おんざまゆげ

@スラッカーの思想

脱人間的な方向で〈なまもの〉的感性を変革すること

 韓国映画オアシス (오아시스/OASIS)』(2004年)。いまではデジタル・リマスター版をAmazon primeで観ることができる。

 内容は「不器用にしか生きられない男性」と「脳性麻痺をもつ女性」との性愛を描くラブストーリーである。この種のドラマがハッピーエンドになってしまうと「感動ポルノ」とよばれてしまうが、この映画はそうはなっていない。結論からいうと、「脳性麻痺者の女性が性愛なんてするはずがない」という世間の偏見によって性的行為が「強姦」と判断されてしまう。そのかどで「不器用な男」は刑務所におくられてしまうが、ふたりの愛は続いている......みたいなオチでこの映画は幕を閉じる。

 「脳性麻痺者の女性は性愛しない...」。このような偏見は「障害者」にたいする「ディセクシュアライゼーション(desexualization)」とよばれる。なぜ、このような偏見や差別感情は生まれてしまうのだろうか──。

 以下では、そのような「感じ方」(感性)を生んでしまう根本的な次元に「人間」という規範概念が関係していることを示し、人権尊重のヒューマニズムでは逆にそのような感性が維持され欺瞞と偽善につながってしまうことを述べる。そして、変革すべきなのは、わたしたちが依拠している「人間的なもの」に根ざした感性そのものであるということを主張したい。

オアシス デジタルリマスター版

 

〈なまもの〉とはなにか

 作家の松浦理英子はエッセイ集『優しい去勢のために』(ちくま文庫,1997年)において〈なまもの〉という概念を下記のように提起している。

 平凡な職業につき平均的な暮らしをしどこにでもあるような町に住み普通の人々と交際するわれわれが普段積極的には見ようと思わないもの、それらがこの世にごく自然に存在している事実は重々承知してはいても日常的に接することがないので往々にして忘れがちなもの、あるいは本当にそれらについてよく知っているにもかかわらず知っていると認めたくないゆえ意識の片隅に封じ込めているもの、そしてそれらが不意に眼の前に出現したら少なからず動揺せずにはいられないもの——そうしたものを今かりに〈なまもの〉と呼ぶことにしたいのである。(60頁)

 

 著者は〈なまもの〉の代表的な例を「性器」「交通事故」等とあげたあと《人間の中にも〈なまもの〉的存在はいる》と述べ、そのような〈なまもの〉的存在を《 街で見かけると、われわれは一瞬「あ」と思い、続けて「ああ」と納得する》。そして、《結局のところ、〈なまもの〉とは人間的なもので覆われている世界の地肌を垣間見せる〈裂け目〉なのではないだろうか》と指摘する。

 注意が必要なのは、この〈なまもの〉という概念は、モノやコトやヒトに属する性質や状態のことではないということである。〈なまもの〉という感覚はあくまでもそれに遭遇したときに生じるわたしたちの感じ方や態度のことであって、〈なまもの〉が刺し身のようにどこかにそれ自体として存在しているわけではない。〈なまもの〉を〈なまもの〉たらしめているのはわたしたちの感性それ自体であり、〈なまもの〉的存在に対する感じ方や態度そのものが偏見や差別感情の前提をなしているのである。

 したがって、わたしたちに〈なまもの〉的感性がなければ、内なる偏見や差別感情に気づくことはできない。しかしその一方で、〈なまもの〉的感性は偏見や差別感情の前提となってもいる。この二重性を〈なまもの〉的存在は暴露するのである。

 よって「人間的なもので覆われている世界」とは、〈なまもの〉的存在との遭遇ができるだけ起こらないような世界になっている。なぜなら、〈なまもの〉的存在との遭遇によって「人権」や「権利」や「反差別」などといった「ヒューマニズム的=人間的なもの」の偽善性と欺瞞性がバレてしまうからである。

 たとえば、相模原殺傷事件をおこした植松聖は、世界人権宣言の第一条《すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない》という一文を引用しつつ、「障害者施設で生活していた「重度障害者」には《理性と良心とを授けられて》いなかった。だから、かれらは人間ではない」と述べている。この植松のロジックに対抗するためには「かれらも同じ人間である」とか「重度障害者にも尊厳や人権がある」と言い立ててもむずかしいだろう。なぜなら、そのようなヒューマニズムが植松にとどくためには、先にわたしたちの〈なまもの〉的存在にたいする感じ方や態度が変革され「人間的なもの」の欺瞞性と偽善性が解消されていなければならないからだ。

 

〈なまもの〉的存在が突きつける〈裂け目〉

 原一男監督『さようならCP』(1974年)は、CP(脳性麻痺)者の団体「青い芝の会」に属する人たちを描いたドキュメンタリーである。この作品は《人間的なもので覆われている世界の地肌を垣間見せる〈裂け目〉》を描いている。自分たちが〈なまもの〉的存在であり、そういう存在が〈なまもの〉のまま積極的に街に出ていったらどうなるか──。撮る側も撮られる側もそれを自覚的に実行している。

 CPに遭遇したわたしたちは〈なまもの〉的存在に動揺し、〈なまもの〉的存在からのまなざしによって自らの〈なまもの〉的感性に気づき、漠然と信じていた「人間的なもので覆われている世界」の〈裂け目〉を突きつけられる。〈なまもの〉的存在の圧倒的リアルな身体性の顕現の前には、「人間的なもの」のリアルや、その「人間的なもの」を前提として築き上げた「人権」などという観念はまったく通用しない。ふだんは〈なまもの〉的存在を見なかったことにして「人間的なもので覆われている世界」を保持しているのだが、かれらとの遭遇によってその世界に亀裂が入るのである。

 

なぜ宮崎駿は“激怒”したのか?

宮崎駿“激怒”事件」は2016年に起こった。有名な「事件」だから覚えているひとも多いだろう。詳細は下記のリンクの記事を読んでほしい。『NHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」』という番組内のたった2分程度のシーンでその「事件」は勃発した。

 AI技術を利用して制作した《“人間のような体つきをしたもの”が、頭部や背中を脚のように使って這いずるCG》を宮崎に見せたところ、宮崎は《「毎朝会う、このごろ会わないけど、身体障害の友人がいるんですよ」…「ハイタッチするだけでも大変なんです。彼の筋肉がこわばっている手と僕の手で、こう、ハイタッチするの。その彼のことを思い出してね。僕はこれ、面白いと思って見ることできないですよ」》と発言。《生命に対する侮辱を感じます》と言って“冷静な怒り”をあらわにした。

 そのような映像をつくった制作者たちは「人間のような体つきをした人間的ではない動き」を「気持ち悪いCG映像」として宮崎にプレゼンした。今の最先端のAI技術を使用すればこんな気持ち悪い映像がつくれますよと...。しかし、それを見た宮崎は「毎朝会っていた身体障害者」を思いだし「生命への侮辱」を感じたのである。これは宮崎の過剰な想像力の飛躍だろうか?

 わたしはそうではないと思っている。かれらがつくった「気持ち悪いCG映像」は『さようならCP』に出演していた脳性麻痺者の動きによく似ているのである。おそらく宮崎は毎朝、身体障害者と出会うことによって自らの〈なまもの〉的感性と向き合っていたのだと思う。そうでなければ「過剰な想像力の飛躍」は説明できない。

 もし、制作者サイドが自らの〈なまもの〉的感性に気づいていれば、あるいは『さようならCP』のような作品を観ていれば、自分たちが制作した「気持ち悪いCG映像」が「身体障害者の筋肉のこわばった動き」を連想させてしまうことに気づくことができたはずである。これは何ら過剰な想像力の飛躍などではない。

 

「残酷な光景」と「光景の残酷さ」

 『さようならCP』のような作品がつくられると「障害者を見世物にしている」という批判がおこることがある。これにたいする反論も松浦のテキストが参考になる。松浦は「残酷な光景」と「光景の残酷さ」のちがいをつぎのように述べる。

 残酷な光景を写した写真が即ち〈残酷〉な写真であるということはない。[……]   残酷な光景を写した写真が〈残酷〉な写真となるのは、〈残酷な光景〉ではなく〈光景の残酷さ〉が写し出されている場合、つまりこれは残酷以外の何ものでもないと見た者が感ずるよう予定して撮られている場合、煽情性がある場合である。猥褻写真にたとえると、性器を正面からあからさまに写した物は猥褻でも何でもないが、見えなさそうで見える角度から撮ったり意味ありげに指を添えたところを撮ったりすればただちに猥褻になる [......] (75頁)

 

 『さようならCP』のような作品は、〈残酷な光景〉にみえるかもしれないが、〈光景の残酷さ〉を映しだしたものではない。〈光景の残酷さ〉を描いて「このひとたちはかわいそうな存在です」「かわいそうな存在だけど頑張って生きています」「こんなにかわいそうな存在なのだから差別してはいけません」という方向性に持っていくためにつくられた作品ではない。

〈残酷な光景〉を〈残酷な光景〉としてみる場合、わたしたちは自らの〈なまもの〉的感性に向き合う必要にせまられる。だが、過度に残酷さをアピールして同情や感動の方向へと予定調和的につくられる煽情的作品群は、逆に同情や感動によって〈なまもの〉的感性に蓋をする役目をはたす。これが「感動ポルノ」が批判される所以だ。

 

「偏見や差別感情の前提をなすもの」を解消するためには、脱人間的な方向で〈なまもの〉的感性を変革する必要がある

 日本社会は義務教育の段階からまったくインクルーシブな社会ではない。「人間的なもの」の基準に適さないひとたちは分離され隔離され排除されている。結果、わたしたちの〈なまもの〉的感性が育まれ〈なまもの〉的存在が生みだされる。こういった社会では建前としての「人権」や「反差別」の主張は重要ではあるが、わたしたちの〈なまもの〉的感性が変わらないかぎり〈なまもの〉的存在はこれからも再生産されつづけていく。

 人権や反差別のようなヒューマニズムは、偏見や差別感情を持っていたとしても建前として主張することは可能である。自分は決して「障害者」になりたくないと思いつつ「障害者を差別してはいけない」と言うことは可能であり、「人間的なもので覆われている世界」はそのように〈なまもの〉的感性を維持しながら〈なまもの〉的存在との遭遇を避けつつ、偏見や差別感情の前提をなすものに向き合うことを回避しているのである。

 わたしたちの〈なまもの〉的感性は〈なまもの〉的存在との遭遇によって動揺し、内省をせまられる。「人間的なもので覆われている世界」に亀裂が入り、〈なまもの〉的存在が「人間的なもの」の範疇に入っていなかったことに気づかされる。「人間的なもの」という観念は、様々な条件によって成り立っているだけの欺瞞と偽善に満ちた綺麗事だったのだ。

 なぜ、世の中にはびこるラブストーリーは、ことごとくその主人公が「健常者」ばかりなのだろうか。“ヒューマン”ドラマは「人間的なもので覆われている世界」しか描こうとしない。一方、映画『オアシス』は型にはまった“ヒューマン”ドラマとはまったくちがう。ある方向性を示しているのである。

 それはつまり、〈なまもの〉的存在を“人間化”しようとするのではなく、わたしたちの〈なまもの〉的感性を“脱人間化”すればいいのである。「人間的なもの」の基準にかれらを合わせるのではなく、わたしたちがしがみついている「人間的なもの」をかれらの領野まで到達するよう破壊すればいい。繰りかえすと、〈なまもの〉的存在を人間化するのではなく、わたしたちがかれらに合わせて〈なまもの〉的感性を変革することによって「人間的なもの」から自由になるべきなのだ。