おんざまゆげ

@スラッカーの思想

他者を「尊重」すること —— 「尊重」という態度は歴史的に“発明”されたもの

・「尊重」とは「否定しない」こと

 私の理解では、「尊重」(=respect)というのは、「個人の尊厳を尊重する」ということ。どんなことがあっても他者をバカにしたり貶んだり蔑視したりしない態度のことです。ひとことで言うなら「個人の存在を否定しない」こと。その根底にはこの世に生まれてきたことを肯定し、生存を肯定することが含まれます。*1

*1 「尊厳」とは「個の存在の尊さ」のことです。「尊さ」はかけがえのなさから生まれると思っています。「個の存在=他者」は後にも先にもこの世にひとつしかない。この唯一無二の固有性に「尊さ=尊厳」がある。ここから「存在を否定してはいけない」という感覚(倫理)が生まれるのだと思います。

・三つの原理〜「尊重」「感情」「評価」〜

 尊重原理は「好き/嫌い」(=感情原理)や「できる/できない」(=評価原理)よりも絶対的に優先されます。「嫌い」という感情に引っ張られて嫌いな人を蔑視してしまうこと/評価の低い人を「できないこと」を理由にバカにしてしまうこと。これを防ぐのが尊重という態度だと思います。

 感情原理や評価原理は人以外の動物でもやっています。それらはゲノム・レベル(生物学的なレベル)で規定されている機能なので、発動自体を制御することは不可能です。「嫌い」という感情の発動を防ぐことはできませんし、「評価」という判断を一切しないことはできない。

 「嫌い」という負の感情は、どこからともなく降ってくるもの。気づいたら湧き上がっているものです。また、何かを認識した瞬間に私たちは常にすでに「評価」もしてしまっている。認識から「評価」をあとから打ち消すことはできても、はじめから「評価なき認識」をもつことはできないと思います。

・「尊重」は不自然な態度である

 私たちは常に「感情」や「評価」に流されやすい生き物です。日常生活では常に「感情」や「評価」が優位になっています。このままだと暴力や差別、あるいは戦争につながってしまう。そうならないストッパーが「尊重」という態度です。

 「尊重」という態度は自然状態では決して生まれない不自然な態度です。「感情」や「評価」は高いところから低いところに水が流れるように自然に自動化されていますが、「尊重」は低いところから高いところへと登るイメージです(「感情」や「評価」は下り坂、「尊重」は上り坂です)。「尊重」という態度は「感情」や「評価」の自然な流れに抵抗し、抗うことによって形成される態度だと思います。

・「尊重」という態度は歴史的に発明されたもの

 「尊重」という態度は不自然です。不自然だから人間的であり倫理的な態度なのです。この不自然な倫理的態度は、歴史的に「発明」されました。ルーツはキリスト教です。

 眼前の他者がめちゃくちゃ嫌いで、すこぶる評価の低い人間だったとします。しかし、この他者を「神からのまなざし」から見たならば「対等な同じ人間」になる。神はすべての人間を平等に愛するのだから、個人的な好き嫌いとか評価の高低とは関係ないのです。これを徹底化したのが隣人愛。人権思想のルーツもキリスト教です。

 それでも人類は、戦争や大虐殺、ありとあらゆる暴力をさんざんやってしまった...。そして、誓ったのです。「もう絶対に同じ過ちを犯さない」と。この贖罪意識と反省から生まれたのが「個人の尊厳を尊重する」という倫理的態度です。「尊重」という不自然な態度はキリスト教をルーツにしながらも、人類の負の歴史によって人為的に発明されたストッパー(=暴力抑止装置)なのです。

・まとめ

「尊重」というのは、仲良くすることでもないし、みんな平等に褒めることでもない。「尊重」のないところで人と仲良くすると、いじめやハラスメントが生まれます。「尊重」のないところで他者を評価すると、評価の低い人は存在じたいが否定されて優生思想になります。誰かを好きになったり嫌いになったりするためには、まずはそこに「尊重」がないとまずい。誰かを能力主義的に評価するのなら、その前提条件として「尊重」がなければならないのです。

 

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