「かつら」はファッションである
ぼくはファッションにはあまり興味がないが、「かつら」(あるいはウィッグ)には興味がある。
「かつら」はファッションとして使用されるときは「つけ毛」「ウィッグ」とよばれ、「薄毛」を隠す目的で使用される場合にかぎり「かつら」とよぶようだ。ぼくは、そのような区別じたいをなくすべきだと思っている。
ウィッグだろうが「かつら」だろうが呼び名はなんでもいい。とにかく、かつらはすべてファッションとして解放されてほしいのだ。
なぜ、洋服はその日の気分で自由に選べるのに、かつらはそのようにならないのか。かつらがもっとファッションとして「公認」されれば、洋服と同じようにその日の気分で長髪のかつらをつけたり、金髪のかつらをつけたりできるようになるはずだ。
かつらはファッションとして解放されるべきである。
「薄毛」を隠しパスすること、「薄毛」を暴きリードすること
かつらというのは「薄毛」を隠すために使用されると言われる。このような使用法があるかぎり、かつらがファッションとして公認されることはないと思う(特に「男」の場合は)。
トランスジェンダー用語を使うなら、「薄毛」を隠すためにかつらをつけるのは「パス」することであり、かつらをつけているひとを暴こうとすることは「リード」(読まれること)である。
トランスジェンダー・スタディーズをつくりあげたランディ・ストーンやケイト・ボーンスタインらは「パスすることをやめてリード(読まれること)を意識的に選択しよう」と呼びかけた。
「薄毛」がバカにされる問題とトランスジェンダー固有の問題はまったく別次元の問題であるが、ふたつはパスとリードにかんする共通する性質があると思うのである。
「薄毛」はバカにされる。だから、かつらをつけてパスしようとする。そうすると、今度は「あいつはかつらを被っているんじゃないの?」という「かつら暴き」のリード・ゲームがはじまる。リードに成功すれば、「やっぱりカツラじゃん!」と言われて「薄毛」の当事者はさらにバカにされる。こうやって「薄毛」に対するスティグマは強化され続ける。
かつらでパスすることをやめたなら...
トランスジェンダー・スタディーズの知見は、かつらの問題にも適用できると思っている。(もちろん、かつらの問題とトランスジェンダー当事者の生きづらさ問題はまったく別次元の問題である。二つが同じような問題であると言いたいわけではないので、その点は注意されたい。)
将棋の棋士である佐藤紳哉さんは、「薄毛」を隠すためにかつらをつけているのだが、そのかつらを人前で堂々と取ったりする。
まずは以下をご覧いただきたい。
これは「道化」である。「薄毛」を隠すためにかつらをつけているのに、みずからかつらを脱いでしまう。あえて道化になって「薄毛」を笑いにかえるのだ。このようなパフォーマンスによって「かつら暴き」というリード・ゲームの目的じたいを粉砕する。佐藤棋士はみずからパスしないことによって「かつら/薄毛」のスティグマ性をずらし、「かつら/薄毛」を脱構築している。
かつらをファッションに!
佐藤棋士はかつらをたくさん持っていて、ファッションのように楽しんでいるという。「かつらは「薄毛」を隠すもの」という固定観念をぶち壊すと、かつらをつけることがファッションになり、洋服を選ぶように楽しい行為になるのだという。そして、「薄毛」というのが恥ずかしいこと、かっこわるいことであるという価値観は無くなる。
必ずしも佐藤棋士のように道化になる必要はない。幸いにもぼくたちは佐藤棋士のパフォーマンスから多くを学ぶことができる。「薄毛」をかつらで隠す必要はない。かつらは「薄毛」を隠す目的で使用されるのではない。なぜなら、かつらは「薄毛」を隠すものではなく、ファッションの一部なのだから。
かつらはファッションだ。かつらは「薄毛」を隠すものではない。「薄毛」は恥ずかしいことではない。「薄毛」はかっこわるくない。
いずれ、かつらがファッションとして広く公認されれば、みんなかつらをつけるようになるだろう。そのとき、髪が多いか少ないかなんて問題ではなくなるだろう。むしろ、地毛はじゃまになるのではないか。