デイヴィッド・ベネターの誕生否定と反出生主義
「非存在者」(未だ存在していない者)をこの世に存在させることは道徳的に許されない悪である。したがってすべての人間は子どもを生むべきではない。反出生主義者のデイヴィッド・ベネターは概ねそのようなことを言っている。
力点は「子どもを生むべきではない」という一点にある。その根拠になっているのは〈この世に存在してしまうことは常に深刻な害悪である〉という「誕生害悪」論である。すでに存在している私たちに適用すると〈私たちは生まれてこない方がよかった〉という「誕生否定」論となる。
もうこれ以上、私たちのような不幸な存在者を生みだしてはならない。だから子どもを生むべきではないのだ。これがベネターの反出生主義である。
私たちの誰しもが、生まれさせられてしまったことで害悪を被っています。その害悪は無視できるものではなく、たとえどんなに質の高い人生であっても、人生は非常に悪いものなのです。大抵の人がそう認識しているよりも遥かに悪いのです。とはいえ、私たち自身の誕生を防ぐにはもう遅すぎます。しかし、将来生まれてくる可能性のある人々の誕生を防ぐことはできます。というわけで、新しく人々を生み出すことは道徳的に問題があるのです。(3) *1
客観主義・功利的計算・悲観的価値観
ベネターが反出生主義を主張するときの前提(拠って立つ立場)は以下の三つである。
(1) 客観主義
(2) 快楽と苦痛の計算(功利計算)
(3) 悲観主義(苦痛と快楽の非対称性)
(1)客観主義は、世界全体を三人称の視点(神の視点)で捉え、私たちが存在する〈世界〉と私たちが存在する前の〈非存在の世界〉を比較する立場である。
(2)功利の計算は、「良いこと=快楽」「悪いこと=苦痛」と捉え、快楽と苦痛を比較する道徳的立場である。
(3) 悲観主義は、快楽(良いこと)と苦痛(悪いこと)を同等の価値として捉えるのではなく、苦痛は快楽よりも常に重いと考える(苦痛と快楽の非対称性)。世界には良いことも悪いことも存在し、良いことに目を向ければ「世界は良い」(楽観主義)になり、悪いことに目を向ければ「世界は悪い」(悲観主義)になる。ベネターは後者の価値を重視する立場を採用する。
(1)から(3)にはそれぞれ異なる立場が存在する。客観主義に対しては主観主義の立場、功利的計算に対しては義務論的立場、悲観主義に対しては楽観主義の立場である。
ベネターと同じ視座に立つかどうかは個々人の価値観の問題であり「私はその視座に立たない」と言うことは常に可能である。たとえば、コンビニのスイーツを食べて「生まれてきてよかった」と思う人は実際に存在するが、このような人がベネターと同じ視座に立つことはほとんど不可能だと思われる。
どの視座に立つかという問題は論理の問題ではなく個々人の価値観の問題である。個人的な感受性や価値観をもれなく論理的一般性に還元することはできないからだ。なぜ楽観主義ではなく悲観主義なのか、なぜ快楽よりも苦痛を重視するのか、なぜ快楽や苦痛の功利的計算を人生の幸不幸に結びつけるのか。これは論理的な問題ではなく個々人の実存的な人生的価値観に由来する。
ベネターは自身の反出生主義の主張を説得的に論ずるためには(1)~(3)の立場を採用するのが有効であると考えたのだろう。(あるいは(1)~(3)の立場からは反出生主義が帰結する)。
なぜ「この船」ではなく「あの船」に乗るのか。ベネターの議論からはメタ的にその選択を導出するはできない。べネターによると、もし「この船」に乗るなら反出生主義に辿り着くはずだと主張する。しかし、もちろん私たちはベネターと同じ船に乗る必要はまったくない。(当然これはすべての学問的理論にも当てはまる。)
ベネターの反出生主義に異論を呈する仕方には二種類ある。一つは、ベネターの拠って立つ立場(1)〜(3)に対して「私はあなたの立場には乗らない(乗れない)」というタイプの異論。入口の部分で批判するパターンである。もう一つは、ベネターと同じように(1)〜(3)を採用しつつ「それだと何かがおかしい」というタイプの異論である。ある程度、ベネターの議論に付きあいながら変なところを批判するパターンだ。以下の文章では前者と後者の中間のコースをとることになるだろう。
誕生否定と反出生主義
ベネターが主張する「子どもを生むべきではない」という反出生主義は以下のような論理展開(1から3)となっている。
(1)「誕生害悪」
存在してしまうことは常に深刻な害悪である。
(2)「誕生否定」
すでに存在している者は例外なく生まれてこない方がよかった。
(3)「反出生主義」
すべての人間は非存在者を存在させてはならない(子どもを生むべきではない)。
次に、(2)の「生まれてこない方がよかった」という誕生否定の仕方には以下の三つが考えられる。
(A)「私」は生まれてこない方がよかった(主観主義)
(B) 「障害者」は生まれてこない方がよかった(属性主義)
(C) 「すべての存在者(人間)」は生まれてこない方がよかった(客観主義)
(A)のように「私なんて生まれてこない方がよかった」という場合、「私」以外の人は否定の対象になっていない。主語はあくまでも一人称としての「私」に限定されている(単称命題)。あるいは〈私〉は生まれてこない方がよかった(特称命題)。
(B)の優生思想的な立場もその対象範囲は「障害者」という属性に限定されている。
しかし、(C)は「すべての存在者(人間)」を対象にしており、この世界に生まれてきたすべての人間を例外なく含んでいる(全称命題)。ベネターの議論は(C)を前提として展開されており、(A)や(B)は対象外になっている。
「誕生害悪」論
反出生主義の根拠になっているのは〈存在してしまうことは常に深刻な害悪である〉という誕生害悪テーゼである。この命題は以下の二つに分割することができる。
(1) 存在してしまうことは常に害悪である。
(2) 存在してしまうことは深刻な害悪である。
(1)の「常に害悪」というのは、例外なくどんな場合も絶対的に害悪であるという意味である。(1)が言いたいのは、この世界に存在してしまうことはたとえ利益があったとしても害悪になる(利益と害悪の相殺は不可能)ということである。
(2)の「深刻な害悪」というのは「量的に大きな害悪」(相対的害悪)を意味している。この世界に存在してしまうことは、事実として利益よりも害悪の方が大きい。だから存在することは害悪になる。
以上の(1)の命題と(2)の命題を合わせると「存在してしまうことは常に(あるいは深刻な)害悪である」という誕生害悪テーゼになる。べネターの本では第二章で(1)が論じられ、第三章で(2)が論じられている)。
(1)と(2)はそれぞれ独立に成立する命題になっており、(1)から(2)が導出されたり(2)から(1)が導出されることはない。したがって(1)「存在してしまうことは常に害悪」とまでは言えないとしても、(2)「存在してしまうことは深刻な害悪」だと言えるなら、反出生主義は導けるとベネターは主張している。
誕生の絶対的害悪——「存在してしまうことは常に害悪である」
【苦痛と快楽は非対称的である】
ベネターの著書のなかで最もユニークな点は第二章で論証されている以下の命題である。
(1) 存在してしまうことは常に害悪である。
なぜ存在してしまうことは「常に害悪」になるのか。この世界に生まれてきたら良いことも悪いこともあるはずなのにどうして「常に悪い」ということになるのか。
ベネターは「良いこと」を代表している「快楽」と「悪いこと」を代表している「苦痛」は非対称的であると考える。快楽と苦痛は価値的に異なったあり方をしており、快楽よりも苦痛のウェート(価値)の方が必ず重くなると評価する。
例えていうなら、苦痛と快楽が戦った場合、引き分けになるのでも快楽が勝つのでもなく「常に苦痛が勝つ」と考えるのである。これは論理的にそうなる(常に苦痛が勝つ)ということではなく、現実世界の実感を反映させるなら快楽よりも苦痛のウェートを重くせざるをえない、というベネター自身の価値判断から導かれたものである。
整理すると以下のようになる。
・苦痛と快楽は対称的ではない(苦痛と快楽の非対称性)
・苦痛と快楽は価値的に異なったあり方をしている
・苦痛と快楽は相殺されない(「引き分け」がない)
・苦痛は快楽より重い(苦痛が常に勝つ)
【良いことと悪いことの非対称性】
存在してしまうことが常に害悪であるという主張は次のように要約されるだろう。
...... 良いことも悪いことも存在している人にのみ生じる。しかしながら、良いことと悪いことの間には極めて重大な非対称性がある。例えば「痛み」といった悪いことがないことは良いことになる。たとえその良いことを享受する人が誰もいなくても、である。
だが、一方の「快楽」といった良いことがないことは、悪いことになる。ただしそれは、そうした良いことを奪われた人がいる場合にかぎる。(22-23)
【潜在的苦痛は悪い】
次に、苦痛と快楽の非対称性テーゼから苦痛に関する以下のような命題が導かれる。
・苦痛の可能性(潜在的苦痛)があるのは悪い
・苦痛の可能性(潜在的苦痛)がないのは良い
「苦痛がある」というのは悪い。だが、「苦痛の可能性がある」ということだけで悪いことになるのだろうか。「苦痛がある」ということと「苦痛の可能がある」ということは異なる様相である。普通に考えるなら、苦痛が悪いことになるのは実際に苦痛が顕在化(現実化)した場合だけだろう。
たとえば、自動車事故が悪いことになるのは実際に事故が起きた場合だけであり、「自動車事故の可能性がある」ということだけで(実際には事故が起きていないのに)悪いということにはならない。宝くじが当たることは良いことであるが、「宝くじが当たる可能性がある」ということだけで(実際には当たっていないのに)良いことになるとは言えない。
しかし、苦痛に関しては「苦痛の可能性がある」ということだけで悪いことになる。実際には顕在化していない「潜在的苦痛」があるだけで苦痛は悪いと価値的に判断されるのだ。ここから反転して「苦痛の可能性がない」ことは「良い」ことになる。
そもそも「苦痛の可能性」じたいが存在しないなら苦痛がないことの良し悪しの判断じたいがそもそも成立しないはずである。自動車が存在しない(事故の可能性がない)世界では自動車事故は起こりえないのだから、「自動車事故が起きないのは良い」などとは言えない(なぜなら「良い悪い」の判断が成立しないから)。
宝くじがはずれることは(当たることより)悪いことだが、これは「はずれる可能性」があった場合にのみ言えることである。「はずれる可能性」じたいが存在しないなら「はずれることは悪い」とは言えない(なぜなら「良い悪い」の判断が成立しないから)。
しかし、ベネターが「苦痛は悪い」という場合、これは実際に顕在化した苦痛だけを問題にしているのではなく、顕在化していない「あり得る苦痛」(潜在的苦痛)までを視野に入れて判断している。苦痛というのは実際に苦痛を感じたときにだけ悪いことになるのではなく、たとえ実際に苦痛を感じていなくても「苦痛の可能性がある」ということだけで悪いことになる。
なぜこうなるのか。ベネターの想定には常に客観主義(神の視点)から世界を俯瞰しながら「非存在者が存在者になったら...」というシミュレーションが作動しているからだと思う。つまり〈非存在の世界〉に所属する「非存在者」が〈存在の世界〉へと移行して「存在者」になってしまったら…...という反実仮想を想定し、現時点を〈非存在の世界〉に固定しながら未来に待っている〈存在の世界〉を想像する。そのような想定では苦痛はその可能性があるだけで悪いことになってしまうのである。
【顕在的快楽は良い】
では、快楽の方はどのように判断するのか。快楽に関する命題は以下のようになる。
・快楽の可能性(潜在的快楽)がある場合、快楽が生じることは良い
・快楽の可能性(潜在的快楽)がない場合、快楽が(潜在的に)存在しないのは悪いとは言えない
苦痛に関しては「苦痛の可能性がある」ということだけで悪いことになる。だが、快楽に関しては「快楽の可能性がある」ということだけで良いことにはならない。快楽が良いことになるのは実際に快楽を感じた場合だけにかぎられる。
苦痛に関しては顕在化していない「あり得る苦痛」(潜在的苦痛)は悪いことになるが、快楽に関しては顕在化していない「あり得る快楽」(潜在的快楽)は良いことにならない。快楽が良いことになるのは「あり得る快楽」が実際に現実化して「顕在的快楽」が生じた場合だけである。ここから反転して「顕在的快楽が生じないことは悪い」ということになる。
「あり得る快楽」が顕在的快楽へと変化することは良いことであり、「あり得る快楽」が顕在的快楽へと変化しないことは(変化するよりも)悪いということである。しかし、「あり得る快楽」というものがそもそも存在しない(快楽の可能性が存在しない)場合、「あり得る快楽」から顕在的快楽への変化じたいが起こりえない。よって、快楽の場合は「快楽の可能性」じたいが存在しないから快楽の良し悪しを判断することはできず「悪いとは言えない」という結論になる。
快楽については以下のようにまとめることができる。
(1) 顕在的快楽があるのは良い
(2) 顕在的快楽がないことは(1)より悪い
(3) 潜在的快楽があるのは良いとは言えない
(4) 潜在的快楽がないことは悪いとは言えない
【存在してしまうことは常に害悪である】
今までの議論をまとめると以下のようになる。
まず、苦痛と快楽の非対称性テーゼがある。
・苦痛と快楽は価値的に異なっている(苦痛は快楽より重い)
・苦痛と快楽が戦ったら常に苦痛が勝つ(快楽が勝つことはない)
・苦痛を快楽によって相殺することはできない(引き分けがない)
これによって苦痛と快楽を平等に取り扱うのではなく、苦痛を快楽よりも常に重く取り扱う。苦痛は快楽より相対的に重いのではなく、苦痛は快楽より絶対的に重いのである。
この世界に生まれてきた存在者は苦痛の可能性と快楽の可能性を同等に持つ。この場合、苦痛と快楽は対称的である。しかし、苦痛と快楽の非対称性テーゼによって苦痛と快楽は価値的に異なった評価を受ける。苦痛に関してはその可能性があるだけで悪いことになるが、快楽に関してはその可能性があるだけでは良いこと(評価の対象)にならない。
したがって、もし、存在者がこの世界に生まれてこなければ苦痛の可能性も快楽の可能性もどちらも存在しないから、非存在者は苦痛に関してはその可能性がないことは良いことになり、快楽に関してはその可能性がないことは悪いこと(評価の対象)にならないのである。
ポイントになっているのは苦痛と快楽の可能性(潜在性)を評価の対象にするかどうかである。苦痛の方は可能性(潜在的苦痛)を「悪い」と評価し、快楽の方は可能性(潜在的快楽)を評価の対象外にする。これを表にまとめると以下のようになる。
まず、(1)の「潜在的苦痛があることは悪い」と(2)の「潜在的快楽があることは良いとは言えない」について。
この世界にXが存在する場合、Xは苦痛を感じる可能性と快楽を感じる可能性が同等に存在する。苦痛に関しては、Xはたとえ苦痛を感じていなくても潜在的苦痛があるだけで悪いことになる。一方、快楽に関しては、Xは潜在的快楽があるだけでは良いことにならない。快楽が存在することが良いと言えるためには潜在的快楽が顕在化した場合だけである。
次に(3)の「潜在的苦痛がないことは良い」と(4)の「潜在的快楽がないことは悪いとは言えない」について。
この世界にXが存在しない場合、Xは苦痛を感じる可能性も快楽を感じる可能性も同等に存在しない。苦痛に関しては「潜在的苦痛がないこと」(3) は「潜在的苦痛があること」(1)よりも良い。一方、快楽に関しては「潜在的快楽がないこと」(4)は悪いことにはならない。快楽の場合、評価の対象になるのは顕在的快楽だけであり、潜在的快楽は評価の対象外になるからだ。
以上により、総合的に判断すれば「Xは存在するよりも存在しない方がよい」ということになる。
なぜ〈存在してしまうことは常に害悪である〉と言えるのか。それは潜在的苦痛を評価の対象にするところからきている。苦痛については実際に苦痛を感じること(顕在的苦痛)だけが悪いのではなく、実際に苦痛を感じていなくても「苦痛があり得る」というただそれだけで悪いことになる。このように潜在的苦痛を評価の対象にすると「苦痛の可能性」が存在することは「例外なくどんな場合も絶対に害悪である」ということを担保することができる。
ベネターは誕生の絶対的害悪を次のように説明する。
… 良いことで満ちていても悪いことがほとんど皆無に等しい人生でも —— つまり、ちょっとしたピンで刺されたような痛みが混在しているだけの全くこの上なく幸せな人生でも —— 、人生がそもそも完全にないことより悪いということすら含意している。[……]
たった一つの些細な鋭い痛みだけがある素晴らしく幸運な人生を享受している人物に関して、彼の人生がまた実際に喜ばしいものだろうとも、決して存在しないことを超える利点は彼の人生にはないということは真実である。(58)
ベネターは「苦痛の可能性」については直接には言明していない。だが、《…悪いことがほとんど皆無に等しい人生でも…人生がそもそも完全にないことより悪いということすら含意している》のだから、ベネターが主張する「快楽と苦痛の非対称性」の含意を詰めていくと、その非対称性のポイントは「苦痛の可能性」を評価の対象に含めながら「快楽の可能性」は評価の対象にしないという点にある。したがって、可能性の次元をとらなければ「快楽と苦痛の非対称性」は導出できない。
以上のことをふまえると、たとえビル・ゲイツのような大富豪であっても、画びょうを踏んでチクッとした痛みを感じる可能性があるだけで(実際には画びょうを踏まずに痛みを感じることがなかったとしても)ビル・ゲイツは生まれてこない方がよかったわけである。ビル・ゲイツ本人が「私の人生は幸福であり本当に生まれてきてよかった」と思っていたとしてもだ。
誕生の絶対的害悪論にもとづくならば、この世界に「些細な鋭い痛み」の「可能性がある」だけでビル・ゲイツは生まれてこない方がよかった! これがベネターの言う絶対的誕生害悪 ——「存在してしまうことは常に害悪である」の意味である。
誕生の相対的害悪━━「存在してしまうことは深刻な害悪である」
【この世は地獄】
「存在してしまうことは常に害悪である」という誕生の絶対的害悪論は、私たちの直感に反する極端な議論であった。だが、ベネターは第三章において絶対的害悪論とは質的に異なる相対的害悪論を展開する。相対的害悪論を一言でいえば以下のようになる。
・「存在してしまうことは深刻な害悪である」
絶対的害悪論では害悪の量や大きさは問題にされていなかった。そこではたんに害悪(苦痛)の可能性が存在するだけで悪いことになっていたからである。一方、相対的害悪論では害悪の大きさを問題にする。この世に存在する害悪の総量と利益の総量を比較した場合、事実として害悪の総量が圧倒的に大きい。だから「存在してしまうことは害悪である」と結論づける。
以下の引用部分の前半が絶対的害悪、後半が相対的害悪について述べている。
人生のなかに最小限の悪いことさえ含まれていれば、存在してしまうことは害悪なのである[……]。この結論が受け入れられようが受け入れられまいが、多大な悪いことを含んだ人生は害悪であるということは認められるだろう。(71)
ベネターは第三章の「苦痛の世界」という節において、いかにこの世界が残酷な場所なのかを災害死・餓死・戦死などの絶望的統計を駆使して説得的に論じている。これらは私たちの現実的実感を反映している。
誕生の相対的害悪論というのは、要するに「この世は地獄である」という現実的認識から導かれるものになっている。絶対的害悪論が「哲学的害悪論」なら相対的害悪論は「統計的害悪論」である。
もし「この世は地獄である」ということが分かれば、「この世に存在してしまうことは深刻な害悪である」ということになる。ここから「したがって、すべての人間は子どもを生むべきではない」という反出生主義が導かれる。
ベネターが展開する反出生主義のユニークな点は第二章の哲学的議論であるが、ネット上で反出生主義が広まっていく場合の根拠とされているもののほとんどは第三章の以下の部分であると思われる。
存在させられてしまう人には誰にでも大きな苦痛が待ち受けているだろう。それでも、恵まれた人のほとんどが、我慢できないほどの苦痛を被ったり、強姦されたり、暴行を受けたり、残酷なやり方で殺されたりするだろう子どもに命を宿すことになるだろう。
楽観主義を貫くのなら、この子作りロシアンルーレットを正当化する責任を負わなければならない。存在させられる人にとって、決して存在しないことに勝る真の利益などないという事実を考慮すると、子作りロシアンルーレットという深刻な害悪が生まれる重要な賭けを正当化できる方法を見つけるのは無理だろう。
どんな人でも耐えられないような非日常的な耐え難い害悪だけでなく、普通の人の人生に含まれるような実に日常的な害悪も考えると、陽気な子作り人たちにとって事態はより悪くなる。つまり彼らは、めいっぱい弾が込められた銃で、ロシアンルーレットをしている —— 勿論その標的は、自分自身の頭ではなく将来生まれてくる自分の子どもの頭なのだ。(102)
なぜ「すべての人間は子どもを生むべきではない」のか
今までの議論をまとめると以下のようになる。
まず、ベネターの反出生主義は次の(1)から(3)の順番で導かれる。
(1)「誕生害悪テーゼ」
存在してしまうことは常に深刻な害悪である。
(2)「誕生否定」
存在している者は例外なく生まれてこない方がよかった
(3)「反出生主義」
すべての人間は子どもを生むべきではない。
(1)「誕生害悪」には次の二つがある。
(A) 存在してしまうことは常に害悪(絶対的害悪)
(B) 存在してしまうことは大きな害悪(相対的害悪)
(A)と(B)は直接的な関係はなくそれぞれ独立に成り立つ。よって(A)と(B)のどちらかが成り立てば(2)「誕生否定」から(3)「反出生主義」が導出される。
【子どもを持つことは「誤り」である】
これから生まれる可能性のある人間が耐えることになる苦痛は、彼らが存在するようにならない方が良いと言うのに十分なほど大きいと思う。第2章[絶対的害悪論]での私の主張はこうした非常に明瞭な直感を詳述しているのであって、遥かに少ない苦痛でも —— 実際にはとにかくどんな苦痛でも —— 存在してしまうことが害悪であると言うのに十分なものだろうということを示している。
繰り返しになるが私の主張からは、人生に悪いことが何かしらある限り人生を始めない方が良いということが示唆されるが、もし人生の悪の量が本当に非常に少ないのであれば、子どもを持つことは必ずしも誤りではないということが言える。というのは、その害悪よりも他者への利益が大きいと妥当に言えるだろうからだ。
けれども第3章[相対的害悪論]で主張したようにあらゆる人生に含まれる害悪は決して少なくはない。みんなの人生は、最も恵まれた人のものでも、通常考えられているよりも遥かに悪い。更に、これから生まれる可能性のある子どもが最も恵まれている人の中に入れると考える根拠は誰にもほとんどない。単純に人生を悪くするものが多過ぎるのである。(214 脚注6)
ベネターの主張は以上のように要約される。つまり、たとえ第二章で展開した「誕生の絶対的害悪論」(苦痛と快楽の非対称性)が妥当しないとしても、第三章の「誕生の相対的害悪論」(子作りロシアンルーレット)によって反出生主義は導ける。ゆえに、すべての人間は子どもを生むべきではないのだ。
なぜ自殺は肯定されないのか
「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」というのであれば、なぜいますぐ自殺しないのか。「この世は地獄である」というのなら尚さらのこと、害悪を回避するために早めに死を選ぶことは合理的であるように思われる。
ベネターは「生れてきたこと」(誕生)と「生きること」(生存)を区別して論ずるべきであると提案する。そして、誕生が悪いことだからといって生存をやめる(死を選ぶ)必要は必ずしもないと言う。これはいったいどういう意味なのか。
まず、誕生と生存を以下の4つの区分に分けてみよう。
(1) 生まれないこと(非存在)(2) 生まれてきたこと(誕生)(3) 生き続けること(生存)(4) 死(非存在)
誕生害悪論によれば、(1)「非存在」は良いことになるが、 (2)「誕生」と(3)「生存」は存在することにともなう害悪を被っているから悪いことになる。では、(2)「誕生」を経由して(3)「生存」に至った存在者は必ず「死」を選ぶべきなのか。そうとは言えない。
なぜなら、「生存」は「死」よりも悪いわけではないからである。「誕生」は「非存在」よりも悪いのだが「生存」は「死」よりも悪いとは言えないのである。
生まれる前の非存在と死んだ後の非存在は同じような非存在ではない。「生まれないことの非存在」は存在してしまった者にとって常に良いことになるが、「死ぬことの非存在」は生存している存在者にとって常に良いことになるわけではない。
私たちが為すべきたった一つの可能なことは「死」(自殺)ではなく「新しい存在者を生み出さないこと(反出生)」であるとベネターは述べる。よって、反出生主義は自殺肯定論を支持しない(誕生否定は生存否定を意味しない)。
「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」という誕生害悪論は「生まれてこない方がよかった」という誕生否定論に接続される。だが、この誕生否定論は「今すぐ死んだ方がいい」という生存否定論にはつながらないのだ。「存在が生み出されたこと=誕生」の否定と「生き続けること=生存」の否定は根本的にちがうからである。また、死んでしまうことは生存していることより悪いかもしれない(少なくとも良いとはいえない)からである。
誕生害悪論というのは「生まれてきたこと=誕生」と「生まれないこと=非存在」を比較し、「生まれてきたこと=誕生」は「生まれないこと=非存在」よりも常に深刻な害悪になるということである。これに倣えば、生存害悪論とは「生き続けること=生存」と「死=非存在」を比較し、「生き続けること=生存」は「死=非存在」よりも常に深刻な害悪になるということである。
もし、自殺肯定論(いますぐ死ぬべきだ)を主張したいのであれば、誕生害悪論とは独立に「生き続けることは常に深刻な害悪である」という生存害悪論を打ち立てたうえで「すべの人間は今すぐ死んだ方がいい」という生存否定論を導くしかない。
「生まれてきてよかった」に変わりうる可能性
「生まれてこない方がよかった」という誕生否定の仕方には概ね以下の二つがある。
(A)「私」は生まれてこない方がよかった(主観主義の立場)
(B)「すべての存在者」は生まれてこない方がよかった(客観主義の立場)
(A)と(B)のちがいで重要なのは、一人称視点と三人称視点のちがいである。(A)「私は生まれてこない方がよかった」という命題は「私」の内的な一人称視点からの「私」に対する誕生否定(自己否定)である。
だが、(B)「すべての存在者は生まれてこない方がよかった」という命題は外的な三人称視点(神の視点)に立ちながらすべての存在者の誕生を否定することである。このように神の視点に立って世界を外側から客観的に眺めたとき、その世界のなかに「私」は存在していない。
私たちにとって最も切実な実存的問いなのは、(A)の命題「私なんて生まれてこなければよかったのに…」という誕生否定だと思われる。しかし、ベネターの議論にはそのような重要な問いを問題にする視点そのものが存在していないのである。むしろそのような実存的実感を何ら検討することもなく議論の出発点に置いている。
また、次のような論理展開で反出生主義を導くことはできない。「私は生まれてこない方がよかった」→ だから「すべての人間は生まれてこない方がよかった」→ ゆえに「すべての人間は子どもを生むべきではない」という流れである。
「私は生まれてこない方がよかった」という「私」の実感から「すべての人間」へと「だから…」でつなげることは論理的にできない。しかし、反出生主義の起点になっているのは「私は生まれてこない方がよかった」という「私の実感」であり、ベネターが構築した反出生主義もそのような「私の実感」(=ベネターの実感)がベースになっているはずである。
「すべての人間は子どもを生むべきではない」という反出生主義に至る経路は、誕生否定が(B)「すべての存在者は生まれてこない方がよかった」(客観主義)を意味しているときだけにかぎられる。
したがって、もし私たちが(A)の主観主義の立場に立つのなら、ここから反出生主義を導くことはできない。主観主義の立場に立つかぎり、たとえ「私は生まれてこない方がよかった」と思っていても「私」は子どもを生んでもいいのである。ここに論理的な矛盾はない。なぜなら「私」と「子ども」はまったくの別人格だからだ。「私は生まれてこない方がよかった」と思いつつ子どもを生んだとしても、生まれてきた子どもの方は「私は生まれてきてよかった」と思うかもしれない。逆に、「私は生まれてきてよかった」と思いつつ子どもを生んだとしても、生まれてきた子どもの方は「私は生まれてこない方がよかった」と思うかもしれない。そして、たとえ生まれた子どもが一時的に「私は生まれない方がよかった」と思ったとしても、子ども固有の人生の内部でつねにそれは「私は生まれてきてよかった」に変わりうるのである。
このように主観主義の立場に立つかぎり、生む側と生まれる側には常に非対称性が存在することになる。ベネターの反出生主義(誕生否定と反出生の接続)が成り立つためには、生む側と生まれる側の非対称性を抹消し、生まれた子どもがつねに「生まれない方がよかった」と思うような世界設定をする必要がある。だから、ベネターの主張では主観主義の「私」という内的視点を抹消して客観主義の神の視点を採用しなければならないのである。これがベネターが客観主義の立場を取っている理由であるが、私たちがベネターと同じような客観主義の立場に立つ必要はない。
なによりもまず、生む側と生まれる側の非対称性は厳として存在するし、抹消されることなどありえないからである。なぜ客観主義に立たなければならないのか。主観主義の立場に立ってもいいはずで、どちらの立場が正しいかは論証(演繹)できないし決着のつく話ではない。もし、主観主義の立場に立つなら「私は生まれてきてよかった」と言っている人には「誕生は害悪」という論理は当てはまらないし、「私は生まれたくなかった」と思っている人でも何かのきっかけで「生まれてきてよかった」に変わりうる可能性は十分にある。
「神の視点」が想定しているスピリチュアルな世界
ベネターが主張する「すべての人間は子どもを生むべきではない」という反出生主義は、以下のような神の視点(客観主義)を採用している。
まず、存在者が所属する〈世界〉があり、すべての人間(存在者)は〈世界〉のなかに住んでいる。その〈世界〉のなかに存在していない「非存在者」は〈非存在の世界〉に所属する。
生む側(母親)(1)が子どもを生むことを選択したとき、赤ん坊(2)が産まれる。このとき神の視点をとる客観主義では、(1)から(2)の動きを(3)「〈非存在の世界〉に住んでいた非存在者が〈存在の世界〉へと移行した」と考える。つまり、(1)から(2)の動きと連動して(3)が同時に起こり、非存在者は〈世界〉へと誕生したことになる。
ベネターが反出生主義の根拠としているのは、「存在してしまうことは常に深刻な害悪である」という誕生害悪テーゼである。これは(3)で示されている「非存在者の存在者への移行」が常に深刻な害悪であるということを意味している。
〈存在の世界〉と〈非存在の世界〉を比較すると、〈存在の世界〉は常に害悪を被る場所になる。よって、非存在者は〈存在の世界〉よりも〈非存在の世界〉にいた方がよかったのだ。これが「すべての存在者は生まれてこない方がよかった」の客観主義的な図式である。
(3)「非存在者の存在者への移行」を防ぐたった一つの方法は、生む側(1)が「子どもを産む」という選択をしないときだけである。ここから「すべての人間は子どもを生むべきではない」という反出生主義が導かれる。
以上がベネターの反出生主義であるが、ここには一つの謎がある。そもそも生む側(1)も生まれる側(2)もどちらもずっと〈存在の世界〉のなかに所属している。赤ん坊(2)は母親の胎内から産まれてきたわけだから、赤ん坊は〈非存在の世界〉から〈存在の世界〉へとやってきたわけではなく、もともと〈存在の世界〉のなかに所属している母親(1)の胎内から生みだされたはずである。赤ん坊は始めからずっと母親と同様に〈存在の世界〉の住人なのだ。
したがって、赤ん坊が生まれてくる(1)→(2)の誕生プロセスと、(3)「非存在者の存在者への移行」というプロセスは実は無関連なのである。二つのプロセスを矛盾なく説明するためには、赤ん坊の肉体は母親の胎内から誕生し、赤ん坊の魂は〈非存在の世界〉から〈存在の世界〉へとやってきたという摩訶不思議なスピリチュアルな世界を想定せざるをえない。そもそも〈非存在の世界〉が存在したり「非存在者」が存在するためには、スピリチュアルな「魂」のようなものが存在すると仮定するしかない。
このような矛盾が生じるのは、神の視点を採用することによって一つの世界を外側から眺めながら「この世」と「あの世」とか〈存在の世界〉と〈非存在の世界〉といったように世界を二つに分割してしまうからである。この分割された二つの世界に肉体と魂を割り当て、肉体は母親の胎内から誕生し、魂は〈非存在の世界〉から〈存在の世界〉へと誕生すると考える。誕生の起点は「母親の胎内からの誕生=赤ん坊」と〈非存在の世界からの誕生=魂〉の二つに分裂しており、この二つに分裂した肉体と魂が母親の胎内で命が宿った瞬間に合一したとするスピリチュアル・ストーリーとなる。
私たちが母親の胎内から産まれてきたというのは誰もが疑わない証明不要の事実だと思われるが、私たちが生まれる前に「非存在者」という形式でこの世界とはまったく異なる〈非存在の世界〉に住んでいたというのは反事実的だろう。神の視点をとる反出生主義は、そのようなスピリチュアルな世界を前提にしてしか成立しないのである。
反出生主義のほとんどは「安楽死合法化」論に回収される
Twitterなどで散見される反出生主義を名乗るひとのほとんどは「安楽死」を積極的に支持している。そこで疑問に思うのは、〈もし、積極的な安楽死が可能になったら、(かれらが言うところの)反出生主義の懸念事項のほとんどは阻却されるのではないか〉という点だ。つまり、反出生主義の論拠とされているもののほとんどは「安楽死合法化」によって解決可能なのではないか。だとするなら、わざわざ「出生」についてあれこれ言う必要はなく、ストレートに〈安楽死を合法化せよ〉と言ったほうがいいのではないか——。
もし、反出生主義を支持しているのなら、一度考えてみてほしい。自分が反出生主義を支持する論拠は安楽死合法化で解決可能かどうかと。安楽死で解決できない「何か」があるのなら、それをもとに反出生主義を主張すればいい。だが、そうではないのなら、なぜ安楽死ではなく(あるいは安楽死とともに)反出生主義を支持するのか。
ベネターは積極的な安楽死については肯定も否定もしていない。第二章で生まれてくることの絶対的害悪を、第三章では相対的害悪を主張し、そのどちらかが成り立てば反出生主義は導けると言っている。もし、第三章の「誕生の相対的害悪(子づくりロシアン・ルーレット=生存害悪リスク)」に依拠するなら、たんに安楽死を合法化すればすむ話ではないか。むしろこの場合のほうが「生まれてきてよかった」と言っているひとにも配慮可能になるから、反出生主義よりも安楽死合法化のほうが合理的であると思われる。
べネターの反出生主義では、第二章では生まれない場合と生まれた場合を比較し、誕生害悪を論拠に「生まれないほうがよい」と主張する。しかし、第三章では「生まれない場合/生まれた場合」という比較ではなく、「この世界を生きていく場合=生存」に照準しながら〈この世界を生きる場合、これだけの害悪リスクがあります。子どもをそのようなリクスに晒すことは許されない〉というかたちで反出生主義を主張する。
したがって、正確を期すれば第二章は誕生を問題とする「誕生害悪」論であるが、第三章は生存を問題とする「生存害悪リスク」論になっている。もし、後者の生存害悪リスクだけが反出生主義の論拠であるならば、一律に「子どもを生むべきではない」と言うよりも「生きるか生きないかの選択を本人に選ばせること=安楽死合法化」のほうが合理的である。
生存している本人の「生まれる/生まれない」の選べなさ(同意のなさ)は、安楽死の権利によって「生きるか/生きないか」の選択肢が与えられれば(擬似的にではあるが)解消可能である。すでに生まれてしまったひとは「生まれないこと」を選べないが、この「選べなさ」の不条理を事後的に「生きない」という選択をすることによって解消することはできるだろう。
「生きることが苦痛」などの理由で「生まれたくなかった」と思うひとはいますぐ安楽死を選択すればいいし、逆に「生まれてきてよかった」と思うひとはそのまま生きればいい。だから、安楽死の選択が可能な世界では殊さら「反出生」を主張する理由はなくなる。
反出生主義が合法化されている国はないし、このさき合法化される見こみもない(リプロダクティブ・ライツと整合しないから)。一方、安楽死を合法化している国はすでに存在している。
反出生主義を支持するひとは安楽死合法化も支持すると思うが、では、安楽死合法化論に回収されない反出生主義独自の説得的な論拠とは何なのか。べネター自身もこれにこたえていないと思う。*2
「反出生主義」は、たんなる個人的価値観にすぎない
【客観主義を採用できない理由】
私は反出生主義というのはたんなるひとつの「価値観」にすぎないと思っている。私は個人的な価値観として「すべての人間は子どもを生むべきではない」という反出生主義を支持しない。「反出生主義はまちがっている」という言い方を採用するなら、反出生を全称命題として捉える場合だけである。逆に「私は子どもを生みたくない。なぜなら、私は生まれたくなかったから」という個人的な価値観にもとづく反出生なら尊重できる。
ときたま個人的な価値観による反出生も「反出生主義」とよんでいる場合もあるが、当然、反出生主義は「主義」と名乗っている以上、倫理的な全称命題である。
人生に価値があるかないかというのは人生の内部(内側)から実存的に「私」が評価するしかない。「人生」は常に「誰かの人生」としてしか存在せず、「Aさんの人生」は「Aさんの人生」を生きている「Aさん」にしか評価することはできない。しかし、反出生主義は客観主義を採用するために、神の視点をとる。人生をまるごと外側から神の視点でもって価値評価しようとする。そこから「Xは存在する/Xは存在しない」という比較モデルによって快苦の非対称性を導く。
しかし、「人生における苦痛」というのは「Aさんの人生における苦痛」という固有性をおびるはずだ。誰にでも当てはまるような「人生一般における苦痛」などほんとうは存在しないのである。「人生における苦痛」というのは常に「誰かにとっての苦痛」として現れ、重要なのは「苦痛一般」ではなく「誰かにとっての...」という部分である。
「苦痛」というのは誰にとっても同じ重みになるのではなく、人によってぜんぜん受け止め方や評価の仕方がちがう。したがって「苦痛=不幸」という評価から「人生=不幸」と断定して「生まれないほうがいい」ということにはならない。
そもそも固有性を捨象された「存在者Xの苦痛」など想像できるだろうか。苦痛とは「私の苦痛」であり「誰かの苦痛」であって、固有性なき存在者Xの苦痛など想定できない。「苦痛、苦痛...」と言っているときの「苦痛」とはいったい「誰の」苦痛なのか。
「苦痛」のようなネガティブな価値に対する受け止め方の変容可能性は常に個々人の人生の内部において開かれている。すべての人間は各々の人生の内部(=この私)しか生きられない。自分の人生しか生きることはできないのに、世界の外部に出られると思うのは言語がつくりだす錯覚である。他者の人生をまるごと外部から評価することなどできるわけがないのである。だったら、誠実性を重んじるなら(個々人の人生を尊重するなら)主観主義を採用するしかないであろう。
【反出生主義の「誕生否定」は「存在否定」を帰結する】
反出生主義を支持しているひとは、不思議なダブルスタンダードになっている。よく反出生主義者で「生まれてしまった存在は肯定するが、生むことは否定する」といっているひとがいる。あくまでも否定するのは「生むこと」であって「生まれた存在」は肯定すると。また、「生むこと」は否定するが「子どもを生んだ親」を批判するわけではないとも言っている。
しかし、それらの主張は反出生主義が全称命題であるかぎり都合のよい欺瞞となる。反出生主義が言うところの「すべての人間は子どもを生んではならない」という主張の理由は「すべての人間は生まれないほうがよかった」というものだ。「すべての人間は子どもを生んではならない」という全称命題からの論理的帰結として「子どもを生んだ親」は当然「生んではならない」の範囲に該当するはずである。だから「子どもを生んだ親」は「生んではならない」という規範命題を破ったことになる。
また「すべての人間は生まれないほうがよかった」という全称命題からの論理的帰結として「あなたは生まれないほうがよかった」というのも「生まれないほうがよかった」の範囲に当然該当することになり、二人称的な「あなた」の誕生を否定してしまうことになる。「生まれないほうがよかった」というのが全称命題になっているのなら「あなたは生まれないほうがよかった」という誕生否定も(たとえ直接言及していなくても)暗に意味してしまうことになる。少なくとも「あなたは生まれてきてよかったのだ」というかたちで積極的に他者の存在を肯定することはできない。
「あなたの存在を肯定する」という肯定の仕方には「あなたの誕生を肯定する」ということも含まざるをえない。なぜなら「あなた」というかけがえのない存在は「誕生」がなければ存在しないからである。
生まれる前の非存在者と生まれた後の存在者は根本的に違う。生まれる前の非存在者には属性がまったくない、誰でもない、かけがえのなさもない。一方、生まれた後の存在者には属性があり、誰かであり、かけがえのなさがある。よって、「生まれない方がよい。なぜなら誕生は害悪だから...」と言ってしまうことの効果が非存在者と存在者とでは違ってくる。「非存在者は生まれない方がよい」と言うことは、すでに生まれている固有性をもった存在者も生まれない方がよかった、ということをも意味してしまう。
「存在者は生まれない方がよかった」と言うことは「属性のあるかけがえのない誰か」の誕生を否定する(肯定されない)ことになる。もし、この世に生まれた存在者の「生・人生・生きること・生存・存在」を肯定すると言うのなら、生まれてきたこと=誕生も肯定される。
存在者を肯定すると言うことは「かけがえのない属性のある誰か」の「かけがえのなさ」が肯定されるということだ。かけがえのなさの唯一無二は「誕生」がなければ生じない。だから、存在者の存在を肯定することのなかに誕生肯定は必然的に含まれる。
存在否定には以下の3つの人称がある。
(1) 「私なんて生まれない方がよかった」(一人称)
(2)「あなたなんて生まれない方がよかった」(二人称)
(3)「すでに存在している存在者(人間)は生まれない方がよかった」(三人称)
一人称的な自己否定(1)を言いつつ「あなたは生まれてきてよかった」と言うことは可能である。自己否定をしながら他者の存在を二人称的に肯定することはできる。しかし、(3)の立場をとりながら「あなたは生まれてきてよかった」と言うことは論理的に不可能だ。
他者の存在を全面的に肯定し無条件的に承認するためには、二人称的に「あなたはこの世界に生まれてきてよかった」というかたちで承認される必要があり、そのためには誕生肯定が必ず必要になる。
(3)の立場を採用すると、他者の存在を全面的に肯定する可能性が全くないうえに、「すべての存在者は生まれない方がよかった」と主張することは「洩れなくあなたも生まれない方がよかった」と言っていることになる。つまり(3)は他者の存在を二人称的に否定する(2)の効果も持ってしまっているのだ。
「すでに存在している存在者は幸福に生きてほしい」。もし本当にそう思うのならば、他者の存在を「生まれてきたこと=誕生」も含めて肯定しなければならない。幸福に生きるためには「生きること=生まれてきたこと」が二人称的に他者から肯定され承認されなければならないからである。
したがって、三人称的な立場(3)を採用して「生まれてきたこと=誕生」を否定していながら「すでに生まれている人は幸せになってほしい」と言ってしまうことは矛盾していることになる。
世界に一人しか存在しない固有な「あなた」の存在を肯定するには「あなた」がこの世界に誕生したこと(生まれたこと)を肯定しなければならない。しかし、反出生主義は全称命題として「すべての人間は生まれないほうがよかった」という誕生否定から出生否定(すべての人間は子どもを生むべきではない...という全称規範命題)を構成する。このように、反出生主義が全称命題のかたちをとるかぎり「子どもを生んだ親」は「規範を破った親」として構成されるし、「この世界に誕生した存在者」のかけがえのなさにおける存在じたいを肯定することもできない。
わたしたちは主観主義的に個々人の人生の内部から「生まれてきてよかった」と思えるような人生をめざすほかない
ベネターは「生きる価値」(続ける価値)と「生まれる価値」(始める価値)とを分離する。しかしこれは「生まれる前の視点」(客観主義の神の視点)からしか成り立たない。「生まれた後の視点」からは「生きる価値」と「生まれた価値」は分かちがたく連動し、分離不可能になっているからである。
わたしたちがほんとうの意味で言及できるのは、すでに「誰か」として存在している「生まれた存在者」だけであり、この「誰か」として存在している存在者にとっては「生きること」と「生まれたこと」は分離不能である。
したがって、わたしたちは個々人の人生の内部からその都度その都度で「生きる価値がある」と判断されれば「生まれた価値はあった」ということになるし、「生きる価値などない」と思えば「生まれた価値などなかった」と思うほかない。ここから客観主義的に「すべての人間は生きる価値が負だから生まれる価値も負である」とはならないのである。
わたしたちはそれぞれの人生の内部において「生きる価値」を見出すことによって「生まれた価値」を「ある」に変化させるしかない。個々の人生においては「生きていてよかった」→「生まれてきてよかった」という回路しか存在せず、その回路を模索するのが人生の意味となる。
「生まれてこないほうがよかった」はいつでも「生まれてきてよかった」に変容可能である(個々人の人生の内部において)。人生内部の個々の事象によって生じる苦痛や不幸を、人生の外部に立ちながら「生まれてこないほうがよかった」というかたちで全面的に一括的に原因帰属する処理の仕方はニヒリズムの所産である。わたしたちは誰かとの出会い(一期一会)によってつねに「生まれてきてよかった」に一瞬で変わりうる可能性がひらかれている。これこそ人生であり生きる意味である。
ベネターは悲観主義の立場に立ちながら苦痛を快楽よりも重視する「苦痛と快楽の非対称性」を主張する。だが、楽観主義者はベネターとは逆に苦痛より快楽の方を重視するはずである。ベネターはそういう楽観主義者をたった一言「非理性的である」といって却下する。そして、世界には良いこともたくさんあるのに殊さら悪いことだけに目を向けるのだ。
たった一つの悪いことがあるだけで「生まれてこない方がよかった」と言えるのなら、それとは逆に、たった一つの良いことがあるだけで「生まれてきてよかった」に反転する可能性はある。少なくともそのように言える可能性は常に存在するように思う。
それに加えて、「苦痛=悪いこと」だとしても常に「苦痛>快楽」になるわけではない。私たちの現実的な感覚では「苦痛は嫌だ」と「快楽は良い」が相半ばしながら同居している。この現実的な感覚を手放さないのなら、潔癖症的に「苦痛の可能性」があるだけで「生まれてこない方がよかった」などとは言えないはずである。
【人間存在は不合理である】
ベネターの議論はとても空しく感じる。「子どもを生むべきではない」と主張したい気持ちは理解できるが、なぜそこまでムキになっているのだろう。そもそも「子どもを生む」という選択は論理的に正しいからでも利害損得(快苦の計算)でプラスになるからでもない。
「人間は合理的存在である」という仮定のもとに、「苦痛=悪いこと」「快楽=良いこと」という功利計算を採用しながら「苦痛>快楽」という非対称性を導入すれば損得計算によって「非存在>存在」になる。だから、すべての人間は子どもを生むべきではない......。これがベネターの反出生主義のモデルである。このような初期設定で議論を立てるなら、そのようになるのだろう。しかし、このモデルには人間の実人生が何ら反映されていない。
子どもを生もうとする人は論理や功利計算ではなく「論理」を超えたものに突き動かされた結果である。不合理な欲望はただの性欲かもしれないし高尚な愛かもしれないが、そういうものがなければもはや人間は人間でなくなってしまうだろう。
ベネターが描いてみせる反出生主義のモデルには、私たちの現実的な人生がまったく反映されていない。私たちの人生全体は苦痛と快楽の損得計算以上の何かを含んでいるはずである。子どもを生むという選択もそういった損得計算以上の「何か」の結果なのである。(了)
【旧稿】
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