おんざまゆげ

@スラッカーの思想

すべては生存権保障からはじまる—マルフェミの「物質的基盤」を例に—

「上野vs.江原」論争

 上野千鶴子は昔も今もずっとマルクス主義フェミニズム(マルフェミ)の立場である。上野のマルフェミは「物質的基盤」を重視する。経済的な下部構造としての物質的基盤を無視するフェミニスト・アカデミシャンたちを上野は「文化派」とよんで批判したことがあった。俗にいう「上野・江原」論争である。

 この論争のあと、憤慨した江原由美子は上野にたいするアンサーとして『ジェンダー秩序』という本を10年ぐらいかけて書いた(恐るべき執念!)。これはこれで名著だと思うが、それでマルフェミ的な問題が消えたわけではない。以後、アカデミックな世界では「文化派」は優勢になっていく。上野の予言(危惧)は的中した。

 

「主婦化=植民地化」の拡大

 上野が重視した物質的基盤とは、要するに(女性の)生活保障のことだ。女性の生存権が男性の手に委ねられている構造(家父長制と資本主義の性差別的共犯)が問題なのである。女性が生き延びるためには「男性」と結婚しなければならず、結婚しない女性はいっきに生存が脅かされる。この仕掛けによって資本主義は労働力の再生産を低コストで調達する。

 資本主義を補完する家父長制的家族主義によって、女性は家族と資本の両方から従属化(他者化・周縁化)された存在になり、これをマルフェミでは「主婦化」とよんでいる。日本社会の雇用問題(非正規労働や外国人労働の搾取)、貧困問題(シングルマザー・低賃金・ワープア)、障害者差別(家族介助・施設収容主義・能力主義)等々......たいていの場合、その「主婦化」と構造は同じである。主婦化の対象(植民地)が「女性」以外の領域に拡大しているのだ。

 

なぜ「文化系フェミ」は生存権を語らないのか

 フェミニズムはもともと社会運動だった。当事者の権利運動だ。しかし、フェミがアカデミックな学問として制度化するにつれて、その思想運動は物質的基盤からどんどん遊離していった。ポストモダン理論を導入した難解な「文化派」のフェミはいつしか「文化左翼」と揶揄されるようになる。揶揄されるポイントは、アカデミックな文化派は経済問題を語らずして文化現象のみですべての問題を解決できるかのような幻想をふりまく点にある。

 アカデミアの閉じた流行現象(学者の承認欲求)と並行して、グローバルな政治・経済的理由もある。先進国の左派リベラルがこぞってマイノリティの承認政治をやりはじめた背景には、グローバル市場経済の要請(ネオリベ化)によって再分配政策による生存権保障(累進性の維持)がむずかしくなったからという現実もあるのだ。左派リベラルは右派とのちがいをアピールするために、貧困問題よりも性的マイノリティの反差別問題のほうにシフトしていった。ネット上のSNSなどではまさにその傾向が如実に展開されている。

 承認政治(アイデンティティ・ポリティクス)といっても、職業(階級)/人種/ジェンダーセクシュアリティと様々あるが、近年なぜLGBTQのムーブメントがことさらこんなに大きくなったのか——。それは人びとの意識が高くなったからではなく、再分配要請の程度がたんに低くてすむから...というのが政治的本音であろう。

 以上の点から、かつて生活困窮者を代弁していた左派リベラル(フェミを含む)は「文化左翼」に入れ替わってしまった。こういう理由から「文化系フェミ」は生存権(貧困問題)について言及することがほとんどない。

 ネトウヨ系やトランピアン系(米国のトランプ支持者など)からは「文化系フェミ」を含めた左派リベラルは「反差別」のことばかり熱心に取り組んでいるウォーク(意識高い系)と揶揄されている。「彼/彼女らは生活に余裕があるから(あるいは文化資本があるから)そのような意識の高いことばかり言えるのだろう」と。

 [……] 衣食住を確保することで頭がいっぱいの大多数にしてみれば、男女別トイレの廃止の議論なんて不快なだけだ。(ブレット・イーストン・エリス)

 

 そう考えると、「承認」と「再分配」の対立構造を指摘していたナンシー・フレイザーや「文化左翼」を批判していたリチャード・ローティは、時代を先取りしていたのだと改めて実感する。とくにナンシー・フレイザーを時代遅れのマルフェミと思っていた自分を恥じたい。

 

再配分か承認か?: 政治・哲学論争 (叢書・ウニベルシタス)