セクマイ問題はどうして“ややこしい”のか——。最近だったら社会学者の千田有紀さんが「トランス差別」に関するツイートで炎上した。のちに千田さんは『現代思想』(2020年)で『「女」の境界線を引きなおす—「ターフ」をめぐる対立を超えて』(=千田論文)を書いている。
竹村和子さん的な「ラディカル路線」の“あやうさ”
フェミニズムにはジレンマがある。《 フェミニズムは〈ジェンダーの廃絶〉のために闘うのか、それとも〈ジェンダーの平等〉のために闘うのか》《ジェンダー概念そのものを廃絶するか、それともジェンダー概念を残しつつ——ということは「女」であることを保持しつつ——性差別に抗議するか...》(竹村和子『フェミニズム』岩波書店 2000年)。
そして竹村さんは「フェミニズム」という用語を使用する理由を以下のように述べている。
...性の抑圧に対する個別的また包括的な批評理論や政治実践において、フェミニズムという語を使用することはかならずしも最適な選択ではないことを承知しながらも、それでもなおわたしは、少なくとも現在では、フェミニズムという言葉を手放したくはない。その理由は、けっしてフェミニズムを「女の権利の主張」という枠に閉じこめて、「女」を理論の基盤、あるいは解放されるべき主体として、保持したいと願っているためではない。わたしがフェミニズムという用語のもとにしばらくは思考を進めようと思っている理由は、「女」であることはたやすく身体的な次元に回収され、そして身体は還元不可能な与件だと理解されているので、もっとも根源的な本質的属性とされている「女」というカテゴリーを根本的に解体することなく、「男」に対する抑圧も、「非異性愛者」に対する抑圧も、また性に関連して稼働している国籍や民族や職業や地域性などの抑圧も、説明できないのではないかと危惧しているからである。
したがってわたしは、フェミニズムはけっして恒常的で永遠に機能する批評枠ではないと、一方で理解している。たしかに性にまつわるさまざまな抑圧が、「男」と「女」の意味づけをめぐって、とくに「女」の意味づけをめぐって——なぜなら、普遍と同義とみなされている「男」は定義される必要がないから——いまだに展開しているかぎり、「女」の意味を徹底的に解析することは不可欠の要件ではある。だがもしもその結果、「女」という概念が社会的にも言語的にも有効でなくなるときがくれば、そのときフェミニズムは、その使命を終える。(竹村 2000,vi~vii)
この竹村さんの(あえて言うなら)「ラディカルな路線」を上野千鶴子さんは次のようにまとめている。《 (竹村さんの一部の論考は) ...セクシュアリティ研究でも、クイア理論でもない。そう呼ばれ、分類されるべきではない。彼女の目的は、異性愛制度のもとに規範化され、自然化された身体=同一性への挑戦であり、異性愛制度のもとで性的マイノリティの「人権」や「承認」を確保することではない。...》(竹村和子『境界を攪乱する』岩波書店 2013年)
この路線は“あやうい”。なぜなら、それが『性的マイノリティの「人権」や「承認」を確保することではない』からだ。僕の見立てでは、千田さんは竹村さん的なあやうい路線をとろうとして“失敗した”(あるいは“誤解”された)というものである。この路線は「トランス差別」の文脈には適さない。つまり、当事者視点の「敏感さ」に欠けていたのだ。この点にフェミニズムの学者ぜんとしたアカデミック業界的なものの「鈍感さ」を感じたひとたちがいたのではないかと思う。
千田論文の「男も女もないこの時代に...」?
千田論文の最大の問題点は「ジェンダー論の第三段階」という小見出しの部分だと思われる(非当事者の僕が読んだ感想として)。いま現在「あきらかに第三段階に入っている」という認識はさすがに先走りすぎだろう。フェミニズムのジレンマ的問題に換言していうなら、千田さんがいうジェンダー論の第三段階というのは、「ジェンダー平等期」を超えて「ジェンダー廃絶期」に入っている(=脱アイデンティティの時代)という見立てである。したがって、次のように述べられる。
そこでは、男女平等を主張するフェミニストは、自ら「女」というジェンダー・アイデンティティを「選択」したにもかかわらず、その結果が気に入らない、不平等だと、「性別」というカテゴリーを利用して文句をいう人たちにすらみえる。自分の「自由な」「選択」にもかかわらず、「性別」などという窮屈なカテゴリーを改めて持ち出して、自己正当化のためにひとびとを「性別」に押し込めてくるひととたちとすら表象される。俗な言葉でいえば、「男も女もないこの時代に、なぜまだ男だ女だなんてそんな古い言葉にしがみついて、自分のせいじゃなくて性別のせいだなんて、文句ばかりいっているの?」ということだ。(現代思想 2000年 p251)
いつそんな時代になったのか? ならばフェミニズムの使命は終えたのか? これは理論先行の事実誤認的な先走りとしか言いようがない。アカデミック業界的な制度的フェミニズムの「頭でっかち」である。この部分が致命的であり、よって千田論文は崩壊していると思う。
「強い当事者主義」問題
千田論文は崩壊している。しかし、僕は千田さんが暗に言いたかったけどうまく言えなかった「何か」があるとは思っている。千田さんには「ターフ戦争」と見えたらしいのだが、Twitter上では今でもマイノリティをめぐる激烈な対立があとをたたない。こういうときに僕が思い至るのは、東浩紀さんの「当事者主権」批判である。
ジェンダーやマイノリティや障害者の問題は、かつては「専門家」が「上から目線」で語るものでしたが、いまでは当事者の声がなによりも尊重されるように変わってきています。政治や報道の場でも、いま問題に巻き込まれているひと、いま解決を必要としているひとの意見が、多く紹介されるように変わってきました。背景にはネットの普及も影響していることでしょう。ぼくもむろん、この動き自体はよいことだと考えます。
けれども、その動きが進みすぎて、当事者の言葉「だけ」が尊重されるようになるとすると、それもまた問題です。なぜならば、ものごとの解決には、第三者の、つまり当事者以外の視点が必要なことが多いからです。
本来は、そのような視点こそが「理念」と呼ばれるものです。理念は、よい意味でも悪い意味でも、個別の利害からあるていど離れているからこそ、理念になりえます。みなが、おれが当事者だ、まずはおれの話を聞け、おれのほうが抑圧されているんだと叫び合う状態では、議論は成立せず、政治は利害調整しかやることがなくなってしまうことでしょう。(... )
いま日本は、否、世界は、さまざまな問題を抱えています。そのなかで、みなが、おれが弱者だ、おれが被害者だ、おれこそが差別されているのだと、終わりのない「当事者間競争」を仕掛け始めているように思います。声をあげているのは、もはやマイノリティだけではありません。日本でもアメリカでもヨーロッパでも、いまやマジョリティこそが最大の弱者であり、被害者なのだといった倒錯的論理が急速に力をもち始めています。当事者間競争は排外主義につながります。...
僕は『当事者の言葉「だけ」が尊重されるようになる』ことを「強い当事者主義」とよんでいる。上野千鶴子さんらが主張した「当事者主権」には良い部分も含まれていると思うのであえて区別したいからだ。
Twitter上では今や「アライ」という立場を名のるひとたちですら排除の対象になることさえある。強い当事者主義は、当事者同士のなかですら排除がおこりうる。「なぜ、あなたが当事者を代表するのだ! 当事者には様々な差異があるのに、どうしてそれを切り捨てて“当事者代表”のような語りをするのか?」という批判がそれである。こうなると、アライという立場が不可能になるばかりか当事者ですら声をあげられない状態になってしまうだろう。
千田さんの何らかの「立場」らしきものに与するわけでも「擁護」するわけでもないが、千田さんが「ターフ戦争」というふうに言っていた内実の一端は強い当事者主義に対する懸念だったのではないか。この懸念を伝えようとした千田論文では竹村さん的「脱アイデンティティ」路線をとってしまい「失敗」したのだと思う。
セクマイに関する強い当事者主義の最大の問題点は、非当事者やアライのひとたち(はたまた当事者ですら)「セクマイについて語るのは“ややこしい“(あるいは、関わるのは“面倒くさい”)」と思ってしまい無関心に拍車がかかることだ。当事者の視点は重要だし、非当事者の意見も重要だろう。この二つが対立しないような「当事者主権」を模索すべきであり、非当事者やアライを排除する言説につながるような強い当事者主義はマイノリティにとって自己排除的になってしまうことに気づくべきである。