世間的に大きな事件があって犯人が逮捕されたとき、「A容疑者」という報道がなされ、テレビなどのメディアではそのA容疑者についてああだこうだと言い立てるようになる。
〈私が語れること〉
私はある時から、何かについて語れることがあるとしたら、それは「自分のこと」と「一般的なこと」だけだと思うようになった。
殺人や死体損壊は一般的に悪いことだが、この一般的見解から「A容疑者は殺人や死体損壊をしたらしいから悪い人物だろう」とは私には言えない。A容疑者の内情を私は知らないし、A容疑者の人生をすべて調べあげたわけでもないからだ。
だから、あえて言うなら、次のようなひねくれた言い方になる。
「もし、A容疑者が殺人や死体損壊をしていたら、それは一般的に悪いことだと思うが、私はA容疑者を知らないからA容疑者個人が悪いかどうかは分からない」。
私はすべてにおいて、以上のような迂遠した経路でしか他者について言及できない。
たとえば、恋人と別れるかどうかについて相談されたとき、私は次のようにしか言えない。
・私だったら、別れる(or 別れない)と思う。
・一般的なケースで言うなら、別れる(or 別れない)と思う。
そのような言い方を飛び越えてストレートに「別れた方がいいよ」とは言えない。
私個人の感じ方や考え方、人生経験などから一般的な見解に辿り着けるとしても、その一般的な見解から他者個人の人生をああだこうだと言うことはできないのではないか。
たとえば、
・すべての人間は死ぬ 。
・ソクラテスは人間である。
・よって、ソクラテスは死ぬ。
もし、以上のような三段論法で他者の人生をああだこうだと言えてしまうのなら、それはあまりにも乱暴すぎるのではないか。「ソクラテス個人の死」は、「人間の死」から演繹できてしまうほど軽いものだろうか。個人の人生には、三段論法などでは導けない計り知れない重みがあるはずだ。
Aさんの人生はAさんにしか分からない。Aさんの痛みはAさんにしか分からない。Aさんの罪はAさんにしか分からない……。
だとしたら、私は、私個人のことと一般的なことしか言えず、Aさん個人の人生を評価することなどできないし、分かりきったことを言ったりすることはできないはずである。