おんざまゆげ

@スラッカーの思想

男性性と性的興奮——「政治的に正しい勃起」はありうるか?

ヘテロ男性の性的興奮について】

 ポルノグラフィ規制派でアメリカのラディカル・フェミニストであるキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンは、「異性愛者のセックスはすべて男性による強姦である」という強烈なテーゼを主張した。しかし一方で、セックスは「愛の行為」だと考えるひとも多い。

「暴力」は「愛」に反転しうる ——「セックス」の暴力性阻却

 セックスは暴力か? 「すべてのセックスは暴力である」と全称命題で語るのが前述のマッキノンらである。一方、リベラル派はセックスは暴力にもなりうるし愛の行為にもなりうると考える。そして、後者の立場には二通りの解釈がありうる。

 ひとつは、そもそもセックスは暴力であるが、お互いに“合意”をしたうえでならその暴力性が阻却され愛の行為に反転するというもの。もうひとつは、セックスには暴力的セックスと愛のセックスの二種類に分類できると考えるもの。前者はセックス一元論的(哲学者カントもこの立場)であり、後者はセックス二元論的である。

 一般的な日常性の観点からみるなら、セックスは暴力である。セックスという行為は、日常的なモードではやってはいけないこと(ダブー)になっているからだ。しかし、特殊的な非日常性の観点からみるなら、セックスは官能的な愛の行為になりうる。セックスはこの二重性のうえに危ういバランスを持っている。

 もし、マッキノンらの立場を支持するなら性愛は不可能だろう。セックスはすべて暴力になるからだ。セックス一元論の立場をとるなら、今度は「合意」とは何かが大問題になる。セックスが暴力だとしても、この暴力(=セックス)がお互いの快楽に貢献し「愛の行為」になるならば、もはや「ふたりにとって」セックスは暴力ではなくなる。これが「セックスの暴力性阻却」のロジックだ。

「セックスは暴力になりうる」というとき、「そもそもセックスは暴力的だからだ」と考えるのか、「そもそもセックスは愛の行為だが、えてして暴力にもなりうる」と考えるのか...。後者の立場(セックス二元論)は性差別的な傾きをもっており、男性優位社会にとって都合がいい。「セックスをした」という事実性だけでもって「それは愛の行為だった」と抗弁することに道をひらくからだ。

「勃起の自由」の最低条件

 男性の性的興奮(=勃起)に政治的正しさや道徳的正しさを要求することじたいまちがっているのかもしれない。厳格なキリスト教倫理は性的なことを潔癖主義的に忌避したが、一部のラディカル・フェミニストもそれと同じ愚をおかしているのではないか。

 そもそもセックスは暴力である、しかし、「ふたりにとって」(あるいは複数にとって)それは「愛の行為」にもなりうる。つまり、性愛と暴力は表裏一体の紙一重。そう考えたほうがよいと思うのだ。

 たとえば、とある紳士的な男性が「痴漢は性暴力であり犯罪である」と言ったとしよう。実はこの男性、夜な夜な「痴漢モノ」のアダルトビデオでマスターベーションをしていることが発覚した。これは明らかに矛盾である。では、「痴漢モノ」のアダルトビデオを見ずに頭のなかで「痴漢妄想」によるオナニーをしていたら? これも明らかに矛盾しているだろう。しかし、男性の性的興奮(=勃起)とはそういうものではないか?

「日常ではやってはいけないこと=性的タブー」を侵犯するところに性的興奮の契機が存在する以上、男性の性的興奮を惹起する性的妄想が暴力的で犯罪的なものになりうるのは当然ではないだろうか。(たとえば、大好きな女性を丸裸にして胸を揉んだり乳首を舐めたりすることは日常的には“犯罪“であるが、そういう行為(あるいは妄想)に「勃起」するのが男性性の性的興奮というものだろう)。

 だとしたら、性的興奮(=勃起)に政治的道徳的正しさを求めてはいけない。男性に要求すべきなのは、「セックスはそもそも暴力であり、たとえそれが反転した愛のセックスであっても容易に暴力に転化しうる」ということを自覚することだ。合意可能性をしっかりと調達すること。暴力的なポルノグラフィに加担しないこと。それが男性性の性的快楽という自由(=勃起の自由)を手にいれるための最低条件である。

【補足】

  セクシュアリティ「性欲望/性行為/性関係」という3区分にわけて考えることができる。(これに関しては「ポルノ擁護論とマスターベーション論」に書いた) 3つの区分で言うなら、性的興奮(=勃起)は性欲望に関係する。したがって、厳密に言うなら「性的興奮(=勃起)の暴力性」と「セックスの暴力性」はまったくちがう事象となる(今回の記事ではそれら二つを地続きの問題として扱っている)。現実レベルで暴力性が問題になるのは「性関係」(他者身体を必要とする「公的セックス」)の場面である。たとえば、「痴漢妄想」という性欲望をオナニーという性行為(私的セックス)で満たしたとしてもそれは犯罪にはならない。しかし、現実の痴漢行為は性暴力なのだから、「痴漢妄想にもとづくオナニー」という性行為から暴力性を排除することはできないだろう。