おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「感じない官僚的人間」になりたくない

 ぼくは「知ることよりも感じることのほうが大切だ」という命題(レイチェル・カーソンの言葉)に賛同している。これは真理だと思っている。知識より感情。何かを知ることは重要なことだけど、そこに何らかの思いや感情がなければ知識はたんなる上辺だけの知識でしかない。

 「関心」は知識からは生まれない。知識は動機づけを与えない。だが、感情は直接的な動機づけと結びつく。これがもっとも重要なことだ。これは受験勉強で誰もが経験済みだろう。

 もっともわかりやすいモデルは、受験エリートから高級官僚になるケース。官僚は知識だけは豊富に持っていて、社会問題ついての知識は頭にたくさんつまっている。たとえば「LGBT」が社会問題として流通すれば官僚的人間は秀才でまじめだから「LGBT本」をたくさん読んで知識を脳みそにインストールする。これで「LGBTとは?」という質問に対してスラスラと解答することができるようになる。そして、官僚的人間は物知り博士の「社会問題マニア」になる。しかし、LGBTというセクシュアル・マイノリティの「生きられた現実」(=実人生への関心)についてはほとんど興味を示さない。そのようなセクマイの人たちがどのように苦しんでいるのか。苦しみに対する共鳴(=共感性)がない。

 それだから官僚は官僚として生きることができる。官僚的人間は社会問題の知識は持っているけど、社会問題から生じる苦しみに対しては何も感じない人間である。そして、官僚的人間は自分と家族の幸福のみを第一として生きるようになる。アイヒマンの「凡庸な悪」はそのようにして日々生産されているのだ。

 

「感じない官僚的人間」より「無知な感じる人間」のほうがよいと私は思っている。そっちのほうが絶対によい。いくら知識を持っていても苦しみに共鳴できなければ何の意味もない。意味がないどころか有害でさえある。知識だけは持っているディレッタント(頭でっかちの知識趣味)な官僚的人間は、知識をこねくり回して「他者の苦しみ」を無化しようとする。苦しみに向き合うことなく苦しみをスルーして知識で打ち消そうとする。

「無知な感じる人間」は、知識はないけどそのような官僚的人間の手つきや振るまいの不誠実さをとことん見通している。知識で反論はできないが理不尽さを感じている。ゆえに「無知な感じる人間」は誠実さにおいて官僚的人間を圧倒的に凌駕している。「感じない官僚的人間」はそのことにまったく気づかない。

 

「感じない官僚的人間」はそこかしこに生息し、ばっこしている。知識をさも誇らしげにひけらかしてマウンティングしている。「そんなことも知らないのか?」「あなたは間違っている!」「バカじゃないの?」「頭悪いね」...。こういう手つきや振るまい方には「苦しみ」とか「共感性」とか「感情」とか「共鳴」なんてものは一切ない。

 

 ぼくはそういう「感じない官僚的人間」になりたくないし、アイヒマン的「凡庸な悪」を忘却したくない。自分だけの幸福のみを追求する卑怯な人間になりたくない。自分の劣等感を埋め合わせるために社会問題を語る偽善者になりたくない。承認欲求を満たすために知識をひけらかして「弱者の味方」になったような錯覚に陥りたくない。ほんとうは自分の生存戦略(=ポジショントーク)にすぎないのに、イデオロギッシュに「差別はよくない」とか「人権を尊重せよ」とか「多様性を認めよ」とか言っている欺瞞的リベラル左翼に与したくない。

 すべては苦しんでいる実際のリアルな人間からスタートすべきなのだ。それに比べたら知識なんて100年後で十分だ。苦しんでいるひとがいる。この苦しんでいる他者に、ぼくはどう反応するのか。ぼくはどう感じるのか。どう感じたのか。他者の苦しみを感じること(=苦しみの共鳴)は、ぼくの感じる苦しみから想像するしかすべがない。ならば、苦しみを手放してはならないのだ。