哲学の分野には「他者問題」とか「他我問題」というのがあります。ぼくが考える「個体化の不条理」というのはそれに関係します。人間の場合は「身体化の不条理」とよんだほうが近いかもしれません。
たとえば、頭痛になったときに症状(痛み)を他者に訴える。医者などに「頭がガンガンする」とか言葉で症状を説明する。このときに医者は「なるほど、ガンガン痛むんだね...」みたいに了解します。こうやって「症状」は理解される。
しかし、たとえば「ぼくの頭がガンガン痛む」というときの「ガンガン」と、Aさんが訴えている「頭がガンガン痛む」の「ガンガン」は同じ「ガンガン」なのでしょうか? はたして、ぼくのガンガンとAさんのガンガンは同じガンガンなのか?
結論から言うと、これは確かめようがないのです。まず、これぞ正しい客観的な「ガンガン」は決まっていません。つぎに、ある痛みBを「ガンガン」と名付けることができるのはその痛みBを身体の内側から感じるているひと(つまり本人)だけに限られます(いまのところ)。つまり、「あなたの痛みはガンガンではなくジンジンだよ!」というぐあいに他者が訂正することができないのです。
ぼくたちは「ガンガン痛む!」とか言ったりする。こういう言い方でしか症状を他者に伝えられないからです。ぼくたちの身体はひとそれぞれちがっています。同じ身体はひとつもない。「ガンガン痛む」という表現は、本来はひとそれぞれの「多様な痛み(多様なガンガン)」だったはずです。ぼくたちは、そのようなひとそれぞれの「多様なガンガン」を大幅に切り捨てたうえで「ガンガン痛む」と言うしかないわけです。
本来なら、身体AにはガンガンA、身体BにはガンガンB、身体CにはガンガンC......というぐあいに、ひとそれぞれの身体にひとそれぞれの「固有のガンガン」があるはずです。でも、ぼくたちは「ガンガン」という一般的な言葉で固有のガンガンを表現することしかできません。これはすべての身体感覚について言えることです。身体感覚から生まれる知覚経験を言葉で表現するときは、つねに「固有性」が捨象されて伝えられます。よって、ぼくの「固有の痛み」は「固有の痛み」として他者に伝わることはない。他者が理解する「固有の痛み」は「一般的な痛み」という“言葉”でしかない。ここではぼくの「固有の痛み」は「痛み一般」(=単なる一般的な言葉)に変換されているわけです。
固有の身体感覚は無限なのに、言葉はあまりにも有限です。たとえば、かけがえのない唯一無二のAさんの身体が経験することは、この世界でたった一回の唯一の経験(過去にも未来にもない)はずです。そう考えると、「同じ身体はない=同じ身体経験はない」という意味で身体感覚は理論上は無限だといえます。しかし、知覚経験=言葉は有限です。想定される身体感覚からすれば、言葉なんて圧倒的に少ない。たいていの「生きづらさ」はその圧倒的に少ない「言葉」がつくりだすトリック(虚構)から生まれていると考えられます。
ということは、「伝わったこと」ではなく「伝わらなかったこと」のほうが重要なのではないか。言葉で伝わったということは、その裏では必ず伝わらなかった「固有性」というものがあるからです。ぼくたちが経験する身体感覚は「言葉」で理解されます。この瞬間、言葉に乗らないあらゆる固有の感覚が捨象される。言葉として理解されたあとに、言葉に乗らなかった「何か」をモヤモヤと経験したりする。しかし、この捨象されたモヤモヤにこそ、そのひと独特の固有性がある。このモヤモヤは、本人にとっては言葉にできないモヤモヤとして経験され、他者にとってはもはや想像することすらできない「何か」です。(この「モヤモヤ」を対象化するのが当事者研究なのだと思います。)
「生きづらさ」の淵源には、必ずそのような言葉にできない身体の固有性にかかわる次元があります。この身体の固有性から生まれるモヤモヤ的な生きづらさは、自分でもモヤモヤしていてわからないし、かといって、他者にも想像不能な「何か」なのです。これが「身体はひとそれぞれ固有である」という命題から必然的に生まれてくる「個体化の不条理」です。つまり、ひとには「絶対的な生きづらさ(=身体固有の生きづらさ)」というものが必ずあり、この「絶対的な生きづらさ」には誰も到達できないということです。(モヤモヤとした輪郭が分かるだけ)
「当事者」というときの基点になるのはそのような「固有の身体性」だと思います。それは、他者が絶対に届き得ない基点です。「他者の身体」へは絶対に届き得ないし、わからないのです。だからこそ「想像できない」ということも含めて想像するしかない。ここから他者への想像力の必要性が生まれてきます。このときいちばん重要なのは「わからない」ということ(「わからなさ」を大切にする。)なぜなら、「身体はひとそれぞれ固有である」からです。同じ身体というものは絶対にないからです。
以上のことから、「あのひとは何もしていないから怠惰である」などとは決めつけることはできません。ぼくたちは「あのひと」ではないから(=あのひとと同じ身体ではないから)です。
最後に。個体化の不条理は、「絶対的な生きづらさ(=身体固有の生きづらさ)」を生みだしますが、と同時に「身体はひとそれぞれ固有である」という点から「かけがえのなさ」が生まれます。これこそが「個人の尊厳」でもあるのです。ということは、「個人の尊厳を尊重する」ということのなかには、他者からは到達不能な「絶対的な生きづらさ」への配慮(=他者への想像力)があらかじめ盛りこまれているということです。