おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「ずるさ」を許せない!——「幼稚な道徳感情」と「ネトウヨの精神」

「ずるさ」を許せない!

日本人は行列にちゃんと並ぶすばらしい国民である!

 

 外国から称賛される「日本人すごいぞ」論の定番になっている。たしかに割り込みはずるい。ずるはよくないのだ。

 しかし、裏返せば日本は「割り込み」に厳しい国だということになる。よって外国から見たら「割り込みくらいでそんなに目くじらを立てるか? そんなのちょっとくらいあってもいいじゃないか」と思う人もいるはずだ。割り込みくらい大目に見よう、寛容であったほうがいい。そのほうが何かと生きやすい社会になるのではないか。

 ずるはよくない。だが、ずるさに敏感に反応していちいち目くじらを立てるような「幼稚な道徳感情」の肥大化こそが生きやすい社会にとって有害であると思う。

「幼稚な道徳感情」がそのまま市民的倫理になってしまう日本

「ずるい」という道徳感情は幼い頃にはすでに芽ばえている初期的な道徳感情である。誰から教わることもなく自然に身についている。自分と直接的な関係がなくとも、ずるい人を見たら「許せない」「おかしい」という感情が自然にわきあがる。

 よって「ずるい」という道徳感情は初期的であるがゆえに「幼稚な道徳感情」だと言えるだろう。もし、何らかの「ずるさ」が社会的不正義だと見なされるならば、その場合にかぎって「ずるい」という道徳感情は市民的な倫理となりえる。私的な「ずるい」という道徳感情だけでは市民的倫理にはなりえない。つまり「ずるい」という道徳感情のままでは、たんにエゴを丸だしにしているようで恥ずかしく幼稚な感情の表明となってしまうのだ。

 しかし、感情が劣化した日本社会では、そのような「ずるさの道徳感情」が剥きだしのまま通用してしまう。たんに「あいつはずるい」という自然にわきあがる感情のままストレートに「ずるさ」が端的に市民の倫理になってしまうのである。そこには「ずるさ」をそのまま指摘することにたいする恥ずかしさや幼稚さの観念がまったくない。ここから「ずるさの道徳感情」だけがやたらと肥大化した「ずるさを許せないひとたち」が増加していったと思われるのだ。

「ずるさの道徳感情」は弱い立場のひとたちを直撃する

 一部の「ネトウヨ」系のひとたちのなかには「天皇は働かずして国民の税金で生活しているニートだからずるい!」と言って批判している者がいる。ここまでくるとネトウヨはもはや「右翼」でも何でもなく、たんに「ずるさを許せないひとたち」ということになる。

 むろん、天皇はずるくない。かれらの「ずるさ」判定は相対的剥奪感に由来している。要は自分の境遇と比較して「いい思いしやがってチクショー」と感じたらそれは「ずる」ということになる。このときの「ずる」は幼稚な道徳感情なのだが、先ほども言ったとおり日本ではそれがそのまま恥ずかしげもなく市民的倫理のようになってしまうのである。

 思えば「自己責任バッシング」も「自分の責任を回避しているずるいひとたち」ということで批判された。生活保護バッシングも「働かないで生活しているずるいひとたち」ということで非難されたし、不正受給も保護費全体の0.4%程度にすぎないのに「ずるい」という判定によって過剰にバッシングされている。

 しかし、なぜ、かれらは大富豪の租税回避を「ずるい」と批判しないのだろうか。高級官僚の天下り、年収の割には大してろくに働いてもいない国会議員や地方議員、そして二世、三世議員や親の相続財産で豊かに生活しているひとたち等々。こういった社会的不正義とつながっている「ずる」にはほとんど反応しないのはなぜか。

 そこにこそ「ずるさの道徳感情」が「幼稚的」と言われるゆえんがある。「ずるさの道徳感情」は端的に自然発生する。考えなくていい。だから、わかりやすくて見えやすい対象があれば脊髄反射的に「ずるい」と感じて噴き上がるのである。それゆえ「ずるさの道徳感情」は直感的にわかりやすい社会的に弱い立場のひとたちを直撃し、思考を必要とされる「強者のずるさ」には反応しない。

 本来ならそのような剥きだしの感情は市民的倫理にてらして恥ずかしい感情である。しかし、この日本社会にはその「恥ずかしさ」というストッパーがない。「ずるい」という道徳感情をバッシングの正当化として堂々と自信を持って確信的に表明することに何のためらいもないのである。

のび太のくせにずるいぞ!」に凝縮された「ネトウヨの精神」

ネトウヨ」とは「右翼」でも何でもなく「ずるさの道徳感情」を過剰に肥大化させたヘイター(排外主義的 憎悪主義者)である。「在特会」系がよい例だろう。

 かれらが繰りだすヘイト・ロジックは「のび太のくせにずるいぞ!」という差別論法に似ている。「あるべき位置にふさわしくない者」と勝手に判定されてしまった者にたいして「お前がその位置にいるのはずるい。だから許せん!」となる。のび太が「のび太の位置」からちょっとでもズレると「自分は自分の位置を守っているのに、のび太のび太のくせにどうしてのび太の位置にいないのか? のび太のくせにずるい、許せない!」となる。

 つまり、弱い者には「弱い者の位置」というものがあり、その位置をちょっとでもズレると「ずるさの道徳感情」が発動して「のび太のくせにずるいぞ!」という差別論法によって不当にバッシングされるのである。

 これは日本社会特有のものだろう。「スクールカースト」にも通じている日本的学校文化や日本的会社文化である。メンバーシップ型の共同体的空間があれば、そこには必ず「のび太のくせにずるいぞ!」的な空気が漂っている。自分のキャラやポジションを明確に設定し、そこからちょっとでもズレるとハブられる恐れが生じる。「ずるさの道徳感情」はいじめの心理にも通底しているのである。

「ずるさ」に脊髄反射する前に

 答えは簡単である。「ずるさの道徳感情」を市民的倫理と区別することだ。「ずるさの道徳感情」によって発動する一連の「許せない」という感情を正当性のある社会的正義だと勘違いしないこと。これにつきる。そのためには多少のずるさには寛容になるしかない。ずるいひとを見たとしても「ずるさの道徳感情」に引っ張られないことだ。批判しなければならない「ずるい強者」はもっと大勢いる。かれらは本当にずるいから見えない。社会的不正は巧妙に隠されている。そっちのほうにこそ「ずるさの道徳感情」を社会的不正義に変換して応えるべきなのだ。

 そしてもうひとつ重要なのは「ずるさの道徳感情」はそのままでは幼稚で浅ましく恥ずかしい感情であると認めること。教育を必要としない「ずるさの道徳感情」は自然感情ゆえに誰もが直感的に感じやすい。思考せずとも共感しやすいので怒りの感情のまま伝播する。SNSの「ネット炎上」がよい例だろう。ネット環境によって、いつでも誰でもどこでも匿名でバッシングすることが可能になった。「感情の政治」は「ずるさの道徳感情」を利用するはずだ。(たとえば生活保護バッシングのときの片山さつきのようにだ。)

  みんなが守っているのにお前だけ守っていないのは、ずるい。そう勝手に判断されて不当にバッシングされるような社会。道徳監視社会。「ずるさの道徳感情」が肥大化し、だれもが自分のポジションを気にしながらそこからのズレを過剰に意識しなければならない社会。だからこそ「日本人は行列にちゃんと並ぶすばらしい国民である!」。

なんと生きづらい社会であることか。