『きらきらひかる』や『落下する夕方』など多数の作品で、揺れる女性の内面と恋愛模様を描いてきた江國香織の短編小説集。淡く繊細な筆致でつづられた12編は、さらりとした読みごたえでありながらも、男と女の物悲しさを秘めたものばかりだ。第130回直木賞受賞作品。
満ち足りていたはずの恋に少しずつ影が差す様を描いた表題作「号泣する準備はできていた」、妻のある男性との濃密な関係がずれはじめる一夜をつづった「そこなう」など、当たり前にそばにあるものが静かに崩壊していく過程を、江國は見慣れた風景の中に表現してみせる。また、若かりしころの自分と知人の娘の姿を重ねた「前進、もしくは前進のように思われるもの」や、17歳のときの不器用なデートの思い出を振り返る「じゃこじゃこのビスケット」では、遠い記憶をたどることによって、年を重ねることの切なさを漂わせる。
各編の主人公は、もう若いとはいえない年齢の女性たちである。家族や恋人を持ち、同性の友人にも恵まれている幸福そうな生活の隙間に忍び寄る、一抹の不安やわずかなすれ違いは、誰もが経験したことがあるだろう。主人公の心境が「残りもののビスケット」や「捨てられた猫」といった身近なものに投影されるのも、江國作品の特徴である。決してドラマチックではない日常の瞬間を切り取った物語が、シンプルながらも美しくまとめられている。(砂塚洋美)ー「アマゾン」より
【目次】
前進、もしくは前進のように思われるもの
じゃこじゃこのビスケット
熱帯夜
煙草配りガール
溝
こまつま
洋一も来られればよかったのにね
住宅地
どこでもない場所
手
号泣する準備はできていた
そこなう
【感想】
2003年刊。227ページで12編の短編集。
なので、サクッと読めます。
興味深かったのは、「熱帯夜」「こまつま」「住宅地」の3編。
「熱帯夜」は…
「百合小説」になっております。
さすがは江國さんですね。ぶっ込んできます。
働く女性同士の大人の恋愛。
学生時代に、何度か男性とデートしたことがある。でもその後は、私の信頼も情熱も、男性には向けられたことがない。
秋美のストーリーは全然違った。秋美にはもはや「性差なんてない」のだという。彼女にはかつて数年だけ結婚していた経験があるし、男性も素敵だと言う。でもいまは私がいちばん好きなのだ、と、言う。…
「私、千花ちゃんの短い髪が好きよ」…
「細くてきっちりした身体も、そのわりには大きいおっぱいも、物の考え方も、仕事をしているときの後ろ姿も」…
「でもね、いつか千花ちゃんが年をとっても、髪の毛がどうなっても、太っても、逆におっぱいがしぼんでも、やっぱりその千花ちゃんが好きよ」
「人生は恋愛の敵よ」…
「人生は危険よ。そこには時間が流れてるし、他人がいるもの。男も女も犬も子供も」…
私はすでに、秋美以外の人間を胸の内で皆殺しにしてしまったのだ。
やっぱり良かったのは次の箇所(性器結合主義批判?)。
グッときました。
「ずーっとこのままならいいのに」
私が言い、
「ずーっとこのままだよ」
と、秋美は言う。そして二人ともいっぺんに噴きだしてしまう。
「そらぞらしい」
と、非難しあう。
マンションに帰ったら、私たちはくっついて眠るだろう。たぶん今夜は性交はしない。ただぴったりくっついて眠るだろう。男も女も、犬も子供もいる世の中の片隅で。
「美代子はデパートが好きだった」…で始まる「こまつま」は…
美代子という専業主婦がデパートで買い物をするだけの話なのですが、これが意外に面白い。美代子は専業主婦としての変なプライドを持っている「意識高い系 専業主婦」です。ちょっと自意識過剰で痛々しいところがあり、全体的に哀しい感じがしました。
唯幸は美代子を「こまつま」と呼ぶ。うちのこまつま、と。こまねずみのように働く妻、という意味で、それはつまり働き者だということだ。こまねずみというものを実際に見たことはないのだが、美代子はその呼ばれ方が気に入っている。息子も娘もときどき真似をして、「こまはは」と呼んだりする。美代子はそれも気に入っている。ある種の名誉ではないか。
食事は二十分で終わってしまう。ピクルスとパセリが残った皿を、美代子は脇へ押しやって時間を見る。短い時間で昼食をすませることも、美代子には大切に思える。時間をかけてここぞとばかり愉しむような、愚かで孤独な若い女や、暇で孤独な主婦とは違うのだ。
「住宅地」は…
前半は運送会社でトラックの運転をしている「林 常雄」の話で、後半は夫の浮気に気づいた「真理子」という女性の話です。
面白かったのは前半の常雄の話。
中年とおぼしき常雄には、一風変わった趣味があります。それは、中学校の下校時間に校門からでてくる生徒たちの姿を遠くからそっと眺めること。トラックを学校付近に停めて、車内で遅い昼食を食べながらこっそり眺めるのです。
常雄には風変わりな趣味があった。部品工場からほど近い場所にある私立の中学校の、下校時間に校門からぞろぞろとでてくる生徒たちを眺める、という趣味だ。眺めるのは主に女生徒だったが、男子生徒の中にも綺麗な顔つきの子が何人かいて、彼らを眺めることは、女生徒を眺めること以上に常雄の心に安らぎを与えた。
無論、断じて、眺めるだけだ。話しかけたりはしないし、性的な夢想に耽ったりもしない。…三十分ほど子供たちを眺めるのだった。
それは、常雄の知っている子供たち(および中学校)とはまるで違うもののように思えた。…最近の子供たちは塾だの受験だの各種習い事だので忙しく、ストレスにさらされているそうだが、ここで常雄の目に映る彼らは、幸福そのものみたいな顔をしていた。
眺めていると、あたたかな気持ちになった。手に持ったパンを、食べることさえ忘れてしまうほどだった。ほんのときたまではあったが、恍惚といっていい心持ちになることもあった。そういうときには目を閉じて、子供たちの声をききながら、そのあたたかさを全身で味わった。
法律に触れるようなことはしていない、と思ってはいるのだが、常雄はこれが他人に言えない趣味であることを理解していた。だからこそ配送トラックを道端に停めてその中から眺めるという方法はとらなかったし、でかでかと社名のペイントされたそのトラックは、必ず注意深く、離れた場所に停めた。隠すように。
以上の叙述に激しく同感します。
子供を「眺めていると、あたたかな気持ちになった…」。
中年男が中学校の女子生徒を見て「あたたかな気持ち」になる。ここには性的な意味はまったくないのです。しかし、これは理解されないでしょう。(詳しくは次を参照のこと→ *1 )
さすがは江國さん。その点をずばり描いてくれました。そうなのです。そういう常雄のような男も世界には存在するんです。何でも性的に解釈するのはおかしいと思います。
かわいい女子生徒も、綺麗な顔をした男子生徒も、安らぎを与えてくれるあたたかい存在であり、ただ見ているだけでかわいくて守ってあげたい存在と思えるのです。性的にではなく。
以上。
それ以外の作品も面白かったです。
今さらですが、読む価値ありですね。
*1: 性的ではない「かわいい」について…