おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「家父長制(=家族主義)」から「親密圏(ジェンダー平等)」へ ——「資本の論理」に汚染されない場所が必要

「システム」と「生活世界」という区別がある。「システム」は「市場社会=等価交換の世界」に、「生活世界」は「親密圏=贈与の世界」に対応する。

 具体的に言うならこうなる。家族的なホームから「行ってきます」と言って市場社会へと出撃し、労働者としてボロボロになりながらも「ただいま」と言ってホームへと帰還する。ホームでリフレッシュした労働者は再び市場社会へと出撃...。これが「労働力の再生産」としてのホーム機能である。

 近代資本主義社会では、ホームは家父長制システムとなり、資本制の下請けのような役割を果たしている。したがって、ジェンダー平等の観点を取り入れたホーム機能の構造的変換は「家父長制(=家族主義)から親密圏へ」というスローガンを打ちだしている。これは、ホームという居場所を「資本制の下請け」から解放し、私たちの身体性を「資本の論理」から守ってくれるシェルターのような場所につくりかえる運動である。

 資本の論理に汚染されていない場所(=親密圏としてのホーム)は、たんなる「労働力の再生産」を後押しする場所ではない。むしろ、資本主義的価値観からずれていく契機を提供する場所になりえるのが親密圏としてのホームである。

 もともと人間の身体は資本主義的労働に耐えられないものだった。高度な市場社会を成り立たせるためには、労働身体を再生産する場所が要請される。資本制は家父長制と連動することによってその機能を外部化するかたちで調達した。外部化のコストは「性差別」として払わされる。これが資本主義社会における「家父長制と資本制」の二元論的世界の実相だ。資本主義は「身体・自然環境・女性」らを犠牲にしないと成立しないシステムなのである。

 親密圏としてのホームは、そのような資本主義システムをつくりかえる契機となりえる。「資本主義に適合するホーム=家父長制」から「ホームに適合する資本主義=親密圏」に変換する。この場合、資本の論理は「主」ではなく「従」になる。親密圏=ホームは、そのような「主/従」を逆転させる契機となる。

 市場社会=等価交換の世界と、親密圏=ホーム=贈与の世界。この二つの世界はまったく異なる意味世界を構成する。近代社会固有の生きづらさは、どこもかしこも資本の論理に汚染されてしまっているところから来る。「家族」も「学校」も資本の論理が浸透しており、ここから人間存在じたいを生産性の価値で評価する態度が醸成される。

 資本の論理が浸透する一元論的世界から、親密圏=ホーム=贈与の世界を新たに立ち上げる。二元論的世界へとつくりかえる。親密圏=ホーム=贈与の世界がつくりだす新たな意味世界(=対抗言説)は、新しい物語り=オルタナティブをつくりだす。資本の論理で無力化された者たちは、そのような新たなオルタナティブの可能性によって有力化=エンパワーメントされるだろう。