おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想など。

湯浅誠『「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ』/「生きづらさ」は社会的・構造的問題

「生きづらさ」に関する鼎談本

 現場で活動している湯浅誠さんと河添誠さんが、学者や専門家の方々をゲストに迎えて現代日本の「生きづらさ」について議論している鼎談本。

 

「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ

「生きづらさ」の臨界―“溜め”のある社会へ

 

 

社会的・構造的問題として「生きづらさ」を捉える 

 テーマになっているのは「生きづらさ」をキーワードにした「貧困」や「若者論」、「労働論」など。あくまで「生きづらさ」を個人的・心理的問題としてではなく、社会的・構造的問題として捉えるというのが基本的スタンス。

 わたしたちはつねに、「生きづらさ」の問題を社会的次元において、社会構造の問題に押し戻しながら、語っています。(4)

 

 鼎談する前に、湯浅さん河添さん各々が、活動している現場から浮上した問題や疑問を文章のかたちで問題提起し、それを軸にしながらゲストの学者や研究者と鼎談する、という親切で分かりやすいスタイルになっている。

 

「ハイパーメリトクラシー」と「不器用さ」

 3人のゲストの中で最も興味深かったのは、本田由紀さんとの鼎談『「不器用さ」は排除されても仕方がないか―若者の「自立」をめぐって』という章。

 そこでは本田由紀さんが『多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』で提唱した「超・能力主義(ハイパーメリトクラシー)」が主題になっている。

 ハイパーメリトクラシーとは、本田由紀による造語であり、対人能力、リーダーシップ、意欲、問題解決力、創造性など、人格や感情と切り離せない柔軟な諸能力が社会のなかでの選抜や地位達成の基準として重要化した状態を意味する。

 

 従来のメリトクラシーにおいては習得可能・計測可能な知的優秀さがおもな基準であったが、それに追加されるかたちでハイパーメリトクラシーが顕在化してきたことにより、人びとへの自己責任圧力や格差・差別がいっそう深刻になっていると本田は指摘している。(46)

 

  ふつうのメリトクラシーは座学を中心にした所謂「読み書き算盤」に代表されるようなペーパーテストで評価できる能力を対象にしている。それに対し、ハイパーメリトクラシーは「人間力」や「生きる力」といったような客観的基準のあいまいな能力を対象にしている。コミュニケーション能力が重視され、「スマイル0円」的な感情管理能力が求められる。「器用な人」が有利な半面、「不器用な人」は圧倒的に不利になる。

 器用に仕事をこなし、人間関係を構築することが以前より求められるようになっている。この「器用さ」が、より求められる職場環境において、“不器用さ”はよりきわだった職場からの排除の理由となる。いわゆる「空気の読めない使えないヤツ」というわけだ。

 

… 不器用さのグラデーションに応じて個々の労働者は階層化された労働に配置されていくことになる。不器用の程度が大きい者ほど、より下層の労働現場に送り込まれていく。…(23-4)

 

 ハイパーメリトクラシー化が進む背景要因の一つとして、そのような漠然たる評価基準を用いたほうが企業にとって好都合だからというのがある。

 ハイパーメリトクラシーが野放図に広がるのは、ハイパーメリトクラシー的な「器用さ」の評価基準があいまいで、恣意的で、評価する側の都合によって何とでもなるところがあるからだと思います。…

 

 ...  たとえば「女性だから」とか、外見的になんらか問題があったり、ちょっと吃音があったり、雇う側が瑕疵とみなす特性を労働者が少しでももっている場合に、「コミュニケーション能力に問題がありました」などという理由づけを雇う側がもち出せば、いかなる不当な差別もまかり通ってしまいます。(47)

 

「ハイパーメリトクラシー」の対抗策として「柔軟な専門性」を主張する本田由紀さんですが、現場で活動している湯浅さんや河添さんはともにその「専門性をつけよう」という処方箋は現場では通用しないということを率直に述べる。 

 支援の現場ではそもそも「面接に行くお金がない」といったレベルが問題になっており、そういう人たちに対して「専門性をつけよう」などと言ってもあまりにもハードルが高すぎて現実的ではないからだ。

 

「不器用な人」を排除する社会構造

 河添さんが提起した「不器用さ」のグラデーションと「貧困」のグラデーションが一致しているのではないか、という問題——「不器用な若者」をその「不器用さ」を理由に労働市場から排除するような今の社会は問題だ——という主張はとても重要であると思った。

 河添さんの「不器用さ」に関連深いと思われる本に、ホームレス支援活動からいまの活動につながっている湯浅さんの本や、『獄窓記』(山本譲司)『自殺直前日記 』(山田花子)などがある。

 それらの本に共通している困難は「軽度障害者」の「どっちつかずさ」である。「障害者」でもないが「健常者」でもないグレーゾーンの領域にある人たちは、ある種の「不器用さ」を抱えている場合が多い。「重篤な精神的・知的・肉体的疾患をもっていれば、病院・作業所・デイサービス・家族と、社会のなかには市場外の避難所が一定程度用意されている」。だが、そこでカバーされない人たちは「ホームレスか、刑務所か、自殺か」しかないというのが現実だ。 

… 軽度の精神障害・知的障害をもつ人たち、ボーダーライン上にいる人たちが、雇用のネットにも乗り切れず、社会保障の対象にもならず、真っ先に貧困化している。… 社会保障には彼/彼女を受け止める準備がない。進むことも退くこともできないなか、生活が立ち行かなくなる。

 

… 重篤な精神的・知的・肉体的疾患をもっていれば、病院・作業所・デイサービス・家族と、社会のなかには市場外の避難所が一定程度用意されている。しかし、上述した人たちの場合には、避難所がなく、つねに市場に押し戻される圧力が働き続ける。…(123-4)

 

 いまの日本社会には「器用/不器用」という基準によって、構造的に「不器用さ」に応じた選別装置(生か死か、あるいは、過労死か貧困か)が作動しており、社会から自ら撤退していかざるをえないメカニズムがある。河添さんはこの問題を指摘している。

 

 本田さんが別の著書(軋む社会)で言っていたように、そのような「自らが社会から撤退していくシステム」は、雇用する側の企業や国家にとっては実に無責任で都合がいい。しかも短期的には低コストだ。しかし、現在生きている人間を犠牲にしながら、また将来に社会的コストのツケを回しながら、いまを生き延びようとしているのがそのようなシステムである。これはどう考えても許されることではない。  

 

 最後に、重要だと思われる部分を下記に引用します。

 

貧困と「自立」は両立しない

「自立」をめざせばめざすほど、彼らは非人間的な労働環境へと順応を要請られる。しかしながら破壊された労働環境は、彼ら自身を安定的に「自立」させるようなものではないから、破壊された労働環境によって今度は労働者の精神状態が不安定になっていく。貧困と「自立」は両立しえない。(19)

 

 

ディーセントな職場が失われている…

 わたしは、新自由主義というのは、あらゆるもの、市場外だったはずの領域を市場化していく運動だと考えています。人間もある意味では、市場的な効率という観点から評価されるようになる。「鈍臭い」とか「空気が読めない」とか、円滑な進行を妨げる特徴が決定的に悪く捉えられる。そこで排除される。

 

… それはその人にとって「人間らしい労働」(ディーセントな労働)が担保されないということであると同時に、いまの全体の変化というのは、職場とか社会からディーセントな職場が失われてきたということだと思うわけです。(30)

 

 

「自己責任論」がはびこる理由

 コストをかけない能力、コストのかからない人間であることを強制するためのイデオロギー的な手段として、自己責任論という言葉が使われていいます。…

 

… 人間というのは、ただ、そこで普通に生きているとコストをかけてしまう存在だというのは、人が社会的存在であり相互に依存し合う存在である以上、当たり前の話です。その当たり前の話が、個人が社会にコストをかけさせないという考えを前提にしたときに、全部、引っ繰り返る。「本来、コストをかけさせてはいけないのに、コストを掛けさせる人間というのはだめだから、自己責任で何とかしなさい」という話に逆転していくわけです。その逆転を生み出す装置みたいなものが自己責任論なんです。(90-1)

 

 

貧困は自己責任ではない

「貧困に陥りやすい性格」などといったものは存在しない。存在しているのは、人並みにまじめな人たちが、さまざまな諸条件(資本、人間関係、器用さ、自信など)に恵まれず、その負の諸条件を乗り越えるだけの運が回らなかったがゆえに、生きていけなくなるまでに追い込まれていく社会状況である。そのような社会状況のなかでも、成功するに至る人はいる。

 

 しかしそれは、平均寿命四〇歳の地域に、たまたま八〇歳まで生きた人がいたという話にすぎない。その人は健康に繊細に気をつけたのかもしれず、それはそれで立派なことだが、しかしそれをもって二〇代、一〇代で亡くなる人を「努力が足りない」と決めつけるわけにはいかないだろう。平均寿命を全体として上げるような環境の改善が先行して必要だ。(69-70)

 

 

「溜め」を失った社会が「溜め」のない個人をつくる

 “溜め”とは「溜池」の「溜め」だ。溜池があれば、日照り(トラブル)が続いても作物を育てる(福祉=善き生を実現する)ことができる。逆に溜池がなければ、ちょっとした日照りで、作物は枯れる。溜池は、安定的に作物を育てるための条件だが、ではそれが個人の所有物なのかといえば、地域の共有財産だったりする。“溜め”を失った社会が、“溜め”のない個人をつくる。

 

 したがって、貧困に追い込まれた“溜め”のない個人の状態を回復するという問題を、個人的なレベルで片付けることはできない。相関関係である以上、社会的・経済的・政治的“溜め”が増えないかぎり、個人的“溜め”だけが増える、ということは想定できないからだ。(75-6)

 

 

「過労死か貧困か」

… 正規と非正規の「格差」が問題にされることもあるが、現実に進行しているのは「過労死か貧困か」という究極の選択を迫られる状態に追い込まれる人たちの増加だ。どちらも「勝ち組」ではない。

 

 雇用のセーフティネットからの排除には、そもそも就業できないという失業状態への排除と、「働いているのに食べていけない」という雇用のネットそのものの地盤沈下の両面があるが、この両者の区別がきわめてあいまいになってきている。(119)

 

 

「働いていれば食べていける」というのは神話にすぎない

 もはや「雇用」と「生活の安定」は、多くの人たちにとって必然的な結びつきをもたなくなった。「働いていれば食べていける」というのは神話にすぎなかった、ということを明確に認識する必要がある。

 

 人びとの「生活の安定」は、企業にとってはもはや保障されない。企業は利潤を追求する目的集団であり、その目的に人びとの生活の安定は入っていない。企業が関心をもつのは、人間ではなく「消費者」であり、生活の安定ではなく、自分に利益をもたらしてくれる「購買力」である。「働いていれば食べていける」状態の創出は、企業の目的外行為であり、目的外行為を行わせるためには“社会”の規制力が働かなければならない。(120)

 

 

ブラック企業を根絶するためには…

… 働き方の拒否ができるのは、労働市場の外で生きていくことについてメドがつくかどうかが重要なんだと思う。そうでないとどんな働き方でも働かないと生きていけない。結局、労働市場そのもののなかに、低賃金・不安定労働者として留まることを絶えず強いることになってしまいます。

 

 その意味では労働市場のなかで生きていけるというのは、労働市場の外にどういうセーフティーネットあるかということと相関しています。…(171)

 

 

本当の「強い社会」とは…

「強い社会」というのは、弱肉強食の市場原理にたいしてきちんと歯止めをかけられる社会、人間の弱さを認めて受け止められる社会、弱さの認識から相互扶助・社会連帯の必要性の認識を通じて、「市場」とは異なる「社会」を構想できる社会、といった意味で使っています。そういう「強い市民社会」が確立していれば、社会制度はおのずと変わっていくはずです。(174)

 

 

たたかうためには、たたかわなくてもいい“居場所”が必要

「たたかうためには、たたかわなくてもいい“居場所”が必要なんだ」という言い方をしていますね。… たたかう場所とたたかわなくてもいい場所、この両者は一つのグループのなかで棲みわけてもいいし、また複数のグループ間で役割分担してもいい。

 

 でも、両方必要であることはまちがいないんじゃないか。… その意味では、たたかわなくていい“居場所”は、たたかうための必要条件みたいなものだろうと思っています。十分条件ではないけど、必要条件。そして、そういう“居場所”が社会のなかから減ってきている、と感じます。(179)

 

 

 

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