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おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想。

【小説】平野啓一郎『空白を満たしなさい』/「分人」という生き方

 ある日、勤務先の会社の会議室で目覚めた土屋徹生は、自分が3年前に死亡したことを知らされる。死因は「自殺」。しかし、愛する妻と幼い息子に恵まれ、新商品の開発に情熱を注いでいた当時の自分に自殺する理由など考えられない。

 じつは自分は殺されたのではないか。とすれば犯人は誰なのか、そして目的は? 記憶から失われた自らの死の謎を追求していく徹生が、やがてたどりついた真相とは…? ミステリー仕立てのストーリーを通し、自殺者3万人を超える現代の生と死、そして幸福の意味を問う傑作長編小説!

Amazonより)

 

空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

 

 

「分人主義」

 著者の平野さんが提唱している「分人」という考え方を軸に、「生」と「死」について真正面から問うた作品。

「分人」とは「個人」という概念に潜んでいる「ほんとうの自分」幻想を否定すること。

 そもそも人間は確固たる「個人」として生きているのではなく、いろんな関係性の可能性の一部としての「分人」を生きている。よって「これぞ私」という本物の「自分」がいるのではなく、人間関係の数だけそれぞれにそれぞれの「自分」(=分人)がいる。

 これは「キャラを演じる」ことや「解離」とはちがう。

 そのようなある種の「過剰さ」を演じなくても、人は人と関係性を持ちさえすれば、おのずと「分人」になるという。

 以上が平野さんの「分人」という考え方です。(詳しくは『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』参照のこと*1

 

時代に逆行する小説では?

 読後感的には、すごく理屈っぽい小説だなぁという感じ。

 あと、あまり感動はしなかった。

 そもそも「死んだ人間がよみがえる」という設定に無理がある。

 また、主人公の徹生がかなりの「仕事人間」で、しかも「俺が家族を守る!」というかなり古い考え方の持ち主(団塊世代?)だった点も冷める一因。これって「過労自殺」じゃん、みたいな。

 最初は「分人主義」を際立たせるために、あえてそのような設定にしたのだろうと思ったのだが、ラストの方で意外にもやっぱり「仕事で自己実現」願望の強さを発揮していたので、やっぱりなぁって感じだった。

 何より違和感を抱いたのは、始めから最後まで「自殺」を人生における「汚点」のような「恥ずべきもの」(あるいは家族への裏切り)だと捉えたうえで、主人公がそれを必死に挽回しようとするところ。

 最終的に徹生は「分人」という考え方に目覚めたことによって、自分の死因は自殺なのだとやっとのことで受け容れる。しかし、「自殺は汚点」という自殺観はそのまま維持されているように思う。

 もし、主人公がはじめから「分人」という考え方を知っていれば、人生をもっと楽に生きることができて、「自殺」などという取り返しのつかないようなバカな選択をしなくてもよかったはずだ、というのがこの小説の主題のようだ。

「分人」という発想を小説に落とし込みたいという気持ちはすごくよく分かるのだが、「分人」を強調すればするほど、〈構造的な問題としての自殺〉という見方が失われているように思う。

「分人主義」を貫いたとしても、〈構造的な問題としての自殺〉に追い込まれる人はいるだろうし、だとしたらこの小説で暗に前提にしている自殺観はあまりにも浅薄すぎる見方ではないだろうか。

 あともう一つ。

 著者の分人主義は、突き詰めて言うと「人間関係主義」のことである。よって、人間関係のネットワーク(いわゆるソーシャルキャピタル)からこぼれ落ちた人たちには無力である。

 つまり、〈個人から分人へ〉と言っているわりには、「分人」にはなれない「孤人」の問題を見落とし(あるいは「切り捨て」)ており、本来なら〈孤人から分人へ〉の方が大きな問題だろう。

 そう考えると、この小説の楽天的に過ぎる設定がわかってくる。

 家族のために仕事に奮起する36歳の男、徹生・・・!

 安定した仕事にも就けずに、しかも家族形成もままならずに苦しんでいる若者がたくさんいる現代社会ニッポンで、「分人」にもなれずにいる人たちが大勢いるだろう。

 やはり「分人」という考え方には無理がある。

 そんなの無茶なのだ。

 というか、そもそもその程度のことで楽に生きられるはずがない。

 つまり、その程度のことなのに、その程度のことだと知らずに小説化してしまった作品が本書なのである。 

 

*1:「分人」について。

 この「分人」という考え方は、むしろ「あたりまえ」なのではないかと思いました。別にそのように言われなくても、社会に適応するには「分人」にならざるをえないのではないかと…。たとえば、「見知らぬ他人と話す時」と「友達と話す時」と「面接で話す時」と「上司と話す時」と「親と話す時」…。これらはそのつど言葉遣い(モード)が変わりますが、このときのモードの違いに対応して違う自分を演じることになり、この演じ方の違いを習得しないと「コミュ力」がないと判断され、人間関係に悩むことになります。ミードやゴフマンの本では社会化には「演技」や「役割」が必要であると述べられており、社会を生きるにはそれなりの演技を伴った「違う自分」(分人)を作りだす必要に迫られます。だから、ことさら「分人」などと言われなくてもみんな「分人」的に生きざるをえず、そのような「分人」圧力の高さが生きづらさに繋がっていると考えられます。従って重要になってくるのは、社会的な「分人」圧力に対抗する非社会的な「分人」をいかに作りだすか、つまり、そのような社会的ではない「分人」として生きられる居場所(演技を迫られないゆるい人間関係がゆるくたゆたっている空間)をどうやって構築するかということだと思います。

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