GIとSOは分離できるか
セクシュアルマイノリティの問題を一言で示そうとして使用された「LGBT」という括り方にはいろいろと問題があった。そのあとできた「SOGI」という括り方にも問題はある。ジェンダー・アイデンティティ(GI)とセクシュアル・オリエンテーション(SO)は分離できるようなものではないからだ。
たとえば、「私は男である」というGIは「私は男であり、男として女から愛されたい」というSOと連動していることがある。このGIとSOの結びつきの強さは人によって違ってくるだろうが、GIとSOはすっきりと分離できるようなものではなく、複合的問題を要することを忘れてはならないと思うのだ。
「LGB」はSOの問題、「T」はGIの問題、というように分離されて理解してしまうと、TのSOが軽視されてしまうのではないか。Tだって恋愛したりセックスしたりする場合もあるのに、Tの問題はあたかもGIのみだと思われてしまう傾向にある。
トランスジェンダーの「性愛」について
その問題を扱っているものに『セックス・チェンジズ』(パトリック・カリフィア/作品社 2005年)がある。この本では「トランスジェンダーのパートナー問題」に一章をさいており、この章には「見えないジェンダー・アウトロー」というタイトルがつけられている。
トランスジェンダーの問題がGIに局所化されてしまうことによってトランスジェンダーの(性的快楽を含めた)セクシュアリティが軽視されてしまう。加えて問題になるのが、トランスジェンダー・パートナーの性的アイデンティティの不可視化である。
竹村和子さんも次のように指摘している。
レズビアンやゲイ男性のことを同性愛者と呼ぶように、同性愛者の場合には同性とされている人への愛、つまり関係性がクローズアップされるが、TS [=トランスセクシュアル:引用者] をまず特徴づけているのは、自分自身の身体への強烈な意識、違和である。もちろんブッチや女役のゲイ男性にはTSと近似した身体意識を持っている場合があるし、また身体意識は関係的なものなので、他者への思慕と自分の身体への違和感が切り離せないTSもいるだろう。しかし往々にしてTSについて語るときは、医学的処置を含めて、その身体の行方のほうに目が向けられ、TSがどのような親密関係を構築するかについては、あまり多く語られていない。しかし(持続的であれ、ワンナイトであれ)パートナーをみつけることは、他の人々と同様、TSの生/性にとってきわめて重要である。(『境界を攪乱する』p.60)
パトリック・カリフィアは《快楽は奪うことのできない権利である》と強調する。(カリフィアほど「性的快楽を奪われない権利」に敏感なトランスジェンダーアクティビストはいないだろう。)
しかし、『セックス・チェンジズ』を読むかぎりでは、性別適合手術(SRS) は「性的快楽」をある程度犠牲にせざるをえないようだ。人工的なペニスや膣によって性的快楽を得られるようにするためには技術的なリスクがあり、術後の(ペニスや膣による)性的快楽を医療技術的に確実に保証することはむずかしいのである。
つまり、一部のトランスジェンダーはSRSとパートナーとの性的関係との板挟みに苦しめられることになる(ゼロサム的にどちらかを選ばされることになる)。GIとSOはすっきりと分離することができないにもかかわらず、そのどちらかを選ばされる状況に追い込まれる。この観点からも性別二元論的ジェンダー規範は批判されるべきだろう。
トランス女性とシス男性の性愛は「異性愛」か?
シス女性とシス男性の性愛を異性愛とよぶなら、トランス女性とシス男性の性愛は異性愛なのだろうか。トランス女性のパス度によっては外見上は異性愛に見えるのかもしれないが、トラン女性とシス男性の性的二者関係を考慮した場合、これは(シス女性とシス男性のような)異性愛ではないと思う。
竹村和子さんもそのように捉えている。
...むしろTSパートナーは、TSとなら自分自身のセクシュアリティをよりよく追求できると考えている人ではないだろうか。TSのパートナーはTSを選んだのであって、ストレートの代替えにしているのではない。ちょうどフェムがブッチを選んだのであって、ストレートの男の代替えにしているのではないように。
したがってTSとそのパートナーのセクシュアリティが異性愛のように見えたとしても、それは「純粋な」異性愛ではなく、TSのセクシュアリティである。もっと正確に言えば、「純粋な」異性愛も物語以外にはどこにも存在しないことを――いや物語のなかにおいてさえ、その細部が具体的に描かれることは一度もなく、ただのメタファーとしてのみ通用していることを――TSのセクシュアリティは示していく。誰も経験したことがない「純粋な」異性愛を模倣しようとするTSのカップルは、ストレートのカップルと同様に、その試みにつねに失敗する。しかしその失敗は、TSのカップルにとって、とくにTSのパートナーにとっては、選択的な失敗であり、「生産的失敗」である。
ストレートの「男」や「女」を選ばずに、FTMやMTFを選ぶ人たちは、異性愛と呼ばれてきたセクシュアリティの、そこここに散らばっている未踏の幻想や欲望や実践を見つけ出し、新しい形の異性愛を現実化する可能性を秘めている。それはもはや異性愛と呼ぶには、あまりに豊穣なものとなるだろう。...
(『境界を攪乱する』p62−3)
つまり、トランス女性とシス男性の性愛は異性愛ではないのだ。それは異性愛なんかではなく、「新しい形の異性愛」であり「異性愛と呼ぶには、あまりに豊穣なもの」である。これは「トランス女性は(シス女性と同様に)女性である」という包摂の仕方からは見えてこないものだ。(もちろん、公的な「扱われ方」に関する権利上の問題を指摘するときには「トランス女性は女性である」というスローガンは有効に機能するし、そういう訴求の仕方をすべきだと思う。)
シス男性はトランス女性を「トランス女性として」愛しているのであって、シス女性の代替えとしてトランス女性を愛するわけではない。これはトランスジェンダー・パートナーの性的アイデンティティに関係する不可視化された問題である。
まとめ
以上、トランスジェンダーのセクシュアリティと、トランスジェンダー・パートナーの性的アイデンティティに関する問題について述べてみた。トランスジェンダーの問題はGIだけにあるのではなく、SOも関係している場合もある。この観点が忘れられがちだ。SOが関係しているということは、性的パートナーのGIやSOも当然のことながら問題になってくる。たとえば、シス男性がトランス女性を愛するとき、これは異性愛とは別種のまったく新しい性的アイデンティティの選択を意味している。この「新しい異性愛」のかたちは、「トランス女性は女性である」という捉え方からは見えてこない観点である。