おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「非対称な関係の対等な関係」は可能か—『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』が示唆する難問について—

インターエイブル(interabled couple)を描いたドラマ

 

 昨年、韓国ドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』(Netflix)がヒットした。

世界では非英語部門のTV番組で配信開始から6週連続でTOP10入り、そのうち2位になったのは一度きりでTOP1に君臨し続けている。(シネマカフェ 2022.08.22)

 

 内容は、主人公のウ・ヨンウ(弁護士)イ・ジュノ(法律事務所職員)との恋愛を描いたリーガル恋愛ドラマである。特徴としては、ウ・ヨンウには「自閉スペクトラム症」という障害があり、いわゆる「普通じゃない=風変わりなひと」である一方、天才的な記憶力によって頭脳明晰な弁護士として活躍する物語だ。このウ・ヨンウ弁護士と同じ法律事務所で働いているイケメン・モテ男のイ・ジュノが恋をするという流れになっている。それ以外ではリーガル系のサイドストーリーが各話ごとに展開される。

 ちなみにこのような障害者と非障害者との恋愛関係は「インターエイブル(interabled couple)とよばれている。(まだ日本語にはなっていない)。インターエイブルカップルを描いた作品としては、日本では『ジョゼと虎と魚たち(田辺聖子 1985年)が有名だ。この作品は2003年に映画化し、2020年には韓国でリメイク(조제, Josée)され、アニメ化もされている。

joseetora.jp

 

このドラマが示唆する「難問」とは?

 まず、このドラマで「難問」だと感じた点を列挙しておく。

知的障害者と非障害者の性愛可能性(性行為の同意可能性)
② ウ・ヨンウ弁護士のセクシュアリティ
イ・ジュノのウ・ヨンウへの恋愛感情は「同情」なのでは?

 

 以上、三つをひと言でいうなら〈「非対称な関係の対等な関係」は可能か〉ということにつきる。「非対称な関係」とは、親と子ども、男性と女性、障害者と非障害者、人間と動物 … 等々のように属性的に対称的ではない関係をさしている。

 非対称な関係は非対等な関係へと傾きやすく、差別やパターナリズムに陥りやすい。したがって「非対称な関係の対等な関係」はかなり難しい関係を余儀なくされる。(だが、そのような関係を難しくさせているのは、社会相関的につくりだされた権力構造の変数(傾き)によってである)。

 

知的障害者の女性と非障害者の男性との性愛は「性犯罪」になる?

 エピソード10「手をつなぐのはまた今度」では、知的障害者の女性と非障害者の男性の性愛が「性犯罪」として告発される「事件」が描かれている(知的障害者の女性の母親が訴えた裁判)。争点は知的障害者の女性の性的同意可能性である。当事者同士は「同意はあった」と言っており、ウ・ヨンウ弁護士はそれを擁護する。しかし、母親と障害者支援団体は一方的に「同意はない」と思っており、性行為は「性暴力だった」と訴えている。

 この裁判で問われているのは「同意の有無」ではなく「同意能力の有無」である。「同意があった/なかった」という事実レベルの問題ではなく「同意できる/できない」という能力(able)が問われている。それゆえ本人がいくら「同意した」と言っても、母親や障害者支援団体らが「彼女は知的障害ゆえに同意能力そのものがない。だから同意なんてしていない」と訴えることが可能なのだ。

 結果は微妙だ。陪審員評議では4対3で無罪。だが、裁判長は有罪の判決を下す。その判決が下った瞬間、原告の女性は泣き崩れ、被告の男性は落胆する。自分たちが感じていたプライベートな恋愛感情とそれにもとづく性行為は「性犯罪」であると法的に判断されたからだ。この裁判によって知的障害者の女性の性的同意可能性は否定され、性愛可能性はスポイルされてしまった。

 当然のことながら知的障害者にも恋愛感情や性的欲望はある。なのに、知的障害ゆえに性的同意可能性が認められず性愛の自由そのものが剥奪されてしまったのだ。知的障害者が恋愛をするとき、いちいち裁判をしなければならないのか、親の許可を得なければならないのか、どの程度の知的障害なら性的同意可能性があると見なされるのか、知的障害者の性的欲望は社会的に無視されているのではないか。こういった問題はほとんど議論されていない。

 もし、性犯罪か否かの問題が「性的同意」のみに焦点化されるなら、知的障害者の性愛可能性や性的欲望は「同意能力はない」という健常者中心主義(エイブリズム)によって無きものにされてしまうだろう。一方的に〈知的障害者には「同意」という能力がない。だから、知的障害者と非障害者との関係性には「対等性は望めない」〉と社会から決めつけられるおそれがある。このように温情主義的(パターナリスティック)に判断されてしまってよいのだろうか。

 性暴力の問題を考えるとき、わたしたちは以上のような問題を考慮に入れて熟慮する必要がある。これがこのドラマ(エピソード10)の教訓である。

 

ウ・ヨンウ弁護士のセクシュアリティは尊重されているか

 もともと「非対称な関係の対等な関係」を問題視したのはフェミニズムであった。とくにラディカル・フェミニズムは「個人的なことは政治的である」とのテーゼから男女の性愛関係はことごとく性暴力であると喝破した。彼女らにとって「非対称な関係」が「対等な関係」になるはずはなく「非対称な関係」は「非対等な権力関係」しか生まないのである。もっとも過激なラディ・フェミは「男女の性行為=レイプ」ということ以外には考えられない。このように、男女の性愛関係において「非対称な関係の対等な関係」が成立しないなら異性愛には性愛可能性そのものがないということになる。

 このドラマでは女性であるウ・ヨンウ弁護士はかなり一方的に愛される側になる。しかもウ・ヨンウは自閉症の特徴として他人に手をさわられたりすることを苦手としている。(正確には57秒以上、手をつなぐことができない!)。

 ここで疑問がうかぶ。ウ・ヨンウ弁護士はほんとうに恋愛したいと思っているのだろうか、と。

 その疑問は杞憂となる。ドラマでは二回ほどキスをするシーンがあるからだ。最初のキスはエピソード10「手をつなぐのはまた今度」の1:01:48付近でおこなう。ここでウ・ヨンウに嫌がる様子はなく、逆にみずから距離を縮めて自分からキスをする。相手のイ・ジュノはほぼ棒立ち状態だ。このシーンはまちがいなくこのドラマの名シーンのひとつだと思う。一方的に愛される側だと思われていたウ・ヨンウが自ら主体的にキスをするのだ。この機微をちゃんと描く。ここに韓国ドラマのすごさを感じる。

 だが、再度疑問が浮上する。ウ・ヨンウはキスをしたものの、それ以上の発展を望んでいるのか。もし、セックスするとなると57秒以下ではすまないだろう(キスだけなら57秒以下で可能)

 ここで難問となるのは「男性と女性」「非障害者と障害者」というダブルの非対称性の交差的関係における対等性である。「男性と女性」の非対称性と「非障害者と障害者」の非対称性が複合的に交差しているとき、はたしてふたりの関係性に対等性はありうるのだろうか。ウ・ヨンウの場合、みずからキスをすることによってその対等性はありうると示してくれた。だが、一般的にいってそのような関係は難しいのではないか。ウ・ヨンウとイ・ジュノの関係も発展途上の段階でドラマは終わっている。

 もし、ウ・ヨンウがセックスしたくないひとでイ・ジュノがセックスしたいひとだったなら、この先ふたりの関係はどうなるのか。このようなときダブルの非対称性が対等な関係性に負荷をかけ「非対等な関係」に傾く可能性は十分にありうる。ここから先は「個人的なことは政治的である」がゆえに性差別や障害者差別に簡単に滑っていく。この問題をウ・ヨンウとイ・ジュノの関係を超えて一般化するとき、ダブルの非対称性は難問となるだろう。

 

イ・ジュノのウ・ヨンウへの恋愛感情は「同情」(非対等)なのでは?

 エピソード10「手をつなぐのはまた今度」においてイ・ジュノは友達から「お前のそれは愛じゃない。助けたいとか可愛そうだから付きあうなんて愛情じゃなくてそれは同情だ」と言われてキレるシーンがある。

 最終回でイ・ジュノがウ・ヨンウに再度告白するシーンでは、「ウ弁護士への僕の気持ちは、猫に片思いしてるのと似ています。猫は時々飼い主を悲しませるけど、同じくらい幸せにしてくれる」と告白。つまり「ウ・ヨンウ=猫」「イ・ジュノ=飼い主」という説明図式を用いる。これに何かモヤモヤしないだろうか。わたしはモヤった。

 ここでモヤるのは、イ・ジュノにとって「猫」とはどういう存在か、である。その猫はペットなのかコンパニオン・アニマル(伴侶動物)なのか。もし、その猫がペット的な猫であるなら非対等な関係となり、伴侶的な猫なら対等な関係と見なすことができる。一般的に人間と猫の関係は、いまのところ非対等的(飼い主である人間が猫を世話する関係)になりがちだ。そうなると「猫と飼い主」という説明図式は友達が指摘した「それは愛情ではなく同情」にかなり近づくことになりはしないか。

 イ・ジュノの告白をうけてウヨンウは次のように返す。「“猫に片思い”という表現は不適切です。猫も飼い主を愛してます」。

 イ・ジュノの告白を一般化して言うなら「女性・障害者=猫」「男性・非障害者=飼い主(人間)」ということになる。これだと明らかに「非対称的な関係の非対等な関係」になってしまう。なぜ、こんな問題含みの告白シーンにしたのだろうか。

 好意的に解釈するならば、ウ・ヨンウはクジラやイルカが大好きであるという点があげられる。ウ・ヨンウは自閉症の特徴ゆえに動物と人間の境界が曖昧なのだ。たとえば、自閉症の動物科学者として有名なテンプル・グランディン(『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』の著者)がそうであるように、ウ・ヨンウも人間と動物の境界(グレーゾーン)を生きているのかもしれない。

 ならば、ウ・ヨンウの視点に立つなら「猫(動物)/飼い主(人間)」は対等な関係になるはずだ。ウ・ヨンウはクジラやイルカと人間を区別しない。クジラやイルカは自分と同じ存在(fellow creature)だからである。この動物論的観点を加味すれば、イ・ジュノの「猫と飼い主」の告白図式は対等性を担保したものだったと解釈することはできる。

 イ・ジュノのウ・ヨンウへのまなざしは「愛」なのか「同情」なのか。これは人間と動物との関係と非障害者と障害者との関係のクロスされた部分(交差性)によって指し示される難問である。もし、イ・ジュノにとってウ・ヨンウとの関係がウ・ヨンウとクジラ(動物)との関係のようであるならば、イ・ジュノのウ・ヨンウへのまなざしは「愛」ということになるだろう。

 

健常者(=人間)中心主義の価値観によって劣位に置かれる「障害者」と「動物」の類似性

 障害者と非障害者との関係性には動物と人間との関係性を連想させてしまう「何か」がある。その「何か」が「非対称的な関係の対等な関係」を阻んでいる。動物と人間との間に強固な線引きがなされるように、障害者と非障害者の境界にも切り込みの強い線引きがなされているのだ。

 はたして「動物」を人間化することなく、動物と人間の対等な関係性はありうるのだろうか。わたしたちは「障害者も同じ人間」という同化(非対称性の無化)によって障害者と非障害者との線引き(非対等性)をかえって固定化しているように思う。都合のよいときだけ動物を人間化し、動物の動物性を無化するように、都合のよいときだけ「障害者も同じ人間」というかたちで包摂するふりをして障害者の無能力性(=健常者中心主義)を温存している。

 相模原障害者殺傷事件(入所者19人殺害、26人重軽傷)をおこした植松聖は「重度知的障害者は人間ではない。ゴキブリと同じ動物だ。だから殺してもよいのだ」というロジックを展開していた。このロジックでは、健常者(=人間)中心主義によって「動物」と「障害者」を劣位に置き、次に「障害者=動物」という等号をつくりだして「障害者は人間ではない(=動物である)。ゆえに殺害してもよい」という法外な殺害許可(非倫理性)をつくりだす。わたしはこの植松の身勝手なロジックは植松個人がつくりだしたものではなく、いまの日本社会がつくりだしているのだと思っている。なにか問題がおこったときだけ「重度知的障害者も同じ人間だ、人間には尊厳がある、だから人権がある」といったりするが、その問題が過ぎ去ったあとには相も変わらず重度知的障害者は「人間」の範疇から排除されていると思うからだ。