私は社会学者の内藤朝雄さん(以下敬称略)の『いじめの社会理論』『いじめの構造』を読んで以来、熱烈な支持者(内藤論者)になった。
前々回は内藤の「中間集団全体主義」について簡単に触れ、前回は「なぜ内藤は教育関係者からスルーされるのか」について書いた。
今回は内藤論者から見た「ブラック部活批判の矛盾点」について書きたいと思う。
「ブラック部活」批判
最近、ネット上で議論が盛り上がっている「ブラック部活」問題というのがある。発端は「真由子先生」という現役中学校教師がブログ上で部活動の理不尽さ(全員顧問制は違法!)を訴えたことがきっかけである。
その後、教育学者の内田良さんやスポーツ社会学者の中澤篤史さんなどが部活動にかんする本を出版しその流れを大きなものにしている。
「学校共同体」を批判の対象にしないブラック部活批判
私はブラック部活動に反対である。真由子先生がブログで指摘している部活動にかんする矛盾点もその通りだと思うし、議論を拡散している内田さんの問題意識にも賛同している。しかし、「内藤朝雄」論者としては一点だけ解せない点がある。
私はブラック部活批判の議論の仕方を通じて、いかに内藤の主張が教育関係者たちからスルーされているかを思い知った。ブラック部活を議論している教師や一部の学者たちには「学校が共同体である」という視点がまったく欠けている。そのような論者たちは、内藤がいじめ問題についてことあるごとに指摘している「学校共同体」批判をスルーするかたちでブラック部活の問題を議論している。
部活動というのは学校共同体のシステムによって運営されている。ならば、ことさら部活動だけをピンポイントに問題するのではなく、部活動を成り立たせている学校共同体をまるごと問題にすべきである。学校共同体が聖域化・治外法権化されているからこそ、学校には「市民社会の論理(ルールと法の支配)」で言ったら犯罪になる体罰=暴力やいじめ、変な校則や部活動における全員顧問制のような違法状態がずっと見過ごされてきたのだ。
しかし、不思議なことにブラック部活を批判している教師たちや一部の学者らは学校共同体全体を問題にするのではなく、学校共同体のなかに存在している部活動だけを問題にする。内藤の「いじめの理論」が提示した枠組みなら、ブラック部活問題もいじめ問題も両方を一度に問題にすることができる。だが、なぜか内藤の主張は取り上げられない。
部活動のような曖昧で矛盾に満ちたよく分からないしくみを今まで何の疑問もなく再生産し続けてきたのは、学校共同体とそれを政策的に支える教育行政である。ブラック部活は学校共同体のシステムが滞りなく回り続けるという事実性だけに支えられた共同体的慣習文化に支えられている。したがって、問題にすべきなのは「部活動の慣習文化」ではなく「学校共同体の慣習文化」である。
真由子先生と内藤朝雄の奇妙な一致と不一致
ブラック部活批判の火付け役である真由子先生のブログを読むと、奇妙なことに内藤と同じような論理で部活動を批判していることが分かる。
真由子先生の主張はシンプルである。ブログのタイトルにもなっている「公立中学校 部活動の顧問制度は絶対に違法だ!!」から分かるように、教員に対する「部活動の全員顧問制」という点が批判の対象である。
法的根拠がまったくない「部活動の全員顧問制」という慣習的文化は、市民社会の論理(ルールと法の支配)から見れば明らかに違法である。真由子先生はブログを立ち上げた当初からそのような論理で部活動を批判する。
実は内藤もいじめの問題を議論する際、学校共同体に市民社会の論理を導入すれば、いじめや体罰=暴力をいま以上に減らすことができると述べている。たとえば、体罰は市民社会の論理に照らせば明らかに暴力であり、学校外でそのようなことをすれば警察に通報されて刑事司法のプロセスの対象になる。
しかし、学校内で教師が行う暴力は「体罰」という特殊な意味に変換され、「教育のため」「子どものため」「しつけのため」といった独特の論理でもって歴史的にずっと擁護されてきた。いじめについても市民社会の論理に照らせば明らかに「犯罪」であり、傷害罪、暴行罪、脅迫罪、強要罪になる可能性がある。
したがって、真由子先生が指摘する「部活動の全員顧問制は違法」というロジックと内藤が指摘する「いじめや体罰は犯罪」というロジックは同じである。
真由子先生が部活動批判で用いている論理(部活動に市民社会の論理を適用せよ)というのは、内藤がいじめ問題で用いている論理(学校共同体に市民社会の論理を適用せよ)とまったく同じなのである。
しかし、真由子先生と内藤とでは、批判に用いている論理は同じでもその対象範囲が大きく異なっている。真由子先生が問題にしているのは「部活動」だけであり、内藤が問題にしているのは「学校共同体」全体である。
真由子先生の矛盾した論理
内藤の「いじめの理論」から見ると、真由子先生の部活批判は大きな矛盾を抱えている。
真由子先生の部活動批判の画期的な部分は、部活動問題を「教員=労働者」問題と見立てたところにある。生徒の立場に立つなら、部活動というのは体罰=暴力といじめの温床であり、真由子先生が部活動批判をする以前から生徒にとって部活動は悩ましい問題だった。ここにきて真由子先生が打ち出した新機軸は、部活動問題を教師=労働者の立場から問題にするという視点にある。
真由子先生が部活動問題で批判しているのは、今の部活動のしくみを支持している教員たちや部活動の全員顧問制を強いてくる校長や教頭らである。真由子先生が戦っている相手は「部活動」であり、その主戦場は部活動を支持する教員たちの集合体である「職員室=職場」である。だから、真由子先生は「学校共同体」を問題にしているのではなく、学校共同体のなかに存在する「職員室=職場共同体」の慣習文化(法的根拠のない全員顧問制)だけを批判の対象にしている。
真由子先生はブログ内で常々、職員室に漂う同調圧力や部活の全員顧問制にノーと言えない空気の支配を批判している。このような同調圧力や空気の支配によって部活の全員顧問制という何ら法的拘束力のない慣習的文化がまかり通っているからだ。だから、職員室の職場共同体の共同体原理(同調圧力と空気の支配)を市民社会の論理(ルールと法の支配)に転換することを主張している。まったくその通りだと思う。
しかし、真由子先生が問題にするのは職員室の職場共同体だけなのだ。学校共同体にはもう一つ強力な「教室=学級共同体」が存在する。真由子先生は学級共同体を問題にせず、職員室の職場共同体だけを問題にする。これは矛盾していないだろうか。
日本社会のなかで最も強烈に「空気を読みあう文化」を強いられ、最も強力に同調圧力が作動している空間は、学校共同体に支えられて存在している学級共同体である。生徒たちは学級共同体のなかで空気の読みあいや同調圧力に屈する態度を強制的に学ばされる。学級共同体で馴致された生徒たちが、会社共同体の共同体原理を支える成員になるのである。
だとしたら、真由子先生は職員室の職場共同体だけではなく、学級共同体の共同体原理も批判の対象にするべきではないか。なぜなら、部活動の全員顧問制にノーと言えない人間をつくりだしてきたのは学級共同体だからである。「みんなやっているのだから…」という同調圧力の論理(全員顧問制の慣習文化)に屈しやすい人間を最も強力に育成しているのは学級共同体ではないだろうか。
世代的(歴史的)な先後関係で言うなら、職員室の職場共同体を支えているのは学校共同体に支えられた学級共同体である。しかし、真由子先生は職員室という職場共同体では共同体原理と戦いながら、学級という教室では共同体原理を教えている。これに何の疑問も矛盾も感じていない。
学級共同体では生徒たちに同調圧力に屈する態度を体で学ばせながら、職員室ではそれと同じ同調圧力と戦っている。学級(教室)では生徒に同調圧力を教え、職員室ではその同調圧力と戦うというおかしな二重性(ダブルスタンダード)に真由子先生は気づいていない。
学級共同体と職場共同体の同調圧力は同じメカニズムで動いており、内藤の「いじめの理論」で言うなら学級共同体も職場共同体も同じ中間集団全体主義である。
批判すべき対象は「学校共同体」
内藤は「部活大好き教師」と「学級経営大好き教師」をどちらも批判するが、真由子先生は「部活大好き教師」を批判し「学級経営大好き教師」は肯定する。
内藤は「治外法権の場所=学校共同体全体」と考えるが、真由子先生は「治外法権の場所=部活動(を支える教員=職員室=職場共同体)」と考えている。
内藤は学校共同体を共同体の論理(空気の支配)から市民社会の論理(ルールと法の支配)へと変換せよと主張する。しかし、真由子先生は「部活動」とそれを支えている職員室=職場共同体を共同体の論理(空気の支配)から市民社会の論理(ルールと法の支配)へと変換せよと主張する。
内藤が批判の対象にしているのは学校共同体であるが、真由子先生は内藤が批判している「学校共同体」をことごとく部活動だけに縮小して問題にしている。
先述したように、部活動は学校共同体のシステムによって支えられている。だから、ことさら部活動だけを問題にするのではなく、学校共同体全体を批判の対象にすべきなのだ。ブラック部活の問題は単なる教員の労働問題だけにとどまらない。ブラック部活問題は学校共同体が生みだしている様々な問題(いじめ自殺や体罰=暴力や変な校則など)の一部である。ならば、内藤が言うように批判すべき対象は「学校共同体」全体であり部活動だけではないはずだ。