おんざまゆげ

@スラッカーの思想

死はなぜ悪なのか?― 「死」についての雑記(2)

 なぜ、死んでしまうことは「悪い」ことなんでしょうか。

 これは明らかに馬鹿げた問いであるように思います。

 死んでしまうことが悪いことなのは、あらためて問うまでもなく自明であると思われます。しかし、そこで想定されているのは二人称(あなた)の死や三人称(彼・彼女)の死のことであって、一人称の「私の死」はそれらとはかなり位相が異なっていると思います。

 たとえば、いま地球が一瞬で消滅して人類が全滅したら、これは「悪い」ことになるのでしょうか。それが悪いことだとしたら、いったい誰にとって悪いことになるのか。残された人は誰ひとりいないのだから、そこには悲しむ人も喪失感を抱く人も、痛みや怒り、苦しみや憎しみも存在しません。

 だとしたら、人類消滅は何事でもないのか。so what?なのか。

 一人称の死もその問いと同じ構造にあります。つまり、死んでしまうことは当人にとって悪いことになりえるのかー。死んでしまった人はもはや存在していませんが、存在していない人が害悪を被ることなどありえるのでしょうか。

その問いに「何事でもない」といった人がいます。

 

エピクロスの「死無害説」

 古代ギリシアの哲学者であるエピクロスは、われわれにとって「死は何ものでもない」という「死無害説」を提唱しました。

 

… 死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。

 

 そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。(エピクロス1959 :67-8)

  

「死」と「死ぬこと」と「死んでいる」のちがい

 エピクロスの論証で問題にしているのは「死 death」と「死んでいる being dead」ということであり、「死ぬこと(死につつあること)dying」ではありません。この三つの様相を区別することは重要であると思います。

 「死につつある」というのは、一定時間進行するプロセスであって、まだ生きている(死んでいない)状態のことです。死を恐怖する理由で「耐えがたい苦痛」をあげる人がいますが、これは正確には死に対する恐怖ではなく死につつある(生きている)ときに生じるかもしれない苦痛に対する恐怖のことです。

 だから、死につつあるプロセスの先に死が待っているとしても、苦痛は死を恐怖する理由にはなりえませんし、死が悪である理由にもなりません。苦痛を感じているということはまだ生きているという証拠であり、生きているということはまだ死が訪れていないということです。

 「死んでいる」というのは、一言でいえば死体のことです。しかし、一人称的に考えると「死んでいる」という状態を想像することは不可能です。「死んでいる」というのはある種の「状態」のことではなく、経験の欠如のことです。生まれる前がどういう状態だったのかを想像することが不可能であるのと同じように、「死んでいる」という状態も想像不可能なのです。

 「死」(=死亡)は「死につつある」と「死んでいる」の接点に位置する瞬間的な出来事(時点)であると考えられます。しかし、死が起こった時点を生理学的に「まさにこの瞬間に彼は死んだ」というかたちで正確に確定することはできません。死亡診断書には「〇〇時〇〇分」という一つの時点を記述するようになっていますが、生理学的には生体から死体へのプロセスには時間的に幅があると言われています。

 

快楽主義

 エピクロスは人生の目的は「幸福になること」だと考えました。生命あるものは快を求め苦を避けるのが本性であるから、幸福も快を追求し苦を避けるところの先にあるはずです。すなわち、幸福とは快に他ならない。ここから快楽主義は、快すなわち善であり、苦すなわち悪であると捉え、快苦と善悪を一致させます。

 エピクロスが言うには、幸福に必要な永続的な快 (自然的欲求が満たされた定常状態)を得るためには、いかなることに直面しても乱されることのない「平静な心」(アタラクシア)を持つことが必要だと説きます。このアタラクシアの最大の敵が「死の恐怖」なのです。

 

原子論的唯物論

 エピクロスの考え方は非常に合理的です。心や魂、感情や感覚、体験や経験というのをどこまでも唯物論的に考えます。森羅万象すべては原子によって作られており、人間の魂も物質から作られていると考える。その魂と原子(物体)の物理的衝突によって、われわれの魂に経験や感覚が生じるわけです。従ってエピクロスは、プラトンのように魂の永遠性やイデア的世界は想定していません。

 エピクロスによれば、死とは魂と肉体の物理的崩壊です。死は人間にとって絶対的な終焉になります。よって魂が消滅すれば、感覚や経験も生じなくなります。感覚が無いのなら快や苦を経験することもできない。快や苦が無いのなら善も悪も存在しない…。かくして、死はわれわれにとって何ものでもない。単なる無なのです。

 死はわれわれにとって「無い」のだから、恐怖の対象になりえない。なぜなら、死という対象そのものが存在しないからです。ゆえに結論として、死の恐怖は錯覚であり自己欺瞞の産物ということになります。

 ある人の死はその人が「生きているとき」に害を与えることはできません。その人はまだ生きている(死は起こっていない)からです。そして死んだ後、その人は存在していないのだから、害を被ることはできない(害を被る主体が存在しない)。だから、死は悪ではないのです。これがエピクロスの提唱した「死無害説」です。

 

殺人は「何事でもない」

 もし、エピクロスの「死無害説」が正しいのなら——死んだ当人にとって死が何事でもないのなら——「殺人」は悪でもなく罪でもないことになってしまいます。殺人未遂は罪になるのに殺人は罪にならず「何事でもない」という摩訶不思議な結論を導いてしまうのです。

 殺された人が死ぬときに苦痛を感じるにしても、これは「死につつあるとき」に感じる苦痛(害悪)であって、死による害悪ではありません。「苦痛は悪である」ということと「死は悪である」ということとは根本的にちがう事態です。

「残された遺族が悲しむから」という最もな理由も当てはまりません。そもそも問題になっているのは「遺族がどう感じるか」(遺族の害悪)ということではなく、死は「死んだ当人にとって」害悪になるか、ということだからです。(あと、悲しむ家族がいない人を除外してしまいます。)

 死はわれわれにとって何ものでもなく、恐怖の対象でも害悪をもたらすものでもない。まったくの「無」です。だとしたら、殺された人は何の害も被っていないことになります。しかも、死は存在の絶対的終焉なので、死んだ人は存在しない「無」です。従って、殺された人は「被害者」になりえません(被る「害」も被る「者」も存在しない)。

 被害者がいないということは加害者も存在しません。つまり、殺人は「何事でもない」のです。(殺人未遂の場合は殺されそうになった人はまだ生きているので、死とはちがって害を被ります。)

 殺人が起こって殺された人がいるのに、被害者が存在せず何の事件にもならない。エピクロスの論証を受け入れてしまうと、そのような受け入れがたい結論に直面せざるをえなくなります。ここから翻って分かることは、殺人が不正なことであると言いうるためには「死は当人にとって悪である」と言えなければならないということです。

 

死者の追悼は無意味

 エピクロスの死無害説に従えば、「死者の追悼」はまったく無意味な行為になってしまいます。死んだ人は端的に存在しなくなり、どこにも存在しない「無」になってしまうので、追悼する対象を指示することすらできないのです。

 エピクロスにとって死者の追悼は「無の追悼」という意味不明な行為になります。それは行為と呼べるかどうかすら分からないナンセンスです。

 しかし、私たちは死者を追悼します。毎年8月15日には靖国神社へ参拝に行きますし、お盆にはお墓参りに行きます。死無害説を受け入れると、そのような追悼という人間的行為の意味が崩壊してしまうのです。これは殺人が何事でもないというのと同様に、私たちにとってはかなり受け入れがたい帰結であると思われます。

 

三つの論点(害・主体・時間)

 エピクロスの死無害説を論駁するためには、乗り越えなければならない三つの論点があると言われています。

 一つは「死の害」の問題です。もし、死んだ当人が死の害を被るとするならば、それはいったいどのような害になるのか。死んだ人に感覚や経験は生じないので、苦痛のような経験的な害を被ることは不可能です。そのような「経験されない害悪」というのは本当にあるのでしょうか(害の経験問題)。

 次に、主体の問題です。エピクロスの論証の前提にあるのは「死は存在の絶対的、永久的な終焉である」という終焉テーゼです。この終焉テーゼによれば、ある人が死んだらその人はどのような意味においても端的に存在しないことになります。つまり、死は主体の消滅(非存在)を帰結します。ならば、死の害を被るのは「誰」なのか。主体が存在しないのに死の害を被ることなどありえるのでしょうか。これが「主体」問題です。

 第三の論点は、死の害は「いつ」被るのか、生前なのか死後なのか、あるいは死と同時なのか、という疑問です。もし死後だとしたら、害を被る主体が存在しません(主体問題)。もし生前だとしたら、主体は存在するので主体問題を回避できますが、まだ死んでいないので死の害は発生していません。発生していない害を被るというのは常識的に考えて不可能です。従ってこの場合、死の害は死後に被ると言わざるをえなくなりますが、そうなると主体問題が残り続けます。これが「害の時間(時点)」問題です。

 

〈死と意識のかくれんぼ〉

  … 死は意識とかくれんぼを演ずる。わたしがいるところには死はない。そして死があるときにはわたしがもはやそこにはいない。

 

 わたしがいる間は、死は来るべきものだ。そして、ここにそしていま死が到来するとき、もはやだれもいない。…  死と意識とは、スイッチの働きによるかのように、たがいに追いはらい、斥けあう。… (ジャンケレヴィッチ 1978:35)

 

 

 「経験されない悪」(死の剥奪説)

 死んだ人には感覚がないので、苦痛や不快を経験することはできません。もし、死んだ本人が死の害を被るとしたらそのような経験的な害悪ではなく、経験にもとづかない害悪、「経験されない悪」ということになります。以下では死の害悪だけではなく、害一般において「経験されない害悪」がありうることを説明します。

 

「悪」とは何か

 「悪」という概念をスマートに一律に定義することはできませんが、概ね「望ましくない状態」という意味です。ざっくり二つの意味に分けると以下のようになります。

(1)倫理に反する、道を外す、という道徳や正邪に関する「道徳的な悪(罪)」

(2)利害、福利、幸不幸に関する「利害的な悪(害)」

 

 さらに整理すると、以下のようにまとめることができます。

(1)道徳的な悪(道徳的善悪・道徳的価値)=行為者の「行為の問題」

(2)利害的な悪(利害的善悪・一般的価値)=被害者の「変化の問題」

 

 道徳理論において(2)の結果から(1)を判断するのが帰結主義。(2)の結果に関係なく(1)を判断するのが義務論。また、法律は(2)に関係する利益(保護法益)を守るために(1)を規制するものです。

 

「加害者」が存在しない悪

 ある人が害を被り「被害者」になるのは(2)の利害的ファクターが負に変化するからですが、被害には「加害者」がいる場合といない場合があります。被害者がいても加害者が存在しない場合がありうるのです。たとえば、「自然」や「動物」は加害者になることができません。加害者という存在が成立するためには(2)から遡及的に(1)を問題にできる場合のみです。

 自然や動物が(1)を問題にできない理由は、(1)を問うことができるのは応答責任をもっている「道徳的な責任主体」だけだからです。道徳的な責任主体になれるのは「悪意をもちうる」と判断される主体のみに限られます。「悪意をもちうる」と判断されるためには、その主体に「悪への自由」と「自己決定権」が認められることが必要です。*1

 以上のことから、自然や動物は道徳的責任主体にはなれないので「加害者」になることはできません。自然災害に遭ったり熊に襲われた場合、被害者は存在しますが加害者は存在しないのです。(動物は加害者にはなれませんが「被害者」にはなりえると思います。)*2

  また、病気や自損による怪我なども加害者の存在しない被害ということになります。もし、死が害悪になるのなら、死の害も加害者の存在しない被害です。一方、死が害悪になりえず殺人が「何事でもない」と言えるのは、殺人によって(2)の利害的ファクターが何ら変化していないとみなされるからです。従って、死が惹起する(2)の利害的ファクターの「負の変化」を論証できないかぎり、(1)の道徳的な悪(罪)を問う資格が得られず〈被害者-加害者〉の関係が成立しないのです。*3

 

消極的な悪と積極的な悪

 善悪はその見方によって「積極的/消極的」の二つに分けることができます。どちらも先ほどの(2)の利害的な変化に関係しています。

 負の価値をもつファクター(害悪)を新たに獲得することによって望ましくない負の状態へと変化することが「積極的な悪」です。たとえば、「病気になる」「怪我をする」「事故に遭う」というのは積極的な悪の例です。ここでの「積極的」の意味は「~がある」ということであり、新たな負の属性(悪)を獲得してしまうという意味です。

 それとは逆に、もともと持っていた正の価値をもつファクター(善)を失ってしまうことによって望ましくない負の状態へと変化することが「消極的な悪」です。たとえば、「失恋」「解雇」「評価が下がる」「財布を落とす」「ペットの死」などです。ここでの「消極的」の意味は「~がない」という消失や剥奪のことを言います。既に所有していた正の属性(善)が奪われる(剥奪される)という意味で消極的な悪になります。

 もし、死が悪になりうるのなら、それは後者の「消極的な悪」ということになります。死後の世界を想定しないかぎり、死によって新たに獲得される正負の属性はないと考えられます。従って、死が悪になるのは生きることで所有しうる人生全体に内包されている善が、死によってすべて奪われてしまうからです。

 

〈死は消極的な悪〉

 もし死後には何も残らないような死が、死ぬ人にとってよいことか悪いことかのいずれであるならば、それは、[~がないという意味で] 消極的な善あるいは悪であるにちがいありません。それ自体において、死は何ものでもありませんから、死は快楽でも不快でもありえません。…

 

… またもし死が悪いことならば、それは死には(興味深い経験や快適な経験のような)何かよいことがないからにちがいありません。(ネーゲル 1993:126-127)

 

不倫はバレなきゃOKか?(あるいは覗きや盗撮は?) 

 義務論的に考えれば、不倫はバレていなくても道徳的に悪であると言えます。しかし、ここで問題にしているのは道徳的な悪ではなく利害的な悪の方です。利害的な悪を問題にするためには、不倫された側(裏切られた人)の利害が負の方向へと変化している必要があります。

 もし、不倫された人(彼)がその事実を一切知らなかったなら、その彼は害悪を被っていることになるのでしょうか。彼は不倫の事実を知らないので経験的にショックを受けたり、怒りや嫉妬を感じることもありません。不倫されていることを知らずに、今までと何も変わらない関係を維持しながら生活することが可能です。

 彼を騙して他の男性と不倫している彼女は、彼にバレないかぎり「加害者」にはならないのでしょうか。不倫の事実を知らない彼の内面には何の利害的変化も起こっていないので、彼は不倫されていても不幸にはなりえない。これがエピクロス的快楽主義(快苦と善悪の一致)の考え方です。

 

〈経験されない害悪〉

 ... 当人の知らないことが人を傷つけることはありえない、というよく知られた見解の中に一般的な形で表現されている。それはすなわち、ある人が友人に裏切られていようとも、陰で嘲笑されていようとも、また、面と向かっては丁重に扱ってくれる人々に実は軽蔑されていようとも、その結果として当人が苦しみ悩んでいない限り、それらはいずれも彼にとっての不幸とはみなされえない、ということを意味する。

 

 それはまた、遺言状の執行者によって自分の意志が無視されることになったとしても、また、自分の栄光を支えているすべての著作が、実は28歳のときメキシコで死んだ弟の筆によるものであると、死後広く信じられるようになったとしても、当人がそのことで傷つくことはない、という意味でもある。…(ネーゲル 1989:7)

  

 しかし、そのような場合でも消極的な悪を想定すれば、彼は利害的な悪を被っていると考えることができます。彼は不倫の事実をまったく知りません。だから、彼が経験的に害されることはありえない。彼が被っている害は、身体的な内在的・実質的な変化(経験による変化)によるものではなく、彼と彼女の関係性に依存する非身体的な関係的変化による「消極的な悪」なのです。

 彼は彼女の不倫という行為により、彼女との関係性によって所有していた善(愛や信頼や絆)を失ったのです。彼は不倫されているという事実を知らなくても、彼の内面的な経験とは無関係の場所で、彼女の不倫という行為から帰結する「所有していた善の剥奪」という「関係的な害」を被ったのです。

 苦痛や不快や損傷といった害は、身体的で経験的、内在的で因果的な害です。エピクロスのような快楽主義が想定しているのはそうのような害だけですが、それとはちがうかたちの「関係的な害」というものがあります。彼のように不倫されていることを知らない、よって直接的に経験されない害悪が「関係的な害」です。

 たとえば、浴場で着替えているところを覗かれたりスマホで盗撮されたりすることは犯罪ですが、これは盗撮された本人がそのことにまったく気づいていなくても犯罪になります。本人は盗撮されていることを知らず、よって苦痛や不快やショックのような内面的な経験が生じていなくても、盗撮行為によりその人が所有していた善(尊厳やプライバシー)が侵害されたのです。

 つまり、盗撮された人は実質的には何の利害変化もしていないのに、関係的には負の利害変化が生じた——「関係的な害」を被った——わけです。事実、覗きや盗撮は被害者にバレるかバレないかに関係なく犯罪です。これと同じように、不倫はバレなくても利害的に悪になります。不倫をした彼女は彼にバレなくても「加害者」であり、帰結主義的にも道徳的な悪(罪)を犯したと言えるのです。

 

その他の「経験されない悪

 不倫や盗撮、覗き以外でも「経験されない悪」の事例が存在します。以下では三つの事例を紹介します

 (1)当たっていた宝くじを知らずに捨ててしまったケース。

 宝くじ(1億円)に当っていたことを知らずに誤ってその宝くじを捨ててしまった場合、捨てた人はその宝くじが当たっていたことに気づいていません。捨てた人は明らかに損をしていることになりますが、本人がそのことに気づかなければ1億円分の損失を被ったことにならないのでしょうか。

 否、捨てた人は明らかに損をしています。これは本人の気づきとは関係なく(たとえ捨てた人が一生気づかなくても)損害を被ったのです。誤って捨ててしまったことにより、「捨てていなければ得られていたであろう善(1億円)」が本人の経験とは別の場所で関係的に剥奪されたのです。

 

 (2)本人の希望を無視するケース。

 終末期患者がリビングウィル尊厳死を希望していたのに、それを無視して延命治療を行う場合。患者は昏睡状態に陥っているので明確な意識がなく、自分の意思を表明できない状態です。このとき患者の希望(尊厳死)を無視しても、患者には意識がないのでそのことに気づきません。

 患者は自分の希望が無視されたことを知らず、長期間の延命治療の末に亡くなりました。この場合、患者は自分の希望が無視されたことを知りえなかったので、「患者の希望を挫く」という害を被ったことにはならない。

 否、患者は未来へ向けられた希望という善(尊厳死)を無視されるという害を被りました。患者は自分の希望が無視されたことに気づかなくても、患者の内面の経験とは無関係に「希望を挫く」(希望という善を奪う)という消極的なかたちで関係的に害を被ったのです。

 

 (3)有名選手の事故(昏睡状態)のケース

 とある有名野球選手が交通事故に遭い、意識不明の昏睡状態に陥ったとします。意識が回復しても野球選手として復帰することは不可能に近い。彼は未だに意識不明の状態が続いています。この場合、意識不明の彼は「もはや自分は以前のように野球選手として活躍することはできない」という事実を知りません。本人がそのことを知らないのだから「野球選手として活躍できない」ということは今の彼にとって不幸にはならない。

 否、彼は事故によって不幸を被ったのです。もし、事故に遭わなければ今でも有名選手として活躍していたはずです。事故は彼の将来の「ありえたはずの活躍」という善を奪いました。これは彼の内面的な経験とは関係がなく、彼が気づくか気づかないかは問題になりません。彼のありえたはずの将来は事故によって奪われ、ここから彼は関係的に不幸を被ったのです。

 

 以上のように、本人が経験することのない悪というのは存在するのです。経験に帰属しない関係的な害というのは、本人の知らない場所でいつとも知れずに被っている可能性があります。従って、悪というのは「いまここ」というピンポイント(時点)に生じるだけではなく、時空を超えて本人に帰属しうるのです。

 

〈関係的な害〉

 ... 人に起こりうる善や悪を、特定の時点において彼に帰される非関係的な諸性質に限定することは、根拠のない独断にすぎない、…

 

 ... まったく関係的でしかありえない善や悪が存在し、それらは、通常のしかたで時間空間的に制限された一人の人物と、時間においても空間においても彼と一致しない場合がありうる状況との、関係に関する諸特徴なのである。

 

 ある人間の生は、自分の身体と精神の境界の外で起こる多くのことを含み、また彼に起こることは、彼の生の境界の外で起こる多くのことを含みうる。このような境界は、欺かれたり、軽蔑されたり、裏切られたりするという不幸によって、つねに踏み越えられている。…(ネーゲル 1989:10)

 

 

死の剥奪説

 前述の結論から不倫や覗きや盗撮のように、本人がその事実に気づかなくても「悪である」と言えるような事例が存在することがわかりました。つまり、「経験されない悪」は存在するのです。

 死の悪も同じように考えることができます。死んだ人には感覚がなく、苦痛や不快のような経験的で実質的な変化はありませんが、非身体的で関係的な変化(関係的な害)を被りうるのです。この場合の関係的な害は「死の剥奪説」と呼ばれています。

 

〈死の剥奪説〉

 もし、(死ぬ当人にとって)死が悪いことなら、それは死が害を与えるからに違いない。そして死が我々を害するとしたら、それは死が剥奪という害であるからに違いない。我々から何かを奪うことで、死は我々に害を与えるわけだ。(ローランズ 2004:325-326)

 

 死ぬことは悪いことである、という見解の意味するところを理解するためには、生は善であり死はその善の剥奪あるいは喪失である、ということを根拠にせざるをえない。死が悪であるのは、死のもつ積極的な特質によってではなく、死が奪い去るものの望ましさによってなのである。…(ネーゲル 1989:6)

 

... あなたが死ぬとき、あなたの人生におけるよい物事は、すべて終りを迎えてしまいます。もうこれ以上、食事をしたり、映画を観たり、旅行に行ったり、会話を楽しんだり、愛したり、仕事をしたり、本を読んだり、音楽を聞いたり、あるいは他の何もできなくなります。もしこういった物事が善があるならば、それらがなくなることは悪です。

 

… 私たちが知っているだれかが死んだとき、私たちにとってだけではなく、彼にとっても残念だと感じます。なぜならば、彼は今日の太陽の輝きを見ることも、トースターの中のパンの香りを嗅ぐこともできないからです。(ネーゲル 1993:128-129)

 

 死の剥奪説は、もし将来生きていたら得られたであろう様々な善(可能的な善)が死によって奪われたと考えます。死の害は将来(可能性)の剥奪です。ゆえに、死んだ人にとって死は消極的な悪になるのです。

 また、剥奪による害は関係的な害なので、快や苦のように特定時点(ピンポイント)に生じる共時的な害ではなく、何かと何かを対比する(関係づける)ことによってはじめて浮かび上がってくる通時的な害です。

 剥奪としての死の害は、一言でいえば「将来が奪われる」ということ。あるいは、将来へ向けられた希望、計画、抱負、欲求などが死によって不意に挫折させられしまうことです。もし生きていたらそれらは失われず、今でも可能的な善として残り続け、希望の成就や計画の達成などによって善を享受できたかもしれません。

 このように、剥奪としての死は「死んでしまった現実世界」と「生き続けたかもしれない可能世界」との対比によってはじめて浮かび上がってくる関係的な害なのです。

 

〈死は未来を奪う〉

 ... 死は我々から未来を奪うから、我々を害することになる。しかし、我々が未来を持っているのは、我々ひとりひとりが「未来に向う存在」であるからにすぎない。本質的に我々はみな、未来に向けられた存在なのである。…

 

 … 我々が「未来に向う存在」であるからこそ、我々は未来を持ち、死が未来を奪う。だから生の価値は、我々が「未来に向う存在」であるという事実と深く結びついているようだ。そしてもしそうならば、生の意味もこの事実と結びついているように思われる。… (ローランズ 2004:339-340)

 

 ... 絶望とは未来の欠如のことです。ですから、死が未来の欠如、一切の未来の破壊、どんなに取るに足りず、どんなに当てにならないにせよ、ともかく将来があるかもしれないということの破壊を意味する以上、死は絶望的なのです。… (ジャンケレヴィッチ 1995:25)

 

残された課題

 エピクロスの論証で問題になっていた三つの論点。

 (1)経験されない害悪はあるか(害の経験問題)

 (2)死の害を被るのは誰か(主体問題)

 (3)死の害を被るのはいつか(害の時間問題)

 

 前述の結論から「経験されない悪は存在する」ということは分かりました。よって(1)の「害の経験問題」はクリアできたと思います。しかし、死んだ人はどこにもいないのだから、いったい「誰が」そのような害を被ることができるのか。あるいは、害を被るのは「いつ」なのか。依然として(2)と(3)の問題は残り続けています。

 

〈主体問題と時間問題〉

 ... 想定された不幸はそもそもどのようにしてある主体に帰せられうるのか、という死の場合に固有の困難がある。その主体は誰なのかという点にも、彼はいつその不幸を被るのかという点にも、疑問がある。

 

 ある人が存在する限り、その人はまだ死んでいないが、ひとたび死ねば、その人はもはや存在しない。それゆえ、死は、たとえ不幸であるとしても、その不幸の主体に帰される時がないように見える。…(ネーゲル 1989:6)

 

 

「生」と「死」の意味

 エピクロスの死無害説は原子論的唯物論から構成されています。エピクロスが想定している「死」はどこまでも唯物論的で物質的・身体的なものです。これは死を「モノ」のように捉えているのです。しかし、私たちの「生」がモノでないのと同様に「死」もモノではありません。

 死無害説が前提している「死は存在の絶対的終焉である」という終焉テーゼも唯物論的に考えられています。そこで言われている「存在」というのはあくまでも物質的なモノとしての身体的存在のことです。

 死無害説がどこかおかしいのは、死や生をモノのように捉えているからではないでしょうか。

 

生と死の二つのレイヤー

 「生」は二つの意味に分けることができます。一つは「生きている」という「生存 biology」としての生。これは生物学的な生のことです。「ゴキブリは生きている」というのと同じような意味で「人は生きている」と言うことができます。

 もう一つは「生を営む」という「人生 biography」としての生。人生の主体である人物の歴史性が重視される伝記的な生です。人間がこのような生を生きるのは、アリストテレスが強調したように、人間存在は文化や歴史、社会や共同体に規定されているからです。

 従って、人間が生きているのは「ゴキブリは生きている」という意味で生きているわけではなく、そのような次元を超えた存在としてそれぞれの「人生を営んでいる」のです。

 「死」の意味も生の二つのレイヤーに対応しています。生存に対応しているのが「死亡」としての死。医学的に判断される生理学的で身体的、モノ的な死のことです。もう一つは伝記的な生に対応する歴史性をともなったコト的な死です。

 私たちの死はモノ的ではなくコト的であり、死は死亡という意味に還元できません。死は死亡には還元できない歴史性を帯びた意味が含まれています。

 実は私たちが本来「死」だと思っているのは後者の死なのです。しかし、エピクロスの死無害説が想定している「死」は死亡という意味でしかありません。私たちが想定している死をすべて死亡に還元することによって死無害説は成立していると考えられます。

 

〈死亡と死の混同〉

 … われわれは他者の死亡に際して、さまざまな事柄を観察し確認する。心臓の拍動停止、「意識の消滅」、「社会性の喪失」等々である。こうした経験的事実が集められ、そして吟味され、その中でも最も特徴的と思わえるものが取り上げられ、それをもって「死の定義」がなされる――「死とは臓器あるいはその複合体の機能停止である」といった具合に。

 

 だがこの定義はあくまで死亡についてなされたものであり、死そのものについてなされたものではない。ここにおいてまず、死と死亡とを混同する錯視が生じているのだ。(小松 1996:75)

 

「物語り」としての「生」narrative life

 私たちがそれぞれの人生を生きるとき、一人ひとりがモノ的に単独で生存しているわけではなく、他者と共に共同体に組み込まれながら歴史性を帯びた存在としてコト的な生を営んでいます。

 私たちは他者と共に二つのレイヤーを生きています。生理的・身体的な存在として生きる生物学的な生と、歴史的・意味的な存在として生きる伝記的な生の二つを、一人の人間が同時に生きているわけです。

 私たちの人生が伝記的な生になるのは、他者や共同体という個人を超えた存在に一人ひとりの存在が内包されているからです。個人の人生に歴史性や意味が与えらるのは、一人ひとりの生や死が他者性に貫かれているからであり、「私の生」や「私の死」はそれと同時に「他者の生」や「他者の死」にもなるからです。

 つまり、一人ひとりの伝記的な生というのは、一つの歴史的な「物語り」として他者の生と共に相互に共鳴する「ナラティブな生」(物語りの生)として位置づけることができます。

 一人の人間が生存をやめて死亡したとしても、これはただちに人間の死を意味するわけではありません。死んだ人はナラティブな生の中で歴史的・意味的な存在として生きています。なぜなら、私たちは生理的・身体的なモノとしてのみ存在しているわけではなく、歴史的・意味的な存在としてコト的に伝記的な生を営んでおり、この伝記的な生は他者や共同体と共鳴するかたちでナラティブな生でもあるからです。

 

〈共鳴する死〉

 … ある者の死亡は決して他人事にとどまらず、それぞれの人にとってそれぞれの在り方で私の死となっているのである。そして、こうした無数の死も、多様に移ろっていく。

 

 死亡を契機としつつも、死者をめぐる人々に滲み入りながら徐々に到来し、変化し、流れていく人々の関係の諸総体、それが「共鳴する死」なのであり、われわれは、生活場面では、このような起伏に富む死を生きている。(小松 1996:220)

 

ナラティブな生と死

 以上で説明した生と死の二つの意味を簡略化して図にすると以下のようになります。

 

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 「私」や「他者」はそれぞれの身体をもっており、生理的なモノとして存在し、生存しています。このことにのみ焦点を絞った生が生物学的な生です。

 しかし、私や他者は一人ひとりが単独で生存しているわけではなく、共同体の中を他者と共に生きています。私と他者は自らの身体的領域を超える共鳴化した生を営んでおり、歴史的に意味のある存在として伝記的に生きているのです。

 そして、伝記的な「私の生」や「他者の生」はナラティブな生として個人を超えた共同体(複数の他者)の中に位置づけられ、ここから「私の人生」や「他者の人生」は成り立っていると考えることができます。

 

次に、「私」が死んだとします。

 

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 私は医師により医学的・生理学的に「死亡」と判断される。死亡と判断された時から私の身体は生体から死体へと変わります。このとき、生理的・身体的な存在としての私は非存在に変わり、私は消滅したことになります。

 しかし、私は単独的に生存しているだけではなく、他者とともに在るナラティブな生を生きています。私が死亡したとしても、ナラティブな生としての「私の生」はただちに消滅してしまうのではなく、歴史的に意味的な存在としてナラティブな生を「私」は生き続けるのです。

 私はナラティブな生の中で「生から死」へと存在の意味づけが変わるだけであり、「私」は依然として歴史的で意味的な存在として在り続けます。従って、私は死亡したとしても「私の死」はナラティブな生の中で生きており、「私」は死後もナラティブな生の中で存在し続けると考えることができるのです。

 

 では、私の死後、私はどのような仕方で存在するのでしょうか。

 

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 もし、私たちが生理的・身体的な存在として生存しているだけなら、死亡後に残されているのは死体だけということになります。やがて死体は火葬され骨になり、そこに「私」は存在しないと考える。

 しかし、私たちは死者の存在を何らかの仕方で認めています。たとえば、「織田信長は天才的な武将だった」という文が有意味に成り立つように、私たちはもはや存在しない死者を主語として置くことができる。身体的に存在しない死者に対して「天才的だった」という性質を帰属することができるのです。

 以上のように、存在しない死者を有意味に指示することが可能なのは、死者が未だにナラティブな生の中を歴史的・意味的存在として生き続けているからです。身体的には存在しない死者であっても、ナラティブな生として意味的に存在し続けている。だからこそ死者の性質や評価についての言明が死後についても可能になるのです。

 従って、「私の人生」は私の死をもってただちに終わるわけではなく、私の死(生)がナラティブな生の中で歴史的意味をもって存在し続けるかぎり、私の人生は私の死後もナラティブな生として続いていくと考えることができるのです。

 

 たとえば、「野口英世の人生」は未だに以下のような仕方であり続けています。

 

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 「野口英世」の人物像は生前と死後とでは大きく異なっています。野口英世に対する評価(業績)は死後になってかなりの程度、下方修正されました。歴史について歴史修正主義があるように、ある人の人生についても死後に修正されることがありえます。

野口英世の人生」は野口英世の身体的存在が無くなっても、ナラティブな生として生き続けているかぎり「野口英世」は今でも存在するわけです。そして、身体的存在が消滅した今でも「野口英世は素晴らしい人物である」とか「野口英世の業績は実は大したものではなかった」といったように、死者に対する指示的言明が可能なのです。

 

〈共鳴する生者と死者〉

 … 生物学的に死にゆくのはもちろんその当人である。しかし… 死は決して死にゆく者個人だけにかかわる問題ではなく、その者に死は帰属していないのではあるまいか。

 

 死ぬのは当該の個人であっても、たとえ周囲の者が死はその個人だけに訪れると思ったとしても、事態としては死亡は死にゆく者とその場に集う人々との間で分かちあわれ、そこにおいて死は両者の関係のもとにはじめて成立しているのではないだろうか。

 

 具体的な場面を死亡後に設定してもよい。通夜、葬儀、火葬、埋葬、初七日、五七日、七七日、百箇日、一周忌、三回忌、七回忌 …… たとえばこのような儀式を通じて、また日常生活の中でしみじみと故人に思いを馳せる中で、遺影との眼差し合いにおいて、死は死者と残された人々との間でそのつど成立しているのではあるまいか。

 

 そしてこの関係は、死者とは直接な面識がなく、書物やテレビや伝聞を通して間接的にしかかかわらなかった人々まで拡がっている。…(小松 1996:218-9)

 

エピクロスの死生観

 以上のように生と死の二つの意味、二つのレイヤーを考えると、エピクロスの想定している死はどこまでもモノ的で物質的、生理的で身体的であるように思われます。エピクロスの死生観は原子論的唯物論のうえにのみ成り立っているので、私たちの日常の現実的な生や死の意味を説明することができないのです。

 

 エピクロスの死生観に立つなら、私たちの生は以下のような孤立的な生になってしまいます。

 

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 私と他者は物質的な生理的・身体的存在としてのみ存在し、私の人生は単独的に生存しているだけです。そこには生や死のもう一つのレイヤーであるナラティブな生がまったくありません。

 

 エピクロスが想定している死というのは、以下のように死亡と死体にのみ還元されてしまう死であり、私の死によって私は瞬時に消滅してしまうのです。

 

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 しかし、私たちが生きている死や生は、そのような一面的なものではありません。死亡によって身体的な存在が死体に変化し、その存在が非存在へと変化してしまったとしても、人間はナラティブな生の中を死後も歴史的・意味的な存在として生き続けます。

 

無人称化される死〉

 [死亡に還元されてしまった生理的過程としての死は]... 具体的な顔や歴史を備えた個人は消滅する。もはやそこでは特定のある者の死が問われるのではなく、一生物としての人間一般の生理的過程や状態だけが問題となっている。

 

 死を斉一的な状態もしくは瞬間と捉える近・現代医学は、ひとつひとつの死を、生視し、特化することなく死一般へと回収し、死は無人称の死となる。死は質を欠いた量や数の問題となり、規格化され、一律化するのである。(小松 1996:215)

 

死に内在する他者性

 そもそもどうして人間の生や死には二つのレイヤーがあるのか。なぜエピクロスが想定するような死生観は受け入れがたいと感じられるのでしょうか。

 根本的事実から考えるなら、私たちの生や死は私たち一人だけでは成立しない現象だからです。生も死も一人では成り立ちません。

 生については出産を考えれば分かります。子どもがたった一人で産まれてくるにしても、これは「生まれる」(誕生)ということではない。誰かが生まれるには他者の生の営み(人間関係やセックスのような行為)がなければ始まらないのです。

 死に関して言うと、死は死んだ人が「私は死んだ」と自ら宣言することができません。死が自己宣告不可能である以上、死は常に他者から認められることによってしか成り立たないのです。死は死んだ当人以外の人たちから「この人は死んだ」という死の認定によって初めて成り立つ現象です。

 従って、私たちの死や生が成り立つのは、その本質的な次元において既に他者性が内在しているからです。「私たち」の中に「私」が組み込まれていなければ、私たちの死や生は本質的に成り立たない。もし、死や生の意味を単独的に生存していることだけにかぎるなら、そもそも私たちの人生には始めから終わりまで生も死も存在しない(よって何の意味もない)ということになってしまいます。

 

 以上の説明から、エピクロスの死無害説が想定している「死は存在の絶対的終焉である」という終焉テーゼは間違っていると考えられます。終焉テーゼが想定している「死」や「存在」には物質に還元できないナラティブな生が含まれていないのです。そもそも私たちの生や死が存在するのはナラティブな生があるかぎりにおいてであり、そこを見落としてしまうと私たちの生や死の意味は崩壊してしまうのです。

 以下では終焉テーゼと齟齬をきたす事例を二つほど考えてみたいと思います。

 

「発見されない行方不明者」と終焉テーゼ

 終焉テーゼがおかしいのは、生と死を二分法的でゼロサム的に考えているところです。つまり、「生きている人は死んでおらず、死んでいる人は生きていない」というゼロサム的な「生か死か」という論理を身体的存在についてのみ当てはめて考えるのです。

 そのような一面的な理解にもとづく終焉テーゼは、「発見されない行方不明者」を除外することになります。私たちの社会には「病死」のような明確な死だけが存在するわけではなく、戦争や災害や事故などに巻き込まれて長期にわたって行方不明になってしまった人たちを「死亡した」と認定することがあります。

 そのように死亡認定する意味を法律的に考えるなら、長期間の行方不明はその人と関係する家族らに相続や婚姻などの法的弊害が生まれてしまうからです。法的安定性の立場からは、長期間の行方不明者を死亡したと認定することは合理的なのです。

 そのような場合、行方不明者が今でも身体的存在として生きているか死んでいるかは問題ではありません。身体的存在としての生死が確認できなくても、「あの人は死んだ」というふうに行方不明者の歴史的・意味的な存在をナラティブな生の中で「生から死」へと意味的に変更するのです。

 もし、終焉テーゼのように身体的存在についてのみ焦点化して「生か死か」を考えるなら、遺体や遺骨が発見されないかぎり行方不明者は今でもずっと身体的に生き続けていることになります。

 すると、日清戦争の行方不明者は100年以上たった今でもどこかで身体的存在として生き続けていることになってしまいます。生物学的な限界年齢を超えたところで歴史的存在ではなく身体的存在として生き続けることは端的に不可能です。以上、終焉テーゼは発見されない行方不明者を説明することができません。

 

脳死」と終焉テーゼ

 「脳死」の問題を考えると、私たちの死が個人的問題ではなくどこまでも社会的、道徳的問題であることが分かります。脳死による臓器移植法は2010年の法改正により、本人の意思表示が不明でも家族の同意さえあれば臓器提供可能になりました。脳死を一律に人間の死であると考えるかどうかは別にして、脳死は終焉テーゼの矛盾を暴露する最もわかりやすい事例の一つです。

 終焉テーゼのように生か死かを身体的存在についてのみ限定して考えると、脳死のような死は説明不可能になります。脳死という死を有意味に成立させるためには、どうしてもナラティブな生としての歴史的・意味的な存在を導入する以外に方法はないのです。

 脳死状態だった患者が「脳死」(死)として認められるのは法的な脳死判定をクリアした後です。これには家族の同意が必要になります。つまり、「家族の同意によって」生きている患者は脳死状態から脳死へと変化し、患者は死亡したと認定され、患者の身体は生体から死体へと変わるのです。

 重要なのは、そのとき患者の身体は生理学的にはまったく変化していないことです。患者の身体は脳死判定以前と以後とではまったく変化していない。それなのに、家族の同意によって脳死判定が認められるとその瞬間、生きていた患者は死亡し、生きていた患者の身体は死体に変わるのです。これは物理的・生理的な因果関係からは説明することができない論理的で意味的な変化です。

 終焉テーゼが想定している死を受け入れるかぎり、以上のような脳死という死を説明することはできません。生理的・身体的存在としての人間にはまったく変化がないのに、私たちが脳死判定を認定するだけでまだ生きてる身体的存在は死んだことになってしまうのです。そして、物理的・生理的変化はゼロなのに、私たちの「脳死と認定する」という意味づけ一つで生きた身体的存在は死んだこと(死体)になり、その身体的存在は物理的な変化がまったく生じていないのに、患者は消滅したことになります。

 終焉テーゼが想定している死が成り立つ条件は、生から死へ、生体から死体へという変化が、身体的存在に内在する生理的で物理的な変化によって生じると考えられる場合のみです。脳死のように身体的な物理変化はゼロなのに、生体が死体へと勝手に変化するなどということはそこからは説明できません。

 脳死という死を説明するためには、身体的存在には還元することのできない別次元の「存在」を措定する以外にありません。それはナラティブな生の中に生きる歴史的で意味的な存在のことです。現に私たちは脳死を人の死として受け入れてしまっています。身体的存在としては何の変化もないのに、脳死判定を認めることによって「その人は死んだ」という認定をしているのです。このように、生理的・身体的変化にもとづかなくても意味的な存在の位置づけを変更することによって、私たちの生は死に変わりうるのです。

 

 

死の害を被るのは誰か(そして、それはいつか)

 エピクロスの死無害説で問題になっていた残された課題の一つに「死の害を被るのは誰か」という主体問題がありました。この主体問題が問題になりうるのはエピクロスが想定している終焉テーゼを受け入れるかぎりにおいてです。前述の説明から私たちの生や死には二つの意味があり、二つのレイヤーがあることが分かりました。従って、終焉テーゼの「死は存在の絶対的終焉である」という命題は受け入れることができません。

 私たちは「死亡」してもナラティブな生の中を生きています。そして、ナラティブな生の中で歴史的・意味的に存在し続けています。死によって害されるのは、そのような歴史的・意味的存在の主体が生きているナラティブな生としての人生全体です。

 死の剥奪説によって死の害を被るのは主体そのものではなく、主体を内含した人生全体です。つまり、「私が死んだ現実世界の人生」と「私が死ななかった可能世界の人生」を対比させ、死は私の人生から私の未来に存在しうる可能的な善を奪ったと考える。よって、私は死によって剥奪の害を被ったわけです。この際、害を被る私は身体的存在としての私ではなく、歴史的・意味的に存在する私なのです。

 次に、残された課題として「死の害を被るのはいつか」という害の時間問題がありました。以上の説明から分かるように、害を被るのは「死後」であると考えられます。死後にあっても主体はナラティブな生の中を生きており、死後に害を被ると言っても不都合は生じないのです。

 

 

[結論]「死は悪である」

殺人が許されない理由

 以上、エピクロスの死無害説のおかしな点を理解し、死有害説、すなわち「死は死んだ当人にとって悪である」と言えることが分かりました。ここから分かるのは、殺人の不正理由です。よく出る素朴な質問で「なぜ人を殺してはいけないのか」というものがありますが、その理由は「死は悪だから」と考えられます。

 もちろん、戦争や正当防衛、緊急避難などのように阻却可能なものは当然あります。しかし、死は悪である以上、殺人は原則として不正なのです。つまり、殺人は利害的な悪であり道徳的な悪であり道徳的な罪なのです。従って、法律的にも罪になります。

 

「英霊」に対する態度

 私たちが死者を追悼するのは、死者も生者と同じようにナラティブな生を未だに生き続けているからです。死者は身体的存在としては消滅したとしても、歴史的・意味的な存在としてナラティブな生を生き続けています。別に右翼や保守にならなくとも「英霊に対する態度」というものはその観点から引き出すことが可能です。

 戦争で死んでいった死者たちの希望や願い、無念さや絶望感、悲哀や寂寞、やりきれなさといったものは、戦死した瞬間に身体的存在とともに消え去るものではありません。そのような死者の思いは死後も残り続けているし、死者自身も未だに生き続けているのです。

 従って、死者が未来へと投げかけた希望や願いが成就するのかどうか、あるいは裏切られてしまうのかどうかは現存在の生きかた一つにかかっています。私たち現存在は「英霊」を利害的に害することができます。私たちは英霊を害する加害者にいつでもなりうるのです。ここからしか「英霊に対する態度」は生まれないと思われます。

 

 

【参考文献】

ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』(1989:1-16)

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

 

 

ネーゲル『哲学ってどんなこと?』(1993)

哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門

哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門

 

 

 ・小松美彦『死は共鳴する』(1996) 

死は共鳴する―脳死・臓器移植の深みへ

死は共鳴する―脳死・臓器移植の深みへ

 

 

・ジャンケレヴィッチ『』(1978)

・ジャンケレヴィッチ『死とはなにか』(1995)

・ローランズ『哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る』(2004)

・レイチェルズ『生命の終わり―安楽死と道徳』(1991)

・一ノ瀬正樹『死の所有―死刑・殺人・動物利用に向きあう哲学』(2011)

エピクロスエピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)』(1959:67-8)

 ※ 引用は読みやすいように適宜、改行したところがあります。

 

 

*1: 「道徳的な責任主体」について。

 小学生や中学生は未だ発達過程にある経験に乏しい未熟な存在と判断されるため、自己決定権の主体としては認められていません。また、心神耗弱で減刑される刑法39条の法理は、判断能力の欠如によって「悪への自由」と自己決定能力が阻害されていると判断されるからです。

 

*2: 「動物は被害者になりうる」について。

 これは法的な意味ではなく道徳的な意味で被害者になれるということです。ちなみに動物愛護法の保護法益は「動物」ではありません。

 「… 動物愛護管理法制の基本的な部分を構成してきた虐待や遺棄の禁止規定の法益は、動物の生命・身体の安全そのものを直接の保護法益としているものではない…」(資料4 「動物の愛護管理の歴史的変遷」環境省)

https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/arikata/h16_01/mat04.pdf

 

*3: 〈加害者-被害者〉の関係は微妙な問題。

 明確な「被害」が存在し、この被害と遡及的に関係する道徳的責任主体が認定される場合、この認定された責任主体は「加害者」になります。石につまずいて転んで骨折した場合は自損ですが、他人の足につまずいて骨折した場合はどうなるでしょうか。この場合、「他人の足に引っかかった」のか「他人の足に引っかけられた」のかで大きく異なってきます。前者も過失が問われる可能性があるので加害者にはなるのですが、後者は故意によるものなので悪質な加害者です。

 しかし、ここが大問題なのですが、「引っかかった」と「引っかけられた」を明確に截然と区別する方法がないのです。たとえば、わざと足に引っかかったふりをして「引っかけられた」と被害を訴える「転び公妨」やサッカーのシュミレーション、わざと足を引っかけたのに「ごめんね!わざとじゃないんだ… 他意はないから~」という陰湿ないじめ、ストリートの「肩が当たった⇒因縁をつけられる」論争などがあります。

 交通事故もその一例です。事故が「対人」の場合、車と人間を比した観点から「車は凶器である」という大前提がありますので、運転手はただ車に乗って運転しているだけで大きな責任が課せられています。つまり、車の運転というのはただ普通に運転しているだけで常に道徳的問題なのです。車同士の接触事故の場合では、前述のように〈被害者-加害者〉を截然と区別することができません。

 このような微妙な〈被害-加害〉の関係は、被害の大きさと加害者性のちがい(故意・過失・無知)などによって是々非々で判断せざるをえないでしょう。