おんざまゆげ

@スラッカーの思想

生存は抵抗である—「無能な存在者」が無能なまま生き延びるための二段階戦略—

われわれは国にたいして生存権保障を要求する

 以下の記事では「戦争=国民国家」と「優生思想=福祉国家」の関係性について述べた。

 

tunenao.hatenablog.com

 

 国家にたいして生存権保障を要求する場合、つぎのような懸念がある。

 優生思想や能力主義の差別性を是正するために生存権保障を主張することはジレンマに陥る。なぜなら、生存権保障は国家が主導する再分配政策を要請し、再分配政策を強制する国民国家は優生思想を前提とする福祉国家体制を前提するからである。

 

 上の懸念事項に十分配慮したうえで、わたしたちはこう宣言する。

 重要なのは「国民国家」の歴史と習性を自覚したうえで、安易な勤労主義を否定し労働規範が「強い兵士の養成」を暗黙に前提としていることを理解することだ。平和主義と勤労主義は両立しないのである。/わたしたちはむしろ、行き詰まったグローバル資本主義を逆手にとって勤労主義を拒絶しつつ国家に対しては「生きさせろ!」と生存権を行使することができる。これは不可能な要請ではない。

 

もし、国家がわれわれの生存権を保障しないならば、われわれは国にたいし抵抗権を行使する

 まず、生存権保障を国にたいして突きつけたうえで、もしそれが果たされないのであれば「わたしたちは規範を破ります」と抵抗しよう。これが〈生き延びるための二段階戦略〉である。

 生存権保障というのは至極まっとうな基本権である。これほどベーシックで最低限の人権要求はない。もし、国がわれわれを無視するなら「国家」などつくる必要はない。国家形成の正統性の根拠は市民の生存権保障にこそある。

 典型的なアナキストと違う点は、まずはじめの段階で生存権をまじめに訴えるところだ。しかし、生存権が保障されないのであれば、あとはアナキストらと連帯し、アナーキックに生き延びるしかない。

 

勤労主義に呪縛されない自由な生き方

 わたしたちは二つのことを同時に考える。一つは、政治的な社会改良主義者として〈すべての人間の平等な自由の実現〉をめざす道。すべての人間の生存権が無条件に保障され〈勤労主義に呪縛されない自由な生き方〉を可能にする道だ。この大前提が達成された後、人びとは自らの幸福を自由に追求することができる。

 もうひとつは〈勤労主義に呪縛されない自由な生き方〉を生存権保障とはべつに文化運動として模索する道である。これには実践的アナキズムもオプションとして含まれ、「もし生存権が保障されないならば…」という条件付きで抵抗権の行使も内包される。つまり、国家にたいして生存権保障を請求しつつ抵抗権をちらつかせながらアナーキーな生き方を模索するのである。

 

政治的な生存権要求と文化的な生存運動の両立

 なぜ二段階戦略なのか。国にたいして生存権を保障するだけではあまりにも虚しすぎるからだ。生存権保障を訴えながら、その実現が達成されずに虚しく孤独に死んでいくだけの人生は誰もが送りたくないであろう。しかしその一方で、文化としてのニート的な生き方(=反勤労)を推奨するだけでは、そのような生き方を選び取れた一部の幸運なひとたちだけの「自分の人生が幸福でありさえすればいい」というミーイズムになってしまう。

 生存権抜きの「規範破り=逸脱」は無策である。抵抗権としての「規範破り=逸脱」は生存権を訴えたのちにその正当性と効力が発揮される。そして、生存権抜きの「ニート的な生き方のすすめ」(=文化的生存運動)はミーイズムの堕落主義となる。〈勤労主義に呪縛されない自由な生き方〉を可能にする怠惰主義(スラッカー)は、そのような生き方の選択肢をすべての人間に保障されていなければ「怠惰の倫理」としては成立しない。もし、スラッカー的な生き方が怠惰の倫理にもとづいていないなら、スラッカーはたんなる堕落主義(ミーイズム)になってしまう。そうならないためには、政治的な生存権保障の要求と文化的な自由な生き方の生存運動の二段階戦略的な両立が必要なのである。

 

「生存=抵抗」となるのは「無能な存在」が無能なまま肯定されるからである

 まず最初に生存権保障の政治的権利要求があり、もしそれが保障されないなら抵抗権が発動される。この抵抗権に基礎づけられているのがニート的な文化的生存運動である。つまり、もし、布団の中から出られないひとであっても、国家にたいする生存権を持っている生存者であるかぎり、その生存権が保障されない場合、そこからその主体はおのずと抵抗権の発動主体となり、ただ布団の中に生存する何もできない「無能な存在」は特別な能力を証明する必要もなく単なる無能なままで文化的生存運動の主体となりえるのである。これこそが「生存は抵抗である」の意味だ。

 無能な存在が無能なまま肯定されるのが生存権である。だからこそ、無能な存在は無能のまま抵抗する主体となりえる。当然、無能な存在は国にお墨付きを与えられたあとにその存在が肯定されるわけではなく、国に保障される以前から無条件に無能なまま肯定される存在である。

 抵抗する主体の抵抗性の発動契機は「能力(able)に還元されない存在の力」であり、その抵抗の力は存在の生存に内在する「自存力=コナトゥス」である(スピノザ)能力主義はそのような存在の生存がもともと持っている「存在の力」を否定することによって成り立っている。資本主義的な能力主義(Ableism)は「能力に還元されない存在の力」を略奪し、みずからの資本増殖に利用しているのだ。*1

「生存=抵抗」になるのは「生存すること」そのものに「存在の力」が宿っているからである。能力主義はその力を資本増殖に転用するために「無能な者たち」を排除している。能力があると認められる存在は「生きるに値する」とされ、能力がない無能な存在は「生きるに値しない」とされる(優生思想)。しかし、「有能/無能」とは次元の異なる「存在の力」はすべての生存者の存在じたいにあらかじめ備わっているものだ。無能な者たちは「能力がない」という理由によってそのような存在の力を奪われ「生存の自由」が否定されているのである。

 したがって、存在の力を自由に発動させるためにも、わたしたちは能力主義とは無縁の領域に生存の自由(=生存権)を確保しなければならないのである。

 

「大峰沼と谷川岳」(山下清)

 

*1:スピノザのコナトゥスという概念と資本主義との関係はフレデリック・ロルドン『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷"になるのか?』(2012年,作品社)を参考にしている。