おんざまゆげ

@スラッカーの思想

どうすれば「自己尊敬」(セルフリスペクト)できるのかー「生きづらさ」についての雑記(2)

 外国の翻訳された自己啓発書などを読んでいると「自分自身を尊敬する」という言葉をよく見かけます。私はどうしてもその自己尊敬(セルフリスペクト)という感覚が分かりませんでした。他者に対して尊敬の念を抱くことはあっても、自分自身に対して尊敬の念を抱くというのはいったいどういう感覚なのか、どういうことを意味しているのか、さっぱり分からないのです。

「自分自身を尊敬する」という感覚は、どうしても「自己愛の肥大した傲慢不遜な態度」を思い浮かべてしまいます。

 

 「尊敬」の三つの意味

 英語の「respect:リスペクト」には「尊敬」の他に「尊重」という意味もあります。概ね「尊敬」の意味には以下の三つがあると思います。

 

(1)偉人を尊ぶこと

 マハトマ・ガンジーマーティン・ルーサー・キング牧師やマザー・テレサのような「すごい人」「すばらしい人」に対して抱く尊敬の念。

 

(2)目上の者を敬うこと

 儒教的文化にもとづき「年上の人」や「目上の者」(先輩・先生・親など)を敬うこと。(尊敬語の使用など)

 

(3)人間の存在じたいを尊ぶこと(=人間の尊厳を尊ぶこと)

 どんな人に対しても等しく平等に「人として」尊敬すること。すべての人を対等に人として尊重するという意味です。しかしこれは「すべての人間を積極的に尊崇する」という意味ではありません。なぜなら、そんなことは不可能だからです。ここで言われている「尊敬」とは、積極的に尊崇することではなく、単に他者の存在を「否定しない」ということです。つまり、他者のことを軽蔑したり侮辱したり見下したりバカにしたりしないこと、他者の権利を侵害したりしないことです。*1

 

「偉人」まではいかなくても「イチロー選手を尊敬する」という場合は(1)に該当します。あと、「父を尊敬する」とか「恩師を尊敬する」というように(1)と(2)が混ぜ合わさっている場合もあります。

 「尊敬」という言葉の使用法として馴染みのないのが(3)の使い方です。日本語に限っていうと、日本語の「尊敬」の使用法には(1)と(2)のような使い方しかなく、(3)のように「すべての人間に対して〈人として〉尊敬する」という使い方はほとんどなされていません。

 外国の自己啓発書に使用されている「尊敬」という言葉の意味は(3)の意味で使っているのですが、日本語の「尊敬」という言葉はそのような使い方には対応していないのです。

 今では「respect」という英語が「リスペクト」という和製英語になっていますが、この和製化された「リスペクト」という言葉の使用法を観察すると、これも(1)と(2)のような場面にしか使用されていません。

 要するに、日本語の「尊敬」という言葉には、(3)の意味がまったく反映されていないのです。

 

「認知としての尊敬」と「評価としての尊敬」

「尊敬」という言葉の意味は、大きく分けると二つに大別できると思います。

 一つは「人物評価」によって「尊敬するに値する」と判断された人に対してだけ抱く尊敬の念。もう一つは、人物評価とはまったく関係がなく、誰もが等しく平等に人として尊重されるという意味。前者を「評価としての尊敬」、後者を「認知としての尊敬」と呼ぶことができます。*2

 西欧にも「尊敬」にはそのような二つの意味がありますが、日本ではそれに加えて儒教的な意味が強く刻印されているようです。たとえば、西欧ではキリスト教の影響から「神の前ではどんな人間も平等である」というマインドが文化的に意識化される傾向にありますが、日本ではそのような平等意識ではなく、儒教的文化の影響によって逆に人間が不平等化されてしまう傾向にあります。(タテ社会化)

 キリスト教文化の影響下にある国々では、人間は「神の前ではみんな平等」であると同時に人間は「神の似姿」でもあるので、どんな人間に対しても等しく平等に「人として」尊敬しなければならないという態度が文化的につくられるわけです。

 しかし、儒教的な文化の強い日本では、そのような人物評価とは区別された「すべての人間を平等に人として尊敬する」という態度がほとんど理解されていない。教育では儒教的な尊敬(教師や親を敬え)を教えることはあっても評価とは無関係の「認知としての尊敬」についてはほとんど教えていないのではないでしょうか。

 

評価や感情とは区別される「認知としての尊敬」

 哲学者のカントは人間を「動物的」「人間的」「人格的」の三つの次元に分けた上で、欲求や感情に流されることのない「人格的」な理性に「自由」の可能性を見出しました。人間はただ漠然と生きているとどうしても欲求や感情に流されてしまいます。もし、このような傾向性(欲求や感情)に抗えないのなら人間には本当の意味の自由なんてありえないと考えたのです。*3

 カントは、「どんな極悪非道な犯罪者をも人として尊敬しなければならない」と言いました。ここで使用されている「尊敬」とは、前述した人物評価とは関係のない「認知としての尊敬」という意味です。

 つまり、人を尊敬するという態度には、人物評価や好悪感情とは区別された次元があり、人の評価の高低や好き嫌いの感情とは無関係に、どんな人をも「人として」尊敬するという態度がありうるということです。そして、このような尊敬の態度こそが人間の真の意味での自由の証(=尊厳に対する態度)であるとカントは考えました。

 しかし日本社会では、そのような「認知としての尊敬」の態度がほとんど理解されておらず、教育でもまったく埒外にあります。たとえば、学校では教師は尊敬の対象になりますが、生徒は尊敬の対象にはなっていません。もし、「認知としての尊敬」が大切であるなら、教師は生徒に対しても尊敬する態度がなければなりませんが、教師は常に生徒のことを評価する対象としてしか見ていないと思います。

「認知としての尊敬」という態度がないことと、他者からの評価に対して過剰に敏感になってしまうこととは、おそらくどこかでリンクしていると思います。つまり、私たちの自尊の在り方として、「自己評価としての自尊」と「自己尊敬としての自尊」の二つがあり、自己評価のみに固執してしまうことが生きづらさと関係していると思うのです。

 

「自己評価としての自尊」と「自己尊敬としての自尊」

「自尊」とは、「自分は自分でいいんだ」という自己価値感覚や自己肯定感のことを言います。自尊の感覚には、今まで述べてきた「尊敬」の意味に対応するかたちで、以下の二つがあります。

・「評価としての尊敬」=「自己評価としての自尊」

・「認知としての尊敬」=「自己尊敬としての自尊」

 

 もし、他者に対して「認知としての尊敬」の態度(あらゆる他者を等しく平等に人として尊重する態度)が生まれないのなら、自己に対しても同じように、「認知としての尊敬」の態度(自分自身を人として尊敬する態度)は生まれません。よって、この場合には「自己尊敬としての自尊」という感覚も生まれません。こうなると、自己の自尊を保つためには、「自己評価としての自尊」という在り方のみに偏ることになります。

 評価というのは、ありとあらゆる変数に依存する移ろいやすい状態を「鑑定」することです。たとえば、「見た目」の評価は「若さ」に依存するので、老化によって失われますし、「能力」や「肩書き」や「地位」もいずれは時とともに失われます。評価の対象となる人間の属性(交換価値)は、本来の自己価値(尊厳)とは本当のところは関係ありません。

 従って、社会や他者からの評価に依存するだけの自尊の在り方(自己評価としての自尊)のみに偏った承認形式だけでは、どうしても自己の自尊を保つことができないのです。

 そこで重要になってくるのが「認知としての尊敬」=「自己尊敬としての自尊」という感覚です。他者からの評価のみを過剰に気にしてしまうのは、自らの自尊の在り方として「評価としての自尊」だけに偏っているからです。もし、自尊を構成している支柱のなかに評価とは関係のない「自己尊敬としての自尊」があるのなら、他者からの評価に過剰に怯える必要はないはずです。

 では、そのような「自己尊敬としての自尊」という感覚を生みだすにはどうすればよいのか。これは、「あらゆる人間に対して誰をも等しく平等に〈人として〉尊重する態度」から生まれてくると考えられます。つまり、他者に対する「認知としての尊敬」から相互主観的に自己構成されてくるのが「自己尊敬としての自尊」という感覚です。

 自己の自尊の在り方は相互主観的です。これはつまり、他人を評価する態度からは自己を評価する態度が生まれ、他人を評価せずに人として尊敬する態度からは自己を評価せずに人として自己尊敬する態度が生まれるということです。

 

死刑制度と「生きづらさ」

「認知としての尊敬」の究極的な意味は、「世界で一番評価が低く、世界で一番嫌われている人物であっても人として尊敬する」ということ、あるいは、カントが言ったように「極悪非道な犯罪者であっても人として尊敬する」ということです。これは、人間に対する人物評価や好悪感情から「人間を人として尊敬する態度」(尊厳に対する態度)を区別するところから生まれます。(評価や感情という傾向性に抗うところから生まれる態度=道徳法則への尊敬という態度)

 このような「認知としての尊敬」の態度を徹底化していくと欧州のように死刑制度を廃止する方向に必然的に向かうことになります。人権意識の基底部分にあるのは、どんな人間に対しても等しく平等に人として尊敬するという態度です。(「人間の尊厳」とはどんな人間も「人として」尊敬する態度のことです。)

 日本では「死刑囚を人として尊敬しなければならない」と言ってもまったく理解されないか反発されて終わってしまうと思うのですが、本来、人権や人間の尊厳とは、人間を人として尊重する態度のことであり、もしこのようなマインドがあるのなら死刑制度には反対せざるをえないわけです。

 しかし、日本社会では死刑存置が8割以上の比率で存在します。ここから分かることは、日本社会では他者に対する「認知としての尊敬」の態度がほとんどないということです。そして、他者に対する「認知としの尊敬」の態度がないということは、それに対応する「自己尊敬としての自尊」の感覚もほとんどないということです。

 従って日本社会では、自己の自尊を保つためには「自己評価」(他者からの評価)に過剰にしがみつかざるをえなくなります。

 

「自己尊敬」は他者に対する尊重(認知として尊敬)から生まれる

 まとめると次のようになります。

「尊敬」には大きく分けると「評価としての尊敬」と「認知としての尊敬」の二つがある。日本社会では、評価や感情とは無関係の他者に対する「認知としての尊敬」という態度がほとんどない。これにより、自尊の在り方として、他者からの評価に依存する「自己評価としての自尊」のみが偏重され、「他者からの評価」や「他人にどう思われるか」といったことを過剰に気にしなければならない自己意識が形成される。このような自尊の在り方から生まれる自己意識が人びとの生きづらさを生んでいる。

「他者からどう評価されてもいい」「他人にどう思われてもいい」「自分は自分なんだ」という自己肯定感をもつためには、評価や感情とは無関係の「自己尊敬としての自尊」という感覚が必要です。このような「自己尊敬としての自尊」という感覚を自らの自尊として生きるためには、「どんな人間に対しても等しく平等に人として尊敬する」という「認知としての尊敬」の態度が必要になります。

 つまり、自分を尊敬するためには、まずはともあれ他人を等しく尊敬しなければならないということです。他人を低く評価してバカにする態度は、自分を低く評価して卑下する態度を生みだします。他人を「嫌いだから」という理由で軽蔑する態度は、自分に対して自己嫌悪する態度を生みだします。

「生きづらさ」から自由になるためには、自分自身に対するマインド(自己意識)を変えることではなく、他人に対する尊重の態度をどう変えるかということに関係していると思います。他者に対する尊重(認知としての尊敬)の態度は、日々の生活や人間関係やものの見方や他者に対する姿勢によって作られていきます。

 従って、「どうして自分の自己評価は低いのか」という悩みや自己肯定感の低さは、自分の自己評価を上げようとする方向ではなく、それとは真逆のベクトルである他者に対する尊重という態度によってしか改めることができないと思われます。

 他者に対する尊重(認知としての尊敬)という態度が自己のなかに築かれなければ「自己尊敬」という感覚は生まれず、「自己尊敬としての自尊」という感覚が生まれなければ他者からの評価に依存した自尊(自己評価としての自尊)にのみ頼るしかありません。これが生きづらさを生んでいます。ゆえに「他人からどう思われようが自分は自分だ」という感覚を生みだすためには、評価や感情とは次元の違う他者に対する平等な尊重という態度(認知としての尊敬)がまずは必要なのだと思います。

 

 

【脚注】

*1:すべての人を「人として」尊敬すること…に関して。

 これは積極的義務(尊崇すること)ではなく、消極的義務(否定しないこと)です。すべての人を等しく尊崇することは不可能です。しかし、すべての人を等しく否定しないことは倫理として要求できます。他者に対する尊重義務は「〜しない」という意味で消極的義務であり、必ず守らなければならないという意味では完全義務です。

 

*2:「認知としての尊敬」と「評価としての尊敬」について。

 スティーブン・ダーウォルの『二人称的観点の倫理学』では、「認知としての尊敬」は「recognition respect」、「評価としての尊敬」は「appraisal respect」の訳として使用されています。「recognition」は「認識」や「承認」とも訳すことができます。(p421)

 

*3:「理性」や「人格」について。

 カントによれば、人間に尊厳があるのは傾向性(欲求や感情)に抗うことのできる人格的な理性や自律能力が人間には備わっているからだと考えました。しかし、私はこの考え方には賛成できません。これだと知的障害者精神障害者、幼い子どもや認知症患者、脳死状態の患者に対しては人間の尊厳を認めることができなくなるからです。私は、人間の尊厳は無条件的に人間の存在じたいに備わっている内在的価値であると考えます。

 

【参考文献】

二人称的観点の倫理学: 道徳・尊敬・責任 (叢書・ウニベルシタス)

二人称的観点の倫理学: 道徳・尊敬・責任 (叢書・ウニベルシタス)