おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想など。

『威張るな!』(高橋源一郎)と「リベラルな人」

 高橋源一郎さんの「威張るな!」というエッセーがあります。

 テレビのワイドショーのコメンテーターの人たちには、ぜひ読んで欲しい文章です。

 下記に重要なところを引用すると

 ものを書く人はそれだけで不正義である――作家太宰治のモラルはこのことにつきている。ものを書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセーを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。

 もの書くということは、きれいごとをいうということである。あったかもしれないしなかつたかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝(けんでん)することである。いや、もっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。

 

 おのれの「正義」しか主張できぬ不遜なもの書きの唯一のモラルは「他者への想像力」である。だが、そのいいかたはすでにきれいごとであろう。必要なのは「威張るな!」のひとことである。.最低のもの書きのひとりとして、ぼくはそのことを烈しく願うのである。

 

「威張るな!」 高橋源一郎 「カネか安全か」中村 哲

高橋源一郎「威張るな!」全文あり。

2015/07/09 23:38

b.hatena.ne.jp

 

 「威張るな!」とは、あえて換言するなら「調子にのってんじゃねーよ!」「もっと謙虚になれよ!」といったところでしょうか。

 

 と、書いているこの文章も「威張るな!」の対象にもちろん入ります。

 すべてがすべてに「威張るな!」ということです。

 「……と、言っているお前も威張るな!……と言っているお前も威張るな!と言っている

 というふうに、無限につづく「威張るな!」というブーメラン。

 

 だから、高橋源一郎さんの文章は「屈折」せざるをえない構造になっています。

 屈折せざるをえないことを自覚した上で、それでも「威張るな!」と言う。

 そして、「謙虚になりたい」と思う。

 

 こういう反省的な「威張るな!」(謙虚さ)が「リベラル」ということに近いのではないか、と最近思うようになりました。

 

 たんに、「弱者に優しい人」が「リベラルな人」なのではなく、「威張るな!」的自戒を自覚的に生きていると、結果的に「弱者に優しい人」になるのではないか…‥というか、そうならざるをえないのではないかと思うんです。

 

 そう考えてみると、「ネオリベ的思考」や「ネトウヨ的主張」をする人、あるいは、リベラルな主張をしているけど、何かちょっと権威主義的に威張っている人(所謂、善意の人、正義の人、正しき人)などは、「リベラルな人」という感じがしないのです。

 

 そもそも、ネオリベ思考やネトウヨ主張をしている人には、高橋源一郎さんの言っている「威張るな!」の主旨がまったく分からないかもしれません。そういう人たちは、対面的にはすごく礼儀正しくて、表層的には威張っていない人が多いと思うのですが、高橋さんが言っているのはそういう態度的な意味ではなく、深層意識レベルの「威張るな!」です。

 

 一つ例を出してみますと、リバタリアン的発想の根本的次元には、「自分の身体は自分のもの」という考え方があります。ここから、「自分の能力は自分のもの」⇒「自分の労働(能力)で稼いだものはすべて自分のもの」⇒「自分の功績は自分のみに帰属」⇒「自分の成功の原因はすべて自分に帰属」⇒「課税前所得はすべて自分のもの」⇒「だから税金は泥棒に近い」⇒「俺の血税を無駄遣いするな」という一連の発想に繋がります。

 

 こういう考え方は「日常生活に潜むリバタリアニズム」とよばれている発想方法(人間観・価値観)ですが、これらは「自己責任論」とか「努力信仰」、「資本主義経済」や「市場原理」、「能力主義」や「競争原理」と非常に相性がよく、学校教育にも浸透していて、人々のマインドや直感に馴染みやすい発想法です。

 

 そのような考え方に異議を言うのが「リベラル」という立場だと思うのですが、ここで高橋さんの言っていることに関連付けて言うなら、リバタリアン的発想というのは、かなり激しく「威張っている」ように見えます。

 

 なかでも一番大きく「威張っている」と感じるのは、「自分の身体は自分のもの」と言っているところです。「自分の身体」は自分で作ったわけではないのに「自分のもの」と言い切っているところです。そして、あたかも自分一人でこの世に自らの力のみで生まれてきたかのごとく、「自分の生」の被贈与性を否定してしまうところです。

 

 「自分の生」は自分に由来するものではなく、「自分の身体」は自分が作ったわけではない。つまり、「自分の生」も「自分の身体」も自分に由来するものではなく、与えられたもの、贈与されたもの。

 こういう被贈与性の観念は、宗教性の観念がなくても十分理解できます。

 そう考えることは、理屈や常識にまったく反していません。

 「偶然生まれてきた」と考えるのが嫌な人だけが「神から与えられた」と考えればいいだけです。

 

 被贈与性の観念と「威張るな!」的観念は、すごく機能的に似ていると思います。

 そういう意味で、どちらも「リベラル」の前提を成す観念であろうと思われます。

 

 私たちが社会を生きていくことに伴うある種の傲慢さ、自惚れ……等々、これに居直ることなく少しでも謙虚になって生きていくためには、「威張るな!」的自戒と被贈与性の観念が効果的であると思われます。

 (が、こういう考え方自体が傲慢さの表れであり、やっぱり「威張るな!」ということになります。そして、日常生活を生きているときの9割以上はまったく被贈与性の観念など忘れて生きているのです。)

 

 

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