保護司 制度を題材にした映画
最近、映画『前科者』(2022年公開)を観たせいか「更生保護」という分野について考えている。とくに更生保護の一角を担う「保護司制度」。この制度は日本独特であり、国家公務員であるにもかかわらず無償労働になっている。いまでは約4万8000人の保護司がいるが、なぜこんな制度が日本にのみつくられ、いままでずっと続いてきているのか──。不思議でならない。
『前科者』の主人公は若い女性保護司である。原作は漫画(2017年〜既刊15巻)だが、その後WOWOWでドラマ化された(2021年,全6話)。保護司を主人公に据え更生保護の現場をドラマ化するという内容は他に例がない。すこし脚色がつよくドラマティックにつくられすぎのきらいがあるが、更生保護や保護司を知るきっかけにはなる良いドラマだと思う。
更生保護とはなにか
更生保護とは、わたしなりに一口で説明するなら「罪を犯した人間が刑務所のなかで罪を償い、再度、社会に接続(包摂)されることを支援するプロセス全体」の制度総称である。「社会から刑務所へ」は刑事司法プロセスだが「刑務所から社会へ」はそこに社会福祉のプロセスが加わる。薬物依存の場合は医療も必要になってくる。更生保護にはかなり総合的な分野が関わっているようだ。(しかし社会福祉養成課程に「更生保護」が加えられたのは2007年からである。)
日本では刑法犯の検挙者は一貫して減少傾向で2021年には戦後最少だった。初犯者も再犯者も減少したが再犯者率だけは上昇している。つまり「犯罪のリピーター」だけが濃縮されているということだ。
とくに最近ではコロナの影響もあって「協力雇用主」からの雇用数が減っているようである。また《… 出所後に保護観察がつかない満期釈放者の再入率は23・3%で、仮釈放者の10・2%と2倍以上の開きがあった》という。ここからわかるのは、協力雇用主や保護司などの民間(地域社会)の支援体制の有無が再犯率に関係しているということだ。
更生保護の人間観
わたしは以前から更生保護というジャンルが暗黙のうちに前提にしている「人間像」に疑問を持っている。あからさまに表明されないものの「なにをもって更生しているといえるのか」というポイントの比重に「賃労働をして社会に役立っていること」がウェートの大半を占めているからだ。これはあきらかに健常者中心主義(エイブリズム)であり、過度な勤労主義である。更生保護には暗黙のひとつの物語があって、それは「罪を犯した〈悪い人間〉が〈健全な人間〉に更生する」という「立ち直りストーリー」である。このときの〈健全さ〉をはかる指標が「まじめに働いているかどうか」なのである。
どのような学問分野にもその学問が暗黙のうちに前提にしている「人間観」がある。哲学なら知識や知恵を持った理性的な人間。経済学なら自己利益を最大化する人間。行動主義心理学ならパブロフの犬のような条件反射する人間。自然科学なら物理法則に支配された機械論的人間。それぞれの学問分野には「人間とはどういう存在か」という分野ごとの異なる人間観があり、この人間モデルを下敷きにして成り立っている。これはアカデミックな世界だけに限らない。
ふだん普通に生きている生活者であっても同じである。ひとそれぞれに「人間観」はちがっている。人間関係がうまくいかないときに価値観の不一致をあげるひとがいるが、たいていの場合そういうときは人間観の不一致も関与している。「なんか、このひとと合わないなぁ」と思うとき、そのひととは人間観がちがうのだと思うと納得するときがある。
「自己責任論」も一種の人間観であり、「ネトウヨ」や「リベラル/左翼」などにもそれ専用の人間観がある。まずはじめに価値観の下敷きとなるような人間観があり、この人間観にもとづいて何かしらの自分の信念や道徳観を表明しているのである。そう考えると、かれらの意見の偏狭さがわかってくる。人間観の幅や柔軟性がない場合、人間に対するあたりがきつくなるからだ。それが偏見や差別、自己責任論や人情味のなさにつながっていく。
「労働=更生モデル」の人間観が生みだすエイブリズム
更生保護が暗黙裡に前提にしている「更生した人間=健全な人間」には、社会の理想的人間像が反映されている。ゆえに「更生した人間」になるためにはどこかで働かねばならない。わたしは常々こういう人間観(罪を犯した人間が更生するためには働かねばならない)に疑問を持っている。このような「労働=更生モデル」は近代化が始まった当初から存在していた。
イギリスなどの欧州社会では、近代化の過程で農業従事者が土地を奪われ都市の工場労働者(賃労働者)にならざるをえなくなったとき、都市には大量のホームレス(浮浪者)が誕生した。浮浪者は「犯罪者」として逮捕され刑務所のような感化院に入れられてビシッとした労働者に規律化されていった。これが「労働=更生モデル」の原型となっている。この「労働=更生モデル」を利用して古来から存在した「奴隷労働」を粉飾して誕生したのがナチスの強制収容所である(「働けば自由になる!」)。
更生保護が前提にしている〈健全な人間〉は、その一方で「累犯障害者」を生みだしつづけている。社会の理想的人間像を反映した〈健全な人間〉(働いて社会に貢献している人間)にそぐわない者たちは、ふたたび社会から排除され刑務所に戻らざるをえない。あしき「健常者中心主義」(エイブリズム)の弊害である。この割合はこれからも高まっていくのではないだろうか。
「人間とはこうあるべきだ」という規範的人間像が生みだす弊害。人間観の硬直性、偏狭さ、規範化があらゆる社会問題の根っこに存在している。今回は「更生保護の人間観」にしぼって考えてみたが、そのような人間観には「社会の理想的人間像=健全な人間」とはどういう存在なのかが暗黙のうちに設定されているのだ。この規範的人間観を破壊しないかぎり、生きやすい社会は到来しないはずである。
(以上の問題系にはつぎのようなものも含まれるであろう。なぜニートや専業主婦のように賃労働していない者たち、あるいは障害や病気で働いていない者たちがスティグマ化されるのか。なぜ、ひきこもりのゴールが就労に設定されてしまうのか。これらは更生保護が前提にしている「社会の理想的人間像(=健全な人間)」に関係している。)