おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「メメント・モリ」を生きるには?

 希死念慮が習慣化してくると「人生は生きるに値するか」というセンサーが脳のなかに埋め込まれ、それがことあるごとに日常的に作動するようになる。ほとんどの場合、常に「値しない」という反応が出力され続け、生命体であるかぎりすべての人間はあと数十年で絶対必ず死んでしまうわけだが、ではなぜ今すぐ死んだりしないのだろうかと思ったりする。

 どんなに大往生したとしても、人間にとって死は「挫折」である。たとえ100年生きたとしても、人間ひとりがたった100年でやれることなんてたかが知れている。しかも、やるのは「あなた」でなくてもいい。かわりはいくらでもいるからだ。

 思うに、人間が「生きる」ということには、予め「死すべき存在」だということを知っていながら「にもかかわらず、生きる」という〈逆説的順接〉が必要なのだと思う。ポイントは「にもかかわらず→だからこそ生きる」という反転にある。この〈逆説的順接〉を生みだすものはいったい何なのだろうか。これは「生きる意味」にかかわる。

 もし生命体に「生きる力」(=存在の生存に内在する力)というものがあるとするなら、その力は〈逆説的順接〉を可能にするものである。「死」という生存否定に反抗する力だ。(あるいはその「死」を肯定する力)。

 わたしたちがはからずも生きてしまっているという事実。意志的に「生きるぞ!」と気張ったりしなくても、ただたんに生存しているという端的な事実。この生の事実性じたいに「にもかかわらず→だからこそ〜」が実現されてしまっている。そこには論理や合理を超えた不合理な「なにか」がある。しかし、人間は死を意識できるがゆえに、その端的な事実のみで生きることができない。死せる存在である人間が死に抗いつつそれでも生きるためには「生きる意味」という言語的な「物語り(narrative)」が必要になる。

 ニヒリズムに陥るのは、人生を順接的に理解(期待)しているからであって、しかし人生は逆接に満ちているわけで、その逆接を肯定的に受け入れて生きるのが〈逆接的順接〉である。おそらくそのへんにニヒリズムを乗り越えるカギがあると思うのだ。

 わたしたちが「生きる」のは「それゆえに生きる」という順接(合理的な目的や理由があるから)ではなく「だがしかし、生きる」という〈逆接的順接〉にある。「人間は必ずみんな死ぬ...。だがしかし〜」。この「だがしかし〜」という逆接をあえて未来に向かって立てる! これが人間が「生きる」ということの本質的な構えなのではないだろうか。

 どうせ死ぬのになぜ生きるのか? この問いにこたえるには〈逆説的順接〉という非論理的で不合理的な「物語り(narrative)」が必要になる。ナラティヴは共同幻想だ。人間が孤立してひとりで生きられないのは、たんに物質的な問題なのではなく、類的な関係的な問題なのだと思う。

 わたしたちはナラティヴがないと〈逆接的順接〉を生きられないようになっている。そう考えたほうがよい。順調に生きているひと(順接的に生きているひと)でも、いずれ必ず死ぬのだ。死を迫られたとき、〈逆接的順接〉を思い知ることになる。だが、そのときには遅いのだ。圧倒的に遅い——。

 

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