おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「第三者の傷つき体験」—加害的規範についてー

 個人的な嬉しい出来事をSNSなどで不特定多数に向けて発信することがある。たとえば「大学に合格したよ」とか「結婚しました」とか「子どもが産まれました」等々...。こういう喜ばしい出来事の発表には「おめでとう」という祝福メッセージがあつまる。

 しかし、「大学に行けなかったひと」や「子どもが産まれないひと」がその発言を目にすれば、おそらく傷つくだろう。このような「第三者の傷つき体験」にSNSの発信者は配慮すべきなのだろうか...。いや、そもそも配慮可能なのか。

 発信したひとにたいして、第三者が「わたしには子どもが産めない。だからあなたの発言には傷つきました」と言ってきたらどうなるのか。そのような第三者の傷つき体験にも配慮すべきだということになると、今後いっさいの発言(自由な言論)は不可能になるはずである。

 論理的にそうなる。たとえば、ポジティブな発言Aは必ず「非A」を生みだし、「非A」に属するひとは発言Aによって何かしらのネガティブな反応を呈するからだ。誰かにとっての嬉しいことは誰かにとっての悲しいことになりうるし、何かを積極的に主張することはその主張を支持できないひとの反発を生む。つまり、何かを発言すること・意見すること・主張すること・感想を述べること...等々は「第三者の傷つき体験」を必然的に伴うのである。そういう意味で自由な言論活動を認める以上「誰も傷つけない発言」などというものは不可能なのだ。*1

 

 では、どこがおかしいのか。

 第三者の傷つき体験は「三人称的な傷つき」であり、これを「二人称的な傷つき」と区別すべきなのである。もし、発言者が不特定多数ではなく「子どもを産めないひと」にたいして直接「子どもが産まれたよ」と言ったらどうなるか。このとき「子どもを産めないひと」は傷つくだろう。これが「二人称的な傷つき」である。二人称的な傷つきにたいしては配慮は可能だし、言われた側が発言者にたいして「わたしには子どもが産めない。だからあなたの発言には傷つきました」と直接言うことは「配慮不足」を指摘した正当な批判になりうる。

 問題なのは「三人称的傷つき体験」を「二人称的傷つき体験」に置き換え、発言者にその被害者感情をぶつけてしまうことだ。二人称的傷つき体験には「加害者ー被害者」という関係が成立するが(名誉毀損など)、三人称的傷つき体験にはそのような(具体的な二人称的)関係は成立しない。

 

 では、三人称的傷つき体験者は誰に傷つけられたのか。

 「規範」である。「子どもを産むべきだ」「大学には行くべきだ」「結婚すべきだ」...という「べき」に傷つけられたのだ。この「べき」を生産しているのは、たまたま発言した個人ではない。発言者個人はたんに「べき」にしたがって喜んでいるだけだし、祝福したひともたんに「べき」に従っているだけだなのだ。だから不特定多数に向けて発信した者は何もわるくないのである。

 何かの発言に傷ついた者は、まずは「誰に/何に傷つけられたのか」を十分に把握する必要がある。そして、被害者感情に流されたまま三人称的傷つき体験を二人称的傷つき体験に置き換えてしまうことは避けなければならないだろう。三人称的傷つき体験には「誰に」のみならず「何に」が含まれている。

 

*1: 「誰も傷つけない発言」などというものは不可能...

 もちろん、ネガティブな発言Bによって「B」に属するひとたちが傷つくことがある。このような発言はときとして差別的発言になったりヘイトスピーチになったりする。記事で問題にしているのはそのようなタイプの第三者の傷つき体験ではないが、ここには明瞭な境界線は存在せず、すべては地続きの問題であることを指摘しておきたい。わたしが危惧するのは、なにかを発言することによって誰かを傷つけてしまうことを過度におそれるあまり、「面倒くさい問題」には地雷を踏みたくないあまりにどんどん遠ざかっていく傾向である。ポリティカル・コレクトネスの副作用はこの点にある。うかつに何かを発言すると「それは差別だ! 傷ついた...」と言われかねないので、そういうややこしいマイノリティの問題にかんしては「触らぬ神に祟りなし」とばかりにそっと遠ざかっていく。結果、意識の高い反差別系のリベラルと差別主義者の不毛な論争のみが存在するばかりで、面倒くさがっているマジョリティは何も発言しないようになり当事者は取り残されていく。