現実とのズレや衝突から生まれる何とも言えないモヤモヤとした感覚のようなものです。人生の不条理という場合、自分の人生を主観的に捉えたときと客観的に捉えたときとのズレや衝突として感じられる人生の無意味さに由来しています。

 自分の人生にはどう考えても切実な意味があると感じられるのに、客観的に自分の人生を考えると、人生にはまったく意味などないように思えてくる。このときのズレや衝突が人生の不条理です。

 「人生には意味や理由がない、ゆえに無意味である」ということを表現するときには「正当な理由がない」という意味で「人生は理不尽である」と言うことができます。しかし、この人生の理不尽さにどうしても納得がいかない場合、「なぜなんだ」という疑問が内側から湧き上がってくる場合、そこに生じるのが「人生の不条理さ」なのです。

 人生の不条理も死の問題と同様に〈私〉と「私」の衝突から生まれてくる〈私〉の内部的な問題(実存問題)であると考えることができます。

 

〈生の不条理〉

… 私たちにとって自分の人生は掛け替えのないものであるがゆえに、私たちは人生に意味を求めるし、また目標を設定して生きようとする。しかし、それでもなお心の中で無意味さを感じてしまうのは、「内」からの物語と「外」からの物語が衝突してしまうからで、そこに生の不条理が生まれてくることになるのだ。(ローランズ 2004:33−4)

 

人間の理不尽な実存条件

 私の存在や意味について考える場合、「私」⇒「個体」⇒「人間」⇒「社会」⇒「自然」⇒「地球」⇒「宇宙」⇒「世界」…という具合に抽象レベルを徐々に上げならがら考えていくことができます。

 物理的世界である「宇宙」がもし存在しなければ「地球」は存在せず、もし「地球」が存在しなければ「生物」は存在せず…という具合に、抽象レベルの高次元から低次元へと存在条件は規定されていると考えられます。

 

 たとえば、熱力学第二法則のようなもの、エントロピーが増大していくことは、ただそれだけで理不尽だと言えます。なぜエントロピーが増大していくのか、その正当な理由がわからないのに現に増大していく一方だからです。つまり、物理法則の次元で既に理不尽さが組み込まれています。死や崩壊という帰結のプロセスが「宇宙」の次元から既に運命づけられているのです。

 

 生物としての動物は、一日中じっとしていても呼吸をしているかぎり必ずエネルギーを消費します。これは生命活動を維持するための必要最小限のエネルギー(基礎代謝)であり、ヒトの場合一日約1400kcal消費することになります。もし、基礎代謝以上のエネルギーを食物として摂取できなければ、生命体はどんどん痩せ細り、やがて緩やかに死んでいきます。これが餓死です。

 何もせずじっと静かにしているだけで自分の意思とは無関係にエネルギーを消費し、何らかの物質によってエネルギーを摂取しなければ餓死してしまう…。これは「動物」という次元に規定された理不尽さです。

 

 有性生殖する生物にはその性質上、必ず個体差が生じます。この個体差は個体の限定要因として作用し、その個体を限界づける一つの要素にもなります。もし、環境に適さない個体は、適する個体よりも生存上、不利になってしまうでしょう。

自然選択の淘汰圧は、個体と個体の違い(個体差)をふるい分ける機能をもつ。これも「生物」という次元に規定されている理不尽さです。

  そのような個体差にもとづく理不尽さは、人間の場合「社会」によって増幅されます。つまり、個体差が生じる以上、そこから生じる身体や身体能力などに違いが生じることになるのです。

 人種によって肌の色、骨格、筋力、身長の平均値が違うように、同じ人種でも顔の形、身長、知能などに違いが生じます。このような個体差が個体を限界づける限定要因として作用するのは、その個体差をある条件やルール、一定の基準でもって制限・選別化する装置があるからです。この装置が「社会的価値」であり、この価値にもとづいて個体の「優劣」は決定され選別されることになります。

 人間社会では生物としての個体差が社会の社会的・文化的価値観によって「これはよい、これはダメ」といったような「価値による選別」の対象となります。これは「社会」の次元に規定されている理不尽さです。

 

 最も大きな理不尽であると思われるのは、私たちの生が死によって終わってしまうことです。私たちの死が高次元の物理的法則によって規定されている逃れがたいプロセスであったとしても、私たちが死ぬことはどう考えても謂れの無いことであるように思えるのです。

 癌で病死するにしても、なぜ癌で死ななければならないのか。ここには正当な理由はありません。何か死に値するような悪いことをしたわけでもないのに、どうして死ななければならないのでしょう。まったくここには正当な理由が見あたらないのです。

 

 以上のさまざまな次元によって規定されている理不尽さは、人間である以上、誰であろうとも逃れるすべのないことです。従って、人間の人生が理不尽なのは、高次元から貫かれた逃れられない理不尽さに由来するものなのです。

 

「人生の理不尽さ」と不条理

 人生が無意味なのは客観的に考えるかぎり、明らかなことだと思います。しかし、「人生に意味はない」からといって生きることがただちに無意味で無為なことになってしまうわけではありません。人生に意味はないとしても、今日も相も変わらずAmazonで何かをポチるかもしれないし、腹が減ったら何かを食べるだろうし、眠くなったら眠るだろうし、病気になったら病院に行くかもしれません。このような些細な出来事は、人生全体に意味があるかどうかとはほとんど関係せずに成り立つことです。

 友人とかわした明日の予定は、たとえ人生全体に意味がないとしても、それとは関係なく目的や意味をもちうるのです。つまり、ある人がラーメンを食べる理由や目的に、人生全体の意味や目的は必要ありません。ラーメンを食べるのに必要なのは「腹が減ったから」とか「あの店のあの醤油ラーメンが食べたい」だけでいい。人が生きているときに問題になっているほとんどのことはそのような些細なこと、「ラーメン食べたい」レベルの意味であって、人生全体の意味ではないのです。

 しかし、人生を内面的に思考したり思惟する人たちにとっては人生を「ラーメン食べたい」レベルの意味のみで生きていくことは困難に感じられます。そんな些細なことだけのために私たちは生まれ、生き、そして死んでゆくのでしょうか…。どうしてもそんなことは「ありえない」と思えてくる。なぜなら、「ラーメン食べたい」レベルの意味と〈私の生〉や〈私の死〉のレベルの意味ではどうしても次元が違う問題だと感じられるからです。

 ここから〈私の生〉には何か次元の違うほんとうの意味があるはずだということになる。しかし、〈私の生〉を意味づけてくれるような外部は〈私の生〉には存在しません。そもそも「人生」という言葉自体が〈私の生〉を外部から捉えたときの言葉であって、生を総括的に捉える人生とは常に〈私の生〉のことではなく誰にでも当てはまってしまう一般的な「私の人生」のことでしかないのです。

 しかも、「私の人生」全体を意味づけることもできません。人生全体を意味づけるにはその人生の外部が必要になりますが、この外部にもまたその外部が必要になり、この内部(手段)と外部(目的)の因果連鎖は永遠に終わらない無限後退になるからです。この永遠に終わらないループを終わらせるためには、それ自体が目的であるような自己目的で絶対的、外のない最終的な目的、つまり、絶対的な無であるような神の存在を打ち立てる以外に方法はありません。

 従って、「私の人生」を意味づけられるのは常に「ラーメン食べたい」レベルからの意味でしかないのです。「私の人生」全体にはそれを超えるいかなる意味もない。これが人生の理不尽さです。この人生の理不尽さは〈私の生〉から考える場合、どう考えても「ありえない」と思える。だとしても、〈私の生〉の内部からそのありえなさを訴えることはできません。このとき生じている感覚が人生の不条理さなのです。

 

〈生の無意味と不条理さ〉

 … 「外」からの物語から見れば、あなたは遺伝子や環境などが生み出した、いわば偶然の産物にすぎない。そんなあなたがどうして、人生の主役になり得るのか? あなたの人生に意味や目的があるなんて、どうして言えるだろうか? (ローランズ 2004:31)

 

 … 私たちの人生は「内」からの物語で見るかぎりは、意味と目的で満たされることになっている。だが、「外」からの物語は冷酷に、我々の人生はそんなもので満たされることはないと言う。

 

 たったひとつの出口は、死による忘却である。... だからカミュは、自殺しないことは偉大なる英雄的行為であると考えたのだ。(ローランズ 2004:43-4)

 

 ... 我々はみな本質的に「引き裂かれた」生き物なのである。我々は自分自身の人生に重要性や意味や目的があると思っているが、それと同時に「永遠の相」が存在することも知っていて、そのふたつを調和させることができないでいる。そのために、我々は「生きる意味」という大問題を抱えることになる。(ローランズ 2004:45-6)

 

 ... もし人生が本当に重要なものでも、厳粛なものでもなく、死が人生の終着点であるならば、自分自身をそれほど真剣に考えるのは、ひょっとすると馬鹿げているかもしれません。

 

 他方、もし私たちが自分自身を真剣に考えざるをえないのであれば、ひょっとすると、私たちがしなければならないことは、ただ馬鹿げていることを耐え忍ぶことだけかもしれません。つまり、人生は単に無意味であるだけではなく、不条理であるかもしれないのです。(ネーゲル 1993:140)

 

 

「人生の価値」と「死の無意味」

 「意味」と「価値」を正確に分離できないにしても、それぞれちがうこととして区別することは可能だと思います。意味と価値を区別することによって生じる重要な事態は「意味はなくても価値がある」というようなことが実際にありえるということです。

 たとえば、石ころに価値があると思っている人が実際に存在します。そう思っていない人にとっては石ころ集めはまったくの無意味に映るでしょう。

 しかし、よく考えてみると、もしかしたら「無意味だからこそ価値がある」のかもしれません。ほんとうの価値というのはそういうものかもしれないのです。

 

生に価値を与える死の無意味さ

 ベルクソンは「眼は視覚の器官だが、同時に眼は視覚の障碍である」と言いました。私たちが何かを見ることができのは「眼」があるからですが、しかしその眼があることによって私たちには自ずと「死角」が存在するようになる。この死角が視覚の障碍というわけです。

 私たちの身体も眼と同じような特徴があります。身体があるからこそ私たちはどこにでも行ける。しかしそれと同時に、私たちは身体によって「いまここ」に縛り付けられることになります。

 あるいは言語も同じです。言語は表現ツールであると同時に表現には落とし込めないあらゆるものを捨象する不自由なツールでもある。表現の手段は表現の障碍でもあるのです。

 死や生も同様に考えられるのではないでしょうか。視界と視界の限界(死角)の関係のように、生と生の限界(死)を考えることができるのです。

 視界が視界であるためには、視界が空間的に秩序だっている必要があります。空間的秩序を形成するためには、空間的配置構造を作り上がる固定された中心点が必要になる。この固定された中心点があるためには、何らかの「枠組み」が必要です。この枠組みが限界となることによって視界が成立するのです。限界のない視界は中心点のない視界であり、これは空間的配置構造を作ることができず、空間的秩序を形成できません。これだと視界の意味が崩壊するのです。

 死も同様に、私たちの生に限界を与え、生に固定された中心点を与える。枠組みとしての死があるからこそ、私たちの生には価値があると感じられるのではないでしょうか。

 

〈死と生の価値〉

 ... 生に時間的限界がなければ、何も時間的位置を持つことができない。限界のない視界において空間的位置を持つものがないのと同じだ。空間的に限界のない視界は視界ではない。そして時間的に限界のない人生は究極的に人生ではない。

 

 人生の限界は、人生における個々の出来事を際立たせてくれる「境界線」なのだ。この境界線がなければ、本質的に意味をなすものは何もなくなる。すべてのものは混乱し、無意味な存在論上の塊と化してしまう。

 

 ... 我々は本質的に「未来に向う存在」だ。そして死は究極的な境界線であり、それがあるから、我々の生を形作るものが際立つのである。

 我々は「未来に向う存在」であるが、同時に「死に向かう存在」でもあり、後者のほうがより根本的でさえあるのだ。

 

 我々の生に意味を与えるものは、全体から我々を浮き彫りにしてくれる境界線として死である。死は我々の生を奪い、それゆえ我々にとっての生の価値をすべて奪ってしまうものかもしれない。

 

 しかし死はまず第一に、生に意味を与えるものでもあるのだ。死の害の源、そして生の価値の源は同じものである。それは、我々が「死に向かう存在」であるということだ。(ローランズ 2004:344-5)

 

 ... 生に意味を与えるのは意味の不在だということです。もちろんある意味で、死はまず何よりも生から意味を奪います。なんとなれば、私が死に、死が無であるとしたら、私はどこへも行けません。彼岸の不在は、私の生を虚空へと投げ出します。ということはつまり、私の生にはいかなる方向性も内在していないということです。

 

 ... しかしまた、逆に考えれば、私がどこへも行かないということは、私にとって生が無限に大切なものとして現れてくるということです。私の生はひとつの奇蹟であって、無限に神秘なものとなります。おそらくもうこれは少しも理性的な発言ではありませんが、私には無意味の意味、意味の不在の意味を語ることができると思うのです…。 (ジャンケレヴィッチ 1995:49-50)

 

 死ぬことは人間の生の条件そのものです。死は生を無意味にすることによって生に意味を与える、とひとはよく言いますが、私もそれに賛成です。死は生に意味を与える無意味なのです。意味を否定することによって意味を生む無意味です。

 

 短く燃えあがった生涯、束の間に燃え尽きた人生を見れば、こうした死の役割は明らかです。そうした人生に力と強度を与えるのは、紛れもなく死です。細く長くか、太く短くか、そのどちらか、という考えから私たちはなかなか逃れられません。熱く、しかも永遠の生を望んでいるのにです。しかし、その両方を手に入れることは不可能です。…

 

 ですから、私たちに示される選択肢はつぎのどちらかです。すなわち、短い、しかし真の生涯、愛に満ちた生涯を過ごすか、さもなくば愛を知らない、しかしどこまでも続く生、生とはいえない生、永遠の死のような生を生きるか、です。思うに、この形で選択肢を示されれば、第二のものを選ぶひとはまずいないでしょう……。

 

 カゲロウのように、ただ半日だけであっても生きたほうがいい、とみな言うでしょう。そしてこのとき、もう長いも短いもないのです。そうです。このとき、私たちはすくなくとも「生きた」と言えるのです。たとえそれを失わなくてはならないにせよ、いや失わなくてはならないがゆえに、私たちは生きたのです。 (ジャンケレヴィッチ 1995:37-8)

 

 以上の引用文では「意味」と「価値」を明確に分けていませんが、生には死という限界があることによって、その意味で「死は生に価値を与える」ということは言えるのではないでしょうか。

 死は生の価値を奪うと同時に生に価値を与えると考えられます。あるいは、死は生の価値を奪うからこそ、生に価値を与えることができると考えられる。

 もし、生の形式的な意味と内容的な意味を分けて考えることができるなら、死は生の内容的な意味は与えないが形式的な意味を与える。と同時に、死は生の内容的な意味と形式的な意味とを同時に奪うと考えることができます。

 つまり、死というのは、生の意味や生の価値が成り立つ地平そのものを成立させるための限界条件(としての無意味)だと考えることができるのです。

 

 

「死に向かう存在」と「人生の濃密さ」

 以上のことを簡単にまとめると、次のようになります。「私の人生」には何の意味もないが、〈私の生〉には何か意味があるような仕方で〈私〉は〈私の生〉を生きることができるのではないかー。それは「死」によって与えられる「生の価値」、そして、死によって与えられる人生の形式的な意味に由来するはずです。

 とにかく、〈私の生〉が「私の人生」と衝突してしまう事態(不条理)を避けることが必要です。つまり、「人生の意味」とは、どこまでも〈私の生〉の内部で見出すべき意味であって、「私の人生」という全体から演繹されてくるような「人生の意味」などないということを肝に銘じることが肝要であると思います。

 

人生のシーシュポス構造と目的アノミー

 人生の無意味さが際立つ瞬間というものがあります。それはカミュの『シーシュポスの神話』で語られているような「無意味な繰り返し」を感じてしまうときです。私たちが人生を生きるとき、どうして必ずといっていいほどに「無意味な繰り返し」を感じてしまうのでしょうか。

 一つ考えられるのは、私たちの社会と時間との関係です。具体的に言えば、時計とカレンダーが繰り返し構造になっているからです。アナログ時計を見れば分かるように、それはグルグルと同じところを繰り返し回っているように見えます。カレンダーも月曜日から日曜日、1月から12月というようにグルグル回る構造になっている。ここから1日も1年も儚く回るシーシュポス構造のように感じられてくるのです。

 社会から時計やカレンダーを一掃することができない以上、社会的現実としてのシーシュポス構造を根底から変えることはできません。従って、それに対抗するには同じところをグルグル回っていると感じることのないような生き方をすること以外に方法はないと思います。

 もう一つの「無意味な繰り返し」は、何らかの目的が達成された瞬間、あるいは願望や夢や願いが成就した後に訪れる喪失感に関係しています。これは社会学では目的アノミーと呼ばれている事態です。

 たとえば、銭形警部がルパンを本当に逮捕してしまったときに訪れる喪失感や無意味感です。銭形警部の人生の意味や生きがいのすべてはルパンを逮捕することだったと言っていいのですが、しかし、その目的が本当に達成されてしまった瞬間に人生の意味は消え去ってしまうのです。次に、ルパンを逮捕すること以上の意義ある目的を見つけられたとしても、この目的も同じように、達成と同時に人生の意味は消えてしまう。このようなときに感じられるのが目的アノミーです。

 どちらも根本的に回避することは不可能であると思われます。しかし、「死に向かう存在だからこそ生には価値が与えられている」ということを理解した後に、「私たちの生はそもそも意外性に満ちている」という仕方で生の濃密さを享受できる道もあるのではないでしょうか。そもそも人生が無意味な繰り返しだと思えてくるのは生の「意外性」を感じられないからであり、生の意外性を感じられないのは私たちが「死に向かう存在」であることを受け入れていないからではないでしょうか。

 本来の生が持っている「人生の意外性」を日々感じて生きることができるならば、人生に明確なる目的や意味など打ち立てる必要はないのかもしれません。

 

「意外性」があるから面白い

 予測不可能な事態というのは、自分にとって良くも悪しくも「意外性」のあることです。もし、明日起こることがすべてわかっていたとしたら、何が起こっても意外に感じることはないでしょう。

 人生を楽しもうと思ったら、意外性がたくさんあった方がいい。なぜなら、平板化している日常に刺激を与えてくれるのは意外性のある出来事や人間関係だからです。それに意外性のある出来事の方が記憶に残るし思い出にもなりやすい。

 意外性がなかったらどうか。たとえば、敵が全くいないゲームをやったら面白いだろうか。また、敵が単調な攻めしか仕掛けてこないとしたら、どうだろうか。たぶん、すぐに飽きてしまうだろうと思います。やはり、ゲームというのはやっかいで憎たらしい敵が意外性のある攻撃を仕掛けてきた方が面白いはずです。

 また、男と女が出会い、何事もなく結ばれるラブストーリーがあったらどうだろう。実につまらないと思います。やはり、意外性のあるライバルや仲を裂く憎たらしい女友達が出てきた方が面白い。友達よりも姉妹だったら、好きな男が実は実の兄だったりしていたら、これは意外性があって面白いはずです。

 

予測不可能性と意外性

 しかし、人生を飽きさせない重要な要素である意外性は、予測不可能性に立脚しているがゆえに、「不安(リスク)」を生み出す根源でもあります。

 予測できないということは、自分にとって良いことが起こるかもしれないし悪いことが起こるかもしれない…。どちらが起こるかはわからない。つまりこれは、リスクが高い状態なのです。誰だって良いことが起こることを願い、悪いことが起こらないことを願います。だけど、どうなるかわからない。だから、不安になる。

 不安に敏感になると、いろんな口実を持ち出し、予測できないことを予測しようとします。そして、その予測を固定化した事実のように考え、不安を打ち消そうと試みるのです。たとえば、「どうせ失敗するに決まっている」や「所詮、失敗するだろう」という言い方を用いて、明日は自分にとって悪いことが起こるに決まっているのだ、という論法でもって不安を緩和しようとする。この論法によって、逃避的口実を作り出し、どうなるかわからないという不安要因を排除するのです。

 その論法の根拠になっているのは、過去の経験履歴です。過去の出来事や思い出などを根拠に、明日も昨日(過去)のようなことが起こるに決まっていると予測する。しかし、明日起こるかもしれない意外性に富む出来事は、常に過去の経験履歴からは予測不可能な出来事です。

 たとえば、明日起こることが過去の経験履歴から想像でき、予測可能だったとする。そして、予測したことが現実に起こったとします。はっきり言って、そこには何の意外性もない。なぜなら、予測できる範囲のことが実際に起きたとしても、これは意外性とは認識されないからです。先の例で言えば、意外性というのは、失敗するだろうと思っていたらなぜか成功してしまった、という事態です。

 もし、人生を楽しみたい(つまらない人生は嫌だ)などと考えるなら、意外性を有効利用するしかないと思います。意外性の観点から言えば、大きな失敗も嫌な出来事も嫌な人物に出会うのも、意外性に貢献することならそれらはすべて人生を楽しむ要素として重要であると考える。良いことも悪いことも失敗も嫌な出来事もすべて等しく本人の経験値をアップさせると考える。ゆえに、人生必ずしも良いことばかりを願う必要はないと考えるのです。

 今までうまくいっていても今後はどうなるかわからない。同じように、今までうまくいっていなくても今後はどうなるのかわからない。つまり、今後何が起こるかわからない。このような何が起こるかわからないという予測不可能性が意外性の前提を成し、意外性を担保しているのです。

 

予測不可能性と「他者」

 しかし、何が起こるかわからないという状態は、不安を惹起する要因でもあります。もし、不安に対処する方法があるとしたら、それは一つしかありません。すなわち「何もしないこと」。何もしなければ嫌な事態に遭遇せずにすみます。というよりこれは、「嫌な事態にすら遭遇することができない」と考えた方がいいのです。

 何もしなければ自分にとって不都合なことは起こりません。だけど、同じように良いことも起こらない。要するに、何もしなければ何も起こらないのです。従ってこれは、昨日のように今日もあり、今日のように明日もある、という意外性に乏しい、変化に乏しい人生です。

「予測不可能生=他者」と考えることによって、そのような考えは一層深まります。

 

… 私にとって他者とは私の経験に回収されるものではないということ… 私の内側からとらえられた経験からはみ出す可能性、むしろそれこそが私にとっての他者の定義である…(加藤 2007:160)

 

 また、「予測不可能性のない世界」とは「他者のいない世界」であり、他者のいない世界とは「絶対的な孤独の世界」となります。

 

 … 物事だけでなく、他者がすべて自分の都合よくふるまってくれたらどんなにいいだろう。それは私にとってすべてが自分の期待通りに進行する世界であるだろう。… それはある意味で絶対的な孤独である。

 

 なぜなら、そこには真の意味での他者がいないからである。あなたの思い通りになる世界の内部にいる者たちは、実は他者ではなく、あなたの欲望の鏡でしかない。あなたはあなたの外なる者たちとかかわりあうことはできない。…(加藤 2007:161)

 

… たしかに私たちは、しばしば他者との関係において傷つき、病むこともあるけれども、… [ 絶対的な孤独である世界=肥大化した自己の欲望しか存在しないような世界に ]… 嫌悪を抱くなら、あなたはただ単純に都合のよい経験を望んでいるわけではないのだろう。… 私たちの多くは、現実の他者と、現実のなかでかかわりあうことを、どこかで痛切に望んでいるのである。…(加藤 2007:161−2)

 

 「不安」と「意外性」は表裏一体

 予測不可能性から生ずる「何が起こるかわからない」という状態。この状態が生み出す不安=リスク。リスクが生み出す自己防衛的心理。この防衛的心理は予測不可能な事態を逃避的に排除します。予測不可能な事態を排除すれば、予測不可能性を前提とした意外性のある出来事は起こりません。

 つまり、予測不可能性から生ずる不安=リスクは意外性と常に表裏一体であり、トレードオフの関係を成すのです。よって、意外性を求めれば必ずリスクは生ずるし、逆にリスクを消去しようとすれば意外性も一緒に消去されます。要するに、不安というのは「意外性の予感」であり、人生を飽きさせない要素である意外性のバロメーターであると解釈できる。極論すれば、人生を楽しむためには不安=リスクが必要なのです。

 生きていればいろんなことが起こり、人生何が起こるかわからない。何が起こるかわからないから不幸なことが起こるかもしれないし、幸せだと思うことが起こるかもしれない。しかし、何が起こるかわからないからこそ希望や夢が抱けるというのも事実です。

 生きていればいろんなことが起こる。本当に毎日が理不尽な日々です。だけど重要なのは、嫌なことも起こり良いことも起こるわけだが、これによっていちいち一喜一憂(右往左往)しないことだと言えそうです。

 

死の確実性と予測不可能性

 それら(日々に右往左往しないこと)を最終的に支えるのは「死」であると思われます。死は過去の経験履歴には一度も登場しない出来事なのに、将来確実に起こること、その意味で「いつ」死ぬかどうかを別にすれば、死は確実に予測可能な出来事です。死こそが「私」の将来にとって絶対確実なことなのです。

 だけど、私の死は「私の経験に回収されるものではない」、「私の内側からとらえられた経験からはみだす可能性」である以上、私の死は私にとって「他者」(予測不可能)であると言えます。

 生きている人にとって死という出来事は、万人に開かれた絶対確実なことなので、すべての存在者は「明日、死ぬかもしれない」という予測不可能性に晒されています。この予測不可能性は今まで言ってきた意外性などには回収されない。これは意外性とか不安=リスクなどを感じる主体(世界)そのものが消滅する事態だからです。

 

「存在の不安」と「出来事の不安」

 つまり、「明日、何が起こるかわからない」という予測不可能性のなかに、私の死という存在の消滅も確実に入っているということです。しかし、「明日、私は死ぬかもしれない」という「存在の不安」と、「明日、嫌なことが起こるかもしれない」という「出来事の不安」は絶対的に水準がちがうのです。しかし、それなのに、水準の異なる「存在の不安」と「出来事の不安」が「明日、何が起こるかわからない」という予測不可能性のなかに両者ともに収まってしまう。そして、「存在の不安」はいつしか忘却され、「出来事の不安」のみが予測不可能性として重大視されるようになるのです。

 死という不可避性(理不尽さや残酷さ)を直視し、考え、「死に向かう存在」としての人生を受け入れることができれば、「明日、何が起こるかわからない」から「不安」に怯えるのではなく、「明日、何が起こるかわからない」からこそ「前向きに」生きられるようになる、というぐあいに生き方を変換できるのではないでしょうか。

 つまり、「明日、何が起こるかわからない」ということのすべての可能性の地平を根本から支えている「私」が、いつ消滅するかわからないという不可避的な死によって規定されている以上、「存在の不安」を直視し、「死に向かう存在」であることを受け入れることによって、「出来事の不安」は単なる「不安」ではなく「意外性」として—— つまり、一回限りの「私」の生に訪れる貴重な出来事(奇蹟)として感じられるようになるのではないでしょうか。

 

 

「人生」のバイブル

 最後に、「死についての雑記」とはほとんど関係ないかもしれませんが、僕の人生のバイブルである岡本太郎の『自分の中に毒を持て』から気になったところを引用することをもって終了といたします。

 

〈人生について〉
 …人生(人生の勉強)については、いずれ学校を出て、実社会に出てからにしようなどと思っている。そして実際に実社会に出てしまうと、会社とか勤め先では人生的な勉強をする必要は全然ない。会社内の事情に一応明るくて、上役、同僚と、いずれくる後輩という人間関係さえ処理すれば事は足りる。だから自分は何か生き甲斐を、などと考えるのはバカみたいに思える。

 

 会社は忙しいし、夜帰ってくると疲れてしまうし、そのうち女房を持ち、子供などを持ってしまうと、型通りの家庭生活に入ってしまう。大体においてここで人生を諦める。よけいな本を買って、形而上学的な問題を考えたって腹の足しにもならない。それよりもゴルフでも上手になろう、などと考えて、ストップしてしまう。…

 

〈自信について〉

 よく、“どうしてそんなに自信があるんですか”とか、“自信に満ちていてうらやましい”とか言われる。だが、ぼくは自信があるとは思っていない。自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。

 

 それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘いつづけることなんだ。自分が頭が悪かろうが、面がまずかろうが、財産がなかろうが、それが自分なのだ。“絶対”なんだ。実力がない? けっこうだ。チャンスがなければ、それもけっこう。うまくいかないときは、素直に悲しむより方法がないじゃないか。そもそも自分を他と比べるから、自信などというものが問題になってくるのだ。わが人生、他と比較して自分をきめるなどという卑しいことはやらない。ただ自分の信じていること、正しいと思うことにわき目もふらず突き進むだけだ。…

 

 …自信がないと悩む。それはその人が、人生に対してコンプレックスを抱いていることの表明なのだ。弱いと自分自身思っている人ほど強くなりたいと意識する。それは別に、悪いことじゃないけれど、弱さを何とかごまかそうとしたり、強くみせかけようなどとすると、ますます弱みになってしまう。社会的に力がないとか、筋肉が弱いとかいうことも、人間が本当に生きるということ、それに対する強さとは関係ないんだ。他に比べて弱くても、自分は充実している、これで精一杯だと思えば、悔やむことも歎くこともない。人生はひらく。…

 

〈プライドとコンプレックス〉

 ぼくは、プライドというのは絶対感だと思う。自分はバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任をもって、堂々と押し出す。それがプライドだ。ところが自尊心だとかプライドだといいながら、まるで反対のことを考えている人間が多い。他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分のことをどう見ているかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものはなくなってしまう。プライドがあれば、他人の前で自分をよく見せようという必要はないのに、他人の前に出ると、自分をよく見せようと思ってしまうのは、その人間にコンプレックスがあるからだ。たとえば、自分はなんてバカな奴だといいながら、そのくせ内心では、こっそり、いや、そんなこともないかもしれない、なかなかどうしてなんて思っているものだ。そういう複雑に絡みあったものがコンプレックスだ。

 

 …大切なのは、他に対してプライドをもつことでなく、自分自身に対してプライドをもつことなんだ。他に対して、プライドを見せるということは、他人に基準を置いて自分を考えていることだ。そんなものは本物のプライドじゃない。たとえ、他人にバカにされようが、けなされようが、笑われようが、自分がほんとうに生きている手ごたえをもつことがプライドなんだ。相対的なプライドではなくて、絶対感をもつこと、それが、ほんとうのプライドだ。このことを貫けなかったら、人間として純粋に生きてはいけない。…

 

〈幸福と歓喜について〉

 ぼくは“幸福反対論者”だ。幸福というのは、自分に辛いことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態をいうんだ。だが、人類全体のことを考えてみてほしい。たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりじゃないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言いだしたらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。だから、自分は幸福だなんてヤニさがっているのはとてもいやしいことなんだ。

 

 たとえ、自分自身の家が仕事がうまくいって、家族全員が健康に恵まれて、とてもしあわせだと思っていても、一軒置いた隣の家では血を流すような苦しみを味わっているかもしれない。そういうことにはいっさい目をつぶって問題にしないで、自分のところだけ波風が立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる“しあわせ”ではあり得ない。昔、“しあわせなら手を叩こう”という歌がはやったことがある。若い連中がよくその歌を合唱して“手を叩こう”ポンポンなんて、にこにこやっているのを見ると猛烈に腹が立って、ケトバシてやりたくなったもんだ。ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。ぼくは幸福という言葉は大嫌いだ。ぼくはその代わりに“歓喜”という言葉を使う。…

 

〈「大人」について〉

 …幼い子供にとって天地のあらゆる現象— 朝、日がさしでる、雨が降る、虫が鳴いていて動いている、何もかもが不思議だ。日毎に夢をひらく、自分にぶつかってくる言いようのない衝撃。そこに無条件の生きることのよろこびを感じとりながら成長していくのだ。そのうち、いったい人生とは何だろう、と自分とは何なのか、というようなこと考えはじめる。人の目、自分の状況が気になりだす。人生は辛い、きびしいものじゃないか。

 

 しかも自分自身が自覚する以前に、すでにまわりが自分を批判し、きめつけてくる。頭がいい、悪い、運動能力がある、ない、顔がきれいだ、醜い、等々。あらゆることで。圧倒的な、巨大な社会の影だ。幼いときのみずみずしい自由感は次第に窒息させられて、世間一般の考えるとおりに考え、みんなの喋るような喋り方をし、そういうことにも気づかないほど、常識どおりの枠の中におさまってしまうのだ。いわゆる「大人」。…

 

〈言葉について〉

 …あなたは言葉のもどかしさを感じたことがあるだろうか。とかく、どんなことを言っても、それが自分の本当に感じているナマナマしいものとズレているように感じる。たとえ人の前でなく、ひとりごとを言ったとしても、なにか作りごとのような気がしてしまう。これは敏感な人間なら当然感じることだ。言葉はすべて自分以前にすべて作られたものだし、純粋で、ほんとうの感情はなかなかそれにぴったりあるはずはない。なにを言っても、なんかほんとうの自分じゃないという気がする。自分は創造していない、ほんとうではない、絶えずそういう意識がある。自己嫌悪をおこす。…

 

〈「人間だれもが身体障害者なのだ」について〉

 …社会対個という問題はさけて通ることができない。大きな、重い、人間の宿命だ。しかし、この闘いはキツイ。妥協、屈辱の結果、欲求不満、いらだち、告発が群がりおこる。そして、社会のモラルがすり切れた布袋みたいにピリピリ裂け破れ始めているのが、近ごろのいじめや家庭内暴力をはじめ卒業式騒動その他だ。ぼくが子供心に、孤独のなかに抵抗していた虚偽、それへの憤懣が次第に社会現象になってきていると思う。この世に悩んでいるのは決して自分だけじゃない。世の中の人ほとんどが、おなじ悩みを持っていると言ってもいい。不満かもしれないが、この社会生活以外にどんな生き方があるか。ならば、まともにこの社会というものを見すえ、自分がその中でどういう生き方をすべきか、どういう役割を果たすのか、決めなければならない。独りぼっちでも社会の中の自分であることには変わりない。その社会は矛盾だらけなのだから、その中に生きる以上は、矛盾の中に自分を徹する以外にないじゃないか。


 そのために社会に入れられず、不幸な目にあったとしても、それは自分が純粋に生きているから、不幸なんだ。純粋に生きるための不幸こそ、本当の生きがいなのだと覚悟をきめるほかない。自分はあんまり頭もよくないし、才能のない普通の人間だから何も出来ないんじゃないか、なんて考えてるのはごまかしだ。そういって自分がやらない口実にしているだけだ。才能なんてないほうがいい。才能なんて勝手にしやがれだ。才能ある者だけがこの世で偉いんじゃない。才能のあるなしにかかわらず、自分として純粋に生きることが、人間の本当の生き方だ。頭がいいとか、体がいいとか、また才能があるなんてことは逆に生きていく上で、マイナスを背負うことだと思った方がいいくらいだ。


 先だって、ある身体障害者の音楽家に会った。顔のつやは良いのだが、筋が萎縮する病気で、手足ともに、なえ、ひんまがっている。痛々しい。車椅子に身をよじりながらハーモニカを吹いて聞かせてくれた。自分の作曲した曲なんだそうだ。やがてオーケストラと歌手がそれに合わせて歌い始める。彼の頬に涙が流れるのが見えた。
 ぼくは異様な感動をおぼえた。曲や、涙にではない。この、一つのささやかな運命がクライマックスに達した瞬間。象徴的な瞬間にである。あのゆがんだ手、動かない、もどかしい、ひんまげられた人生。ぼくはそこに、逆になまなましい「人間」の姿を見る思いがした。このように残酷に象徴化されているが、実はこれこそ人間そのものの姿ではないか。


 人間だれもが身体障害者なのだ。たとえ気どったかっこうをしてみても、八頭身であろうが、それをもし見えない鏡に映してみたら、それぞれの絶望的な形でひんまがっている。しかし人間は、切実な人間こそは、自分のゆがみに残酷な対決をしながら、また撫でいたわりながら、人生の局面を貫いて生き、進んでいくのだ。人間はたしかに他の動物よりも誇りをもっているかもしれない。しかしその誇りというのは奇怪な曲折を土台にしている。悲しみ、悔い、恥じる。あるいは無言に、また声をあげて。しかしそれも人生の一つの歌にすぎない。自分のひそかな歪みにたえながら、それを貫いて生きるしかない。そして救われたり、救われなかったり。目をこらして見れば、それがあらわに人間生活の無限のいろどりとなっているのが見えるだろう。とりわけ、強烈な人間像に接するとき、ぼくはふとグロッタの奇怪で峻厳な、そして圧倒的なイメージを目に浮かべる。あの身体障害者の萎縮してひんまがった手を見ながら、ぼくは自分自身の肌にふれるような、むしろ喜びに似たセンセーションを覚えた。それは痛烈に、やさしい感動だった。

 

 

引用文献 

岡本太郎『自分の中に毒を持て』

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)

 

 

・ジャンケレヴィッチ『』(1978)

・ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』(1995)

ネーゲルコウモリであるとはどのようなことか(1989)

ネーゲル哲学ってどんなこと?』(1993)

中島義道哲学の道場』(2013)

加藤秀一“個”からはじめる生命論』(2007)

・ローランズ『哲学の冒険』(2004)

 

※引用は読みやすいように改行した箇所があります。