おんざまゆげ

@スラッカーの思想

われらは『涙と笑いのハッピークラス』を否定する——中間集団全体主義が生みだす感動と残酷について/「内藤朝雄」論(2)

 私は社会学者の内藤朝雄さん(以下敬称略)の『いじめの社会理論』『いじめの構造』を読んで以来、熱烈な支持者になった。内藤の「いじめの理論」=「中間集団全体主義」論についての大まかな要約は前回述べた

 

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体

 
いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

 

 

内藤朝雄」論者の憂鬱

 内藤を支持する「内藤論者」になると、きまって一つの「憂鬱」に悩まされることになる。その憂鬱とは、内藤はとてもいいことを言っているのに、なぜ教育関係者(特に教員)に人気がないのかである。正確に言うと、「人気がない」のではなく「相手にされない」あるいは「無視(スルー)されている」のだが…。

 

趣旨

 以下の文章では二つのことを同時に論じている。

(1) 内藤がいじめの問題で提示した「いじめの理論」=「中間集団全体主義」論は、なぜ、教育関係者からスルーされるのか。

(2) 中間集団全体主義が生みだす「感動」は、それとは真逆の「残酷」を生みだすことがあり、この感動と残酷を生みだす構造とメカニズムはまったく同じものである。

 

 

 

『涙と笑いのハッピークラス』

  内藤の「いじめの理論」に従えば、その必然的帰結として『涙と笑いのハッピークラス』を否定することになる。結論から言うと、この「否定」が内藤が学校関係者から人気がない(スルーされる)理由である。*1

涙と笑いのハッピークラス』とは、2003年にNHKスペシャルの「こども 輝けいのち」シリーズで放映されたドキュメンタリー番組である。金沢市立南小立野小学校 4年1組の生徒35人と、その担任である金森俊朗先生の学級運営(「金森学級」と呼ばれている)を一年間取材して作られたものだ。

 この番組は、放映されると立ちどころに大きな感動と反響を巻き起こした。2003年には「日本賞グランプリ」、2004年には海外でも絶賛され賞を受けた。

 金森先生は放映以前から有名な先生だったが、放映後には時の人となり、まさに「カリスマ教師」のような存在になった。そして、ドキュメンタリーで描かれた「涙と笑いのハッピークラス」(=金森学級)は学級経営のお手本としての地位を確立した。

 

4年1組命の授業―金森学級の35人 (NHKスペシャル―こども輝けいのち)

4年1組命の授業―金森学級の35人 (NHKスペシャル―こども輝けいのち)

 

 

 

 海外で放映された映像をYouTubeで観ることができる。

 

www.youtube.com

 

 観てもらうと分かることだが、おそらくほとんど人は涙を流し感動するであろう。このドキュメンタリーに感動して教師になりたいと思った人もいるかもしれない。 *2

 しかし、内藤を支持する内藤論者はそのような「涙と笑いのハッピークラス」を明確に否定する。この感動を否定できるかどうかが内藤論者かどうかの試金石となる。

 

 

なぜ「涙と笑いのハッピークラス」を否定するのか

 ちなみに内藤自身は『涙と笑いのハッピークラス』に言及するかたちでそれを明確に否定する発言をしているわけではない。ここで重要なのは「内藤自身」が否定するかどうかではなく、内藤が提示した「いじめの理論」がその理論的帰結として「涙と笑いのハッピークラス」を否定するということである。

 内藤は『いじめの社会理論』(p33)において、イギリス・シェフィールド大学のいじめ対策プロジェクトを《学校全体をひとつのグループ・セラピー空間にするような不気味な提案》と言って批判している。そして、《学校が強制的な共同体であることから生じるいじめの蔓延を、さらに学校を共同体化することによって防止しようとするが、これは火に油を注ぐような結果をもたらすだろう》と述べる。

 内藤の「いじめの理論」から見れば、シェフィールド大学のいじめ対策プロジェクトと「涙と笑いのハッピークラス」は同型をなしている。「涙と笑いのハッピークラス」は「涙と笑い」から分かるように、はじめからクラス全体を「感情の共同体」にすることを目指している。

 内藤の「いじめの理論」では、そのような感情共同体こそがいじめの温床であると批判し、クラス制度そのものを廃止することを提案している。したがって、内藤の「いじめの理論」を支持するかぎり、「涙と笑いのハッピークラス」は否定されなければならないし、クラス制度そのものも否定しなければならない。

 

 

学校共同体は「涙と笑いのハッピークラス」を肯定する

「将来、教師になりたい」と言っている学生が「涙と笑いのハッピークラス」を否定できるだろうか。ありえない。むしろ肯定するからこそ教師を目指すはずである。

 内藤はいじめ被害者を生みだす中間集団全体主義を批判する。日本の学校はすべからく共同体化しており、学校共同体は中間集団全体主義の代表的事例である。学校共同体が支えている「学級共同体」がいじめを激烈にする構造的装置になっている。

 このような「いじめの理論」から「涙と笑いのハッピークラス」を見てみると、そのような試みは「不気味」に見えてくる。「いじめの理論」から「涙と笑いのハッピークラス」を見ると、いじめ被害者を生みだす構造を逆に強めようとしているように見えてくる。

 しかも、それが「ハッピー」だと言い、笑ったり泣いたりしている。このすべての構造を内藤は明確に否定するだろう。ゆえに、内藤は教育関係者に人気がなく、教員たちから無視(スルー)されまくってしまうのである。

 

 

「感動を生みだす構造」を批判する

「涙と笑いのハッピークラス」を否定するとはどういうことか。それは番組に出演している生徒や先生を否定することではない。番組を観て感動の涙を流している視聴者を否定することでもない。

 何かを見て「感動する人」を否定したり批判したりするのではなく、そのような感動する人を生みだす構造を批判するのである。

24時間テレビ』の「感動ポルノ」で言うなら、24時間テレビを観て思わず感動してしまう人を批判したりするのではない。そのように何かを見て思わず感動してしまう人を直接批判しても意味はない。だから、『涙と笑いのハッピークラス』を観て思わず涙してしまうことを批判しているわけではないのだ。

 感動的なシーンや番組を見て感動の涙を流してもいい。しかし、その涙を拭った後、なぜ自分はそのようなシーンや番組を見て感動したのかを内省的に考えるのである。そのような感動を生みだす構造を批判的に吟味し、感動を生みだす構造が何によって支えられ、どのようなメカニズムによって動いているのかを考察する。

 いったい「何が」その感動の涙を可能にするのか。そして、その感動の涙がいったい「何を」可能にするのか。そのように問うのである。

 感動を生みだす構造に目を向けるとき、番組に出演している人や番組を観ている視聴者は何ら問題にならない。感動ポルノ批判では、障害者自身が出演に同意しているのだから別にいいではないか、という反論がある。しかし、感動を生みだす構造を批判的に見ることは、出演者が同意しているかどうかとはまったく関係がない。

 必要なのは感動を生みだす構造とそのメカニズムだけに目を向け、感動を生みだす構造がそのまったく逆の「残酷」を生みだすことがありうることに想像力を及ばせることである。

 

 

プロジェクトX~挑戦者たち~』の感動と残酷

 2000年から2005年までNHKで放映された大人気番組『プロジェクトX』。この番組も感動的な物語であった。

『涙と笑いのハッピークラス』は日本の学校共同体を描いたドキュメンタリーであったが、『プロジェクトX』は戦後から高度成長期までの日本の会社共同体を感動的に描いたドキュメンタリーである。この二つの番組は内藤の指摘する中間集団全体主義を考えるうえで欠かせない番組となっている。

 ちなみに『プロジェクトX』は「男たち」の物語である。当時からその点に気づいている人は多かった。「オヤジがオヤジに涙する番組」と揶揄する人もいたほどだ。今でも「男社会」から脱することができない日本の会社共同体だが、高度成長期ならなおさらのこと会社共同体のなかに「男たち」しかいなかったというわけである。

 それにしても、なぜあの番組は感動的だったのだろう。「オヤジ」以外の若者や女性らにも番組を観て感動した人はいたはずである。

 働き方評論家の常見陽平さんは『プロジェクトX』を「過労死ドキュメンタリー」と表し次のように批判する。

 

「自分がいないと職場は動かないと言っていた彼。倒れた日も職場はちゃんと動いていた」

 

10代の時にNHKで見た過労死ドキュメンタリーで流れたナレーションが、今でも忘れられない。その十数年後、私自身が過労で何度か倒れたが、そのたびにこの言葉は証明された。…

 

(中略)

 2000年代前半にブームとなり、関連する書籍、DVDなどもヒットしたNHKの「プロジェクトX」は、言ってみれば「過労死・残業礼賛ドキュメンタリー」である。…

 

日本人が「残業」から一向に逃れられない理由

 

 感動を生みだす構造は、その同じ構造とメカニズムによって感動とはまったく逆の「残酷」を生みだすことがある。

 日本の会社共同体は海外から一時期「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と絶賛された。しかし、長時間労働や過労死が問題になると海外でも「karoshi」が話題になり、「死ぬまで働くなんてありえない」「クレイジーだ!」と言って批判された。

 

 

「涙と笑いのハッピークラス」と「プロジェクトX」の共通性

 電通社員の過労自殺が社会的に問題になり、国会などで長時間労働規制が議論されるようになった。この流れに反対した「トンデモ保守」の論理は、「長時間労働は日本の労働文化なのだから、たった一つの過労自殺事件が話題になったからといって労働時間を規制すべきではない」というものであった。*3

 トンデモ保守の論理が保守しようとしてるのは「プロジェクトX」的な感動物語である。トンデモ保守が言うには、労働者には「プロジェクトX」的な感動を生きる権利があり、労働時間を規制してしまうことはそのような感動を労働者から奪ってしまうというのである。

 そのようなトンデモ保守の論理と、「涙と笑いのハッピークラス」の感動を「善きもの」だと感じて擁護する学校関係者の論理は、内藤の「いじめの理論」から見るとまったく同じ構造をなしていることがわかる。

 つまり、「プロジェクトX」が生みだす感動と残酷さ(過労自殺)と、「涙と笑いのハッピークラス」が生みだす感動と残酷さ(いじめ自殺)はまったく同じメカニズムの作動(=中間集団全体主義である。

 長時間労働は「日本の労働文化」だと言って擁護するトンデモ保守の基盤になっている感受性は「プロジェクトX」の感動であり、学校共同体を擁護する教育関係者の基盤になっている感受性は「涙と笑いのハッピークラス」の感動である。そして、前者は過労自殺を、後者はいじめ自殺を生みだしている。

 会社共同体が生みだす「プロジェクトX」的な感動は、常見陽平さんが指摘するように今では疑問視されるようになっている。会社共同体がつくりだす感動物語には、感動だけではない真逆の残酷(過労自殺)を生みだすという負の構造的側面(ブラック!)が私たちにはっきりと見えるようになったからだ。

 では、一方の学校共同体は今どうなっているか。いじめ問題や体罰=暴力問題、ブラック部活動の問題が話題になりつつも、学校共同体は会社共同体ほどまでには批判されていない。なぜ、学校共同体は会社共同体のような批判を受けずにすんでいるのか。

 内藤が言うには、学校共同体には教育関係者という「学校応援団」がいるからである。内藤が戦っているのは、いじめ被害者を生みだすいじめの構造と、このいじめの構造を支えている学校共同体と、この学校共同体を支えている教育関係者(学校応援団)である。これこそが、内藤が教育関係者からスルーされる最大の理由だろう。*4

 

 

「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!!…」の残酷さ

 かつて「痛みに耐えてよく頑張った」一人の横綱がいた。この横綱の「痛みに耐えてよく頑張った」姿勢にみんなが感動した。しかし、その横綱は「痛みに耐えてよく頑張った」ことがきっかけで引退を余儀なくされた。

 なぜ、私たちは「苦しみに耐えて頑張っている人」を見ると感動するのだろう。困難なことに立ち向かい、その困難を克服する姿を見て人は感動する。全力で何かに打ち込んでいる人の姿はたしかに美しいだろう。克己心は美しく道徳的なものでもあるのだろう。

 ロス五輪(1984年)の女子マラソンに出場したガブリエラ・アンデルセン選手は、ゴール目前のスタジアムに入ったあたりから熱中症による意識障害が起こり、意識朦朧としながらもフラフラになりながらゴールインした。その姿を見た世界の視聴者の多くはアンデルセン選手の諦めない精神に感動した。まさに「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!!」である。

 もし、東京オリンピックアンデルセン選手のような熱中症のフラフラの選手がスタジアムに入ってきたら、おそらく日本のドクターはストップをかけるだろう。なぜなら、選手が死んでしまうおそれがあるからだ。

 今の常識的な感覚でいったらアンデルセン選手の意識朦朧としたシーンはあまりにもショッキングすぎるし、スポーツ医療の専門ドクターなら止めるだろうし、止めるべきだろう。ボクシングのような格闘技でも同じことであるが、たとえ視聴者が感動を望んでいても、たとえ選手自身が競技の続行を望んでいたとしても、ドクターやレフリーやセコンドが危険だと判断した際は「止めるべき」である。

 

 

感動と残酷が同居する中間集団共同体

 そのような感動の裏で選手たちの「肘」や「靭帯」あるいは「心肺機能」は悲鳴を上げている。肘や靭帯、心肺機能は精神力でなんとかなるようなものではない。私たちが「痛みに耐えてよく頑張った」式の感動を貪欲に求めれば、そのような感動方程式はある一定の割合で残酷さを生みだし続けるだろう。

 日本には夏と冬に二つの残酷物語(残酷ショー)が毎年行われている。「高校野球」と「箱根駅伝」である。箱根駅伝では毎年のようにフラフラになる選手が続出し、高校野球では過酷なスケジュールと投手の連投が問題になっている。

 以下はそれらに関連する記事の一部である。

意識朦朧の選手を大写しにする箱根駅伝に「お茶の間残酷ショー」との批判 「日本に過労死が多い理由が分かる」という声も | キャリコネニュース

・ 朝日新聞「手首を骨折しても本塁打」美談報道と前橋育英の問題の根深さ(山本一郎)

「残酷ショー」としての高校野球(松谷創一郎)

【スポーツ異聞】NHKセンバツ中継で「球数制限」論争が再燃 200球の酷使はクレージーか…

 

 これはブラック部活動の問題とも通底している。スポーツ社会学者の中澤篤史さんによれば、日本の部活動を海外の研究者に紹介すると「アメージング」といって絶賛されるという。*5

 しかし、その一方で海外メディアでは「桜宮高校バスケ部主将の体罰=暴力・自殺事件」が報じられ、高校野球の異常な投球数の多さとともに日本の部活動が生みだす「クレイジー」な部分が問題になっている。そして、日本の部活動は海外の研究者から「Bukatsudo」と呼ばれ研究対象になっている。(これは「karoshi」と似ていないか?)

 内藤が指摘する中間集団全体主義の学校共同体と会社共同体は、ともに「感動と残酷」「アメージングとクレイジー」が同居しているのだ。

 

 

無自覚な感動が残酷を覆い隠す

 日本の中間集団共同体(学校と会社)は、国内では感動を生み出すと同時に残酷と悲劇を生んでおり、海外では絶賛されつつ批判を浴びている。日本の学校共同体と会社共同体はともに「感動と残酷」、「アメージングとクレイジー」が同居している。そのような構造がいじめ自殺・体罰=暴力・ブラック部活動・ブラック企業パワハラ・セクハラ・過労自殺などを生んでいるのである。

 感動を生みだす構造は、得てして以下のような滑稽な事態を生みだす。

・いじめを問題にする教師が『涙と笑いのハッピークラス』を観て感動する。

熱中症の危険を訴えている部活指導者がアンデルセン選手のフラフラ映像を観て感動する。

朝日新聞テレビ朝日高校野球で連投している球児を感動的に報じたり、読売新聞=日本テレビ箱根駅伝でフラフラになっている選手を感動的に報じたりする。

過労自殺長時間労働を批判している労働者が『プロジェクトX』を観て感動する。

 

 先述したように、「感動すること」と「感動を生みだす構造」は別である。あるシーンを見て思わず感動してしまうことは仕方ないであろう。しかし、その感動がいったいどのような構造によって生みだされているのかを問うことは重要である。

 感動はあまりにも否定しがたい「善きこと」であるために、感動を生みだす構造を内省的に考えるきっかけを奪ってしまう。無自覚な感動は残酷を覆い隠す機能をもつ。

 感動を生みだす構造は感動だけを産出しているわけではない。まったく同じ構造とメカニズムが感動とは正反対の残酷を生みだすということにもっと自覚的にならなければ、いじめ自殺や過労自殺などの残酷さを減らすことはできないだろう。

 

 

われらは「卒業式」(=感情共同体)を否定する

 内藤の支持者になるためには、単に「涙と笑いのハッピークラス」を否定するだけにとどまらない。内藤の「いじめの理論」では、学校共同体すべてを批判の対象としている。学校共同体が組織的に行っている儀式的イベント(入学式・卒業式・運動会・文化祭・体育祭など)はことごとく批判の対象になる。

 なぜなら、そのような儀式的イベントが行われること自体がまさに学校が共同体である(=中間集団全体主義ということの紛れもない証拠であるからだ。

 ここでは「卒業式」で感動してしまう現象にしぼって説明しようと思う。「涙と笑いのハッピークラス」と同様、「卒業式を否定する」とは卒業式に参加している生徒や先生を否定の対象にするわけではない。また、卒業式で「感動して涙すること」を批判するのでもない。批判の対象は卒業式の感動を生みだす構造(感情共同体のメカニズム)だけにある。 *6

 

 

「卒業式」は日本特有の学校文化

卒業式の歴史学』を書いた有本真紀さんによれば、日本の学校が毎年3月に行っている卒業式という儀式は、「ほとんど日本に特有の学校文化」であるという。

 卒業式と対をなす入学式も同じで、日本の会社に「入社式」という儀式があるのも日本特有の会社文化である。新卒一括採用という日本独特の雇用慣行がなければ入社式などそもそもできないが、「新卒一括採用=入社式」というのは、学校共同体から会社共同体への移行の儀式になっている。

 学校共同体から会社共同体へと移行した者が研修(イニシエーション)を受けると「社会人一年生」と呼ばれるようになる。学生(生徒)から会社共同体の成員になったことを名指す「社会人」という言い方も日本独特の呼称である。

 日本の社会を見渡すと、機能集団には不要と思われる儀式が多いように思う。これは日本人が儀式好きなのではなく、日本社会に存在する中間集団がことごとく共同体中間集団全体主義だからである。

 

 

卒業式の歴史

 私たちにとって卒業式で卒業式歌を歌い、感動して涙する光景は今や「あたりまえ」であり、桜の風景とともに3月の風物詩になっている。しかし、卒業式=卒業式歌=感動・涙という結びつきは日本独特の学校文化現象であり、何ら普遍的な現象ではない。

 Jポップの「卒業ソング」「春うた」といったようなジャンルが確立されているのも日本独特である。

《…卒業式と涙の関係を問うとき、歌は特別な意味をもっている。しかし、卒業式の歌が多数存在する国は、日本をおいて他にない。》(『卒業式の歴史学』p22より)

『卒業式の歴史学』によれば、1872(明治5)年からはじまる学制期(明治18年まで)の卒業式は、単に卒業証書を授与する素朴な儀式であった。その後、1891年に等級制から学級制への移行、祝日大祭日儀式規程の公布、1892年に4月入学=3月卒業制の確立、1900年の義務教育制度の成立などによって、1905年頃には卒業式は現代のような3月の風物詩になっていた。

 

 

学校共同体=感情共同体の成立

 卒業式の歴史的変遷で注目すべきなのは、近代学校が始まった明治初期の卒業式は何ら感動的な儀式ではなく「涙の卒業式」でもなかったという事実である。

 卒業式を歴史的に見ると、卒業式は徐々に「感動的なもの」に意図的に設計され、卒業式は政策的に生徒の感情を育む「感情教育」に利用されてきた。

 卒業式が感動的な儀式として成長していく過程は、学校が単なる機能集団から「感情の共同体」へと成長していく過程と重なる。

 私たちは卒業式における「感動の涙」について何の疑問も持たない。しかし、私たちが卒業式を感動的なものと感じるのは、明治以来の為政者らが思い描いた理想的な学校共同体の歴史的成果である。

 日本の学校はある時期から明確に「学校は感情共同体であるべきだ」という方針を持ち、「卒業式は感動的な儀式であるべきだ」という規範的な教育目標のもとに、「卒業式で泣けるような学校=感情共同体」を意図的に着々と整備してきた。その歴史的達成と結実が私たちが自明視する「卒業式の感動と涙」である。

 

 

卒業式は歴史的に最も成功した儀式

『卒業式の歴史学』によれば、「卒業式の涙」は日本で最も成功した儀式である。そして、卒業式を感動的なものと感じる心性は、学校共同体だけにとどまらず、日本社会全域にまで浸透している。

 

…儀式の本質が集団の感情を喚起し行き渡らせることであるならば、卒業式は最も成功した儀式といってよいだろう。卒業式は学校行事の枠を超え、感情の慣行となって社会に分有され、さらに魅力的なパフォーマンスをめざして磨かれてきた。「みんなで泣いた」という記述が与えられるに至って、卒業式の成功はゆるぎないものとなったのである。

 

多くの慣行、とりわけ感情の慣行は起源をたどることが困難な中で、日本の近代学校に生まれた卒業式がたどった経緯は、むしろその特殊性ゆえに、儀式による「集合心性」の形成過程を明確に示す稀有な例といえるだろう。それは、近代日本における学校的な心性の誕生と浸透を読み解くための有効な補助線でもあると思われる。

 

卒業式の歴史学』p231

 

 

 

学校共同体がつくる「われわれ」感覚

 もし、日本の学校が感情共同体でなかったら、おそらく『3年B組金八先生』や『スクール☆ウォーズ』のような学園ドラマは誕生しなかったのではないかと思う。また、Jポップの卒業ソングも作られなかっただろうし、サブカルチャーにおける夥しい数の「学園モノ」もつくられなかったはずだ。

 日本のサブカルチャーはなぜ、学校を舞台に設定するものが多いのか。それは学校を描くと「われわれ」という共通前提を簡単に引き出せるからだと言われている。「われわれ」イメージを作りだせる唯一の資源が学校共同体の記憶なのである。

 卒業式の歌を分析した有本真紀さんによれば、卒業式歌の6割以上に「我」「我が」「我等」「われわれ」が含まれているという。*7

 学校共同体によって育成された「われわれ」という感覚は、学校を卒業しても学校的記憶とともに私たちの深層に生きている。それほどまでに学校共同体がつくる共同性は強烈であり、学校共同体の記憶=学校的心性が社会の全域を覆っている。

 内藤論者としては、学校共同体は様々な文化を作りだした母体であるが、だからと言って学校共同体を擁護することはできない。それは卒業式においても同様である。 *8

 

 

まとめ

 以上、内藤の「いじめの理論」を支持する者は、中間集団全体主義がつくりだす「感動を生みだす構造」を否定する。学校共同体がつくりだす「涙と笑いのハッピークラス」の感動や「卒業式」の感動は、ともに中間集団全体主義のメカニズムによってつくりだされている。中間集団全体主義はそのような感動だけではなく「いじめ自殺」「体罰=暴力」「ブラック部活動」といった残酷さを生んでいる。

 ゆえに、残酷さを減らすために感動を否定しなければならない。しかし、学校関係者(学校応援団)は感動を肯定し、感動を生みだす構造を支持し続けている。これが内藤が教育関係者からスルーされる理由である。

 

 

【脚注】

*1: 学校共同体論者は内藤朝雄のことを「学校スリム化論者」とか「学校自由化論者」と一言で片付けようとするが、内藤の主張をそのような系譜に位置づけることはできないと思う。また「脱学校論」の系譜ともちがう。そのような単純な図式に当てはめることはできないと思うのだが、内藤を敵視する「学校応援団」勢力は内藤の主張を「学校自由化論」「学校スリム化論」と切って捨て「子どものため」とか「教育のため」と表し学校共同体の保護と聖域化に余念がない。 

 

*2: 私は高校生の頃にリアルタイムで『涙と笑いのハッピークラス』を観てとても感動した記憶がある。この頃はまだ内藤論者ではなかった。一番ツボったのは、荒木くん事件(荒木くんの無駄話の多さが金森先生の逆鱗に触れ、5時限目のイカダ作りの授業に一人だけ参加できなくなった)のときに、榎本くんがしどろもどろになりながらも先生に抵抗するところである。このときの荒木くんを助けようとする榎本くんや他の生徒たちの純粋さ(友情!)にはとても感動した覚えがある。「こども 輝けいのち」シリーズには第1回~6回まであり、どれも感動的な作品である。私はすべてを録画し、全シリーズすべてを観てすべてに感動した。一番好きな作品は第5回の『裸で育て君らしく~大阪 アトム共同保育所~』である。最後に二人の園児(陸人くんと悠馬くん)が別れるシーンは感動的だった。

 

*3: これについては【小川榮太郎】日本の労働文化に対し軽薄な政策変更するな!」などを参照のこと。

 

*4: 内藤は「学校応援団」について以下のように分析する。

「学校応援団」勢力は、五〇年前の國體護持派(右翼)と同じ論理でもって、学校共同体強制収容制度から若い人たちを解放しようとする自由化の流れに頑強に抵抗する。この自由の敵は現在「進歩」派と呼ばれている。彼らは、各人の生き方あるいは夫婦・親子・友人のあり方を天皇のものにする教育勅語を不当とする。しかし彼らはその舌の根も乾かぬうちに、若い人たちのありとあらゆる「ともに-ある」と「わたしで-ある」を学校のものにする、根こそぎの人間存在収奪制度を死守しようとする(左翼反動)。

 

そして学校への帰属意識の風化のかすかな徴候にも神経を尖らせ、「市場の論理」や「消費社会の誘惑」に被害感をつのらせ、外部の「わるい」影響から「子どもたち」を遮断しようと腐心する。この囲い込みの「犯人は倦まずたゆまず被害者から尊敬、感謝、さらに愛情の表明を要求し続ける。犯人の究極の目的はどうも自発的な被害者をつくり出すことらしい」(Herman, J.L. 1997=1999:113)。犯人は被害者が「自発的」に学校を「居場所」「自分たちのなじみの場所」「安心できる場所」「自分を発見できる場所」にするように願って、強制収容制度を守ろうとするのであり、自由化と闘うのである。

 

いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体 p144

*[ Herman, J.L. 1997=1999:113 ⇒『心的外傷の回復』]

 

 

*5: p22-3『そろそろ、部活のこれからを話しませんか』より

 

*6: 内藤自身は卒業式を否定する発言はしていない。ただでさえ過激な発言の多い内藤である。卒業式を議論の俎上にのせてしまったら「学校応援団」以外の人たちも敵に回しかねない。そう思って戦略的に控えていると思われる。内藤論者のなかでも卒業式を否定的に見るのはいわば密教的な部分に属するのかもしれない。

 

*7: p186『文化としての涙: 感情経験の社会学的探究』より

 

*8: なぜ卒業式を問題視するのか。

 まず、内藤のいじめの定義は〈社会状況に構造的に埋め込まれたしかたで、かつ集合性の力を当事者が体験するようなしかたで、実効的に遂行された嗜虐的関与〉である。(いじめの社会理論 p27)

 ここで重要なのが「集合性の力」である。学校共同体で行われる儀式的イベントは、そのような「集合性」の感覚を基盤にして成り立っている。卒業式という儀式が成立し、「みんなで同じ歌を同じように歌って感動の涙を流す」という現象は、集合性の感覚が生じなければ生起しないのである。

『卒業式の歴史学』を読むと、宗教社会学(デュルケム)文化人類学レヴィ=ストロースが多数引用されている。日本特有の学校文化である卒業式を分析するには、卒業式を一つの宗教的儀式として分析しなければならないからだ。

 卒業式の歴史を研究した有本真紀さんは、デュルケムの「合成力」という概念と、卒業式歌の斉唱が卒業式全体に与える影響を以下のように述べる。

… 儀式におけるシンボルの使用、とりわけ斉唱という特殊な一斉行動によるそれは、個々人を集団へと束ねる卓越した方法である。卒業式の唱歌は、デュルケムのいう、個人意識が交霊し共通的感情へと溶解しうるための「合成力」の典型ともいうべきものである。

 

デュルケムはいう。「諸個人が連合していることを彼らに知らせ、また、彼らに自らの道徳的統一を意識させたのは、この合成力の出現である。彼らが一致し、また、一致していると感ずるのは、同じ叫びを発し、同じ言葉を発し、同じ対象について同じ所作をすることによってである」(Durkheim 1912=1975:上415)と。たとえ歌詞の意味理解と共感を抜きにしても、息を合わせ、声を揃える行為自体と、その結果としての音響に包み込まれることが、集団に連帯と快をもたらすのである。…

 

文化としての涙: 感情経験の社会学的探究』p173

*Durkheim 1912=1975:上415⇒デュルケム『宗教生活の原初形態 上』

 

 内藤の「いじめの理論」はデュルケムが指摘する「合成力の出現」をシステム論的に定式化したモデルである。いじめが過激化・陰湿化するのは、学校共同体に支えられた「学級」という迫害可能性密度の高い空間において、「感情共振的なノリの秩序」すなわち「合成力の出現」が、「ノリは神聖にしておかすべからず」という構造化された「集合性の力」を生みだすからである。

 以上のことから、学校共同体における「いじめの構造」と「卒業式が成立する構造」は、内藤の「いじめの理論」から見れば同じ条件(中間集団全体主義)に支えられていることがわかる。

 

*引用については読みやすいように改行した部分があります。