おんざまゆげ

@スラッカーの思想

トランス差別と「性という存在形式」—— サンディ・ストーンの“ポスト・トランスセクシュアル宣言”について

私たちは「見た目」で性別判断してしまう“クセ”がある

 トランスジェンダーを差別することは、容姿や見た目による差別と通底している。これは、年齢差別、女性差別、人種差別、障害者差別、ハンセン病差別などにも見いだせる。「見た目」から判断して分かるような特徴的な認識指標が差別行為のきっかけや理由、根拠とされてしまう。「容姿そのもの」を評価することによって序列をつくりだす「ルッキズム」は見た目による差別の典型だ。

 トランスジェンダーを差別するひとたちは性器を含めた「性別的外見」という「見た目」をことさら重要視し、「見た目」が「男性」なのか「女性」なのか、ということを問題化し差別する。

 しかし、これはトランスジェンダーを差別するひとたちだけに限った話ではない。日常生活において、容姿の認知的な「(見た目の)性別不明性」は問題化されやすいからだ。赤の他人が第三者の戸籍を見たり(ましてや性器を見たり)してまで性別を確認するひとはほとんどいないが、見ず知らずの通行人の見た目を一瞬でほぼ自動的に「男か女か」と性別判断してしまうクセが私たちにはあるのだ。

 

「性という存在形式」

 吉澤夏子さん(『女であることの希望』勁草書房 1997年)によれば、性別規範には「男らしさ/女らしさ」というジェンダーよりもより深い層で働いているジェンダー規範(=「性という存在形式」)があるという。「あの人は女らしい女だ」という言い方がトートロジーとならずに意味が通じるのは、前者の「女らしい」の「女」と、後者の「女だ」の「女」がまったく違うジェンダー規範にあるからであり、吉澤さんは前者の内容的ジェンダーよりも後者の形式的ジェンダーの方が基底的であると考える。私たちはこの形式的ジェンダーの性別規範によって見ず知らずの通行人までをもほぼ自動的(無意識的)に「男か女か」と二元的に性別認識してしまうのである。

 すでに述べたように、男性/女性という区別はそれ自体は、私たちのあらゆる日常的なコミュニケーションに先行して機能しているのであった。たとえば、道を歩いているとき、見知らぬ人がスッと近寄ってきて道を訊ねる、ハッとして二言三言答えると、軽く礼をして立ち去る。わずか、一、二分のこんなごく日常的なやりとりの中で、その見知らぬ人が男性であるか女性であるかなどは、まったくどうでもいいことである。しかし、さっきそこで道を訊ねた人は男性でしたか女性でしたか、と改めて問われれば、その性別を言い当てることなどいとも簡単である。つまり、私たちはごく普通の日常的な相互行為において、相手の性をとりわけ意識することがなくても、相手が男性であるのか女性であるのかはすでに知っている(即座に判断している)のである。(p134)

 吉澤さんが指摘する「性の存在形式」とは、「男らしさ」「女らしさ」というジェンダーの内容的規範にかかわるものではなく、私たちがほぼ自動的・無意識的に行ってしまっている「男か女か」という二元的ジェンダー区別の形式的規範のことである。そして、吉澤さんはこの「性の存在形式」におけるジェンダー規範から私たちが容易に逃れることはいまのところ不可能であると断言する。《...私たちはこの社会で、自分自身を含めてすべての人々をあらかじめ男性か女性かのいずれかに分類し規定する営みをすることなく生きることが今のところ不可能だということが、まさにジェンダーという規範の作用なのだ。》(p4)

 しかし、もちろんそれは「本質主義」などではない。

 つまり、ここで強調したいことは、ジェンダーにもさまざまな層があるということ、そして、そのもっとも基底的な層には、性別という規範、すなわちある人を男性/女性であると認識するときに作動している区別の形式がある、ということだ。この性別という区別の形式も、またジェンダーである限り、歴史的・社会的・文化的に構成されたものであり、したがって、変わりうるものである。しかし、またこの区別そのものは、この社会における私たちのあらゆるコミュニケーションの前提であり、「男らしさ」や「女らしさ」といったステレオタイプ化されたイメージや性別役割のような、表層的なジェンダーの規範自体を支えているという意味で、もっとも深い水準に位置し、それらに先行して作用しているとも言える。ジェンダーという規範に含まれる、このようなさまざまな水準を、私たちは繊細に区別して論じなければならない。ジェンダーというものが、いかに私たちの生の在り方を規定しているか、という基本的な事実を見失わないために。(p5)

 

 吉澤さんが危惧するのはジェンダー概念に対する次のような安易な態度である。

 ...「ジェンダーはつくられたものだ」という言説は、今やある意味で常識に属する事柄になっているのだ。しかし、ここに問題がないわけではない。私たちは、ここで、逆方向の自明性に巻き込まれる危険性に遭遇しているのである。つまり、ジェンダーは、確かに歴史的・社会的・文化的構成物であるが、そのことが、逆にあまりにも簡単に前提にされ、ある意味で自明の事柄になってしまっているのではないか、ということだ。その結果「ジェンダーは、つくられたものだ」と言っておきさえすれば事足りる、とする思想的・知的に安易な態度が生まれる。ジェンダーなんて作り事にすぎないのだから、その気になれば「男であること」や「女であること」に縛られたり拘泥することは愚かなことで、自分はそんなことから自由なのだ、とつい考えてしまう。そして、まるで洋服を脱ぎ捨てるように、きょうは男、あしたは女でいるというようなことが、すぐにも可能であるように思ってしまう。ここでは、性差の自明性を安易に相対化して(しすぎて)しまう、というもう一つの困った事態が生じている。(p3 )  *1

  

 吉澤さんは先ほどの道を訊ねる例え話のあとに次のようなことも指摘していた。

 ...つまり、私たちはごく普通の日常的な相互行為において、相手の性をとりわけ意識することがなくても、相手が男性であるのか女性であるのかはすでに知っている(即座に判断している)のである。もし、道を訊ねられてハッと顔を上げた瞬間に、その判断を保留しなければならなかったとしたら、私たちは「この人は男性なのかしら、女性なのかしら?」という疑問を、そのごくわずかなやりとりのあいだじゅう発し続けるに違いない。まして、もしある程度継続的な社会関係をつくらなければならない相手の性について、その判断を保留しなければならないとしたら、そのコミュニケーションはどれほどの困難をともなうか、想像に難くない。私たちにとって、相手の性が不決定なまま安定したコミュニケーションを続けることは、きわめて困難なのである。(p134-5) [強調は引用者]

 

トランス差別に関する二つの位相 —— パス至上主義にもとづくトランス差別と、「シス/トランス」という区別にもとづくトランス差別

 私たちの社会は、「性の存在形式」という性別二元論的ジェンダー規範のうえに成立している。この社会では、一瞬の判断で「男か女か」という二値的な性別判断ができない場合、安定したコミュニケーションが不可能になってしまう。この困難性のツケは特に性別上の見た目が「パス」できない(あるいはパス度の低い)トランスジェンダーにより重くのしかかるだろうと思う。トランスジェンダーはそのような困難性から逃れるすべとしてパスすることを選ぶ(=選ばされる)のだ。

 私がいつもこの問題(見た目で性別を判断する「性の存在形式」に特有の問題)で思うのは、「トランスジェンダーは差別されている」というときに、パスできない(=パス度が低い)ゆえのトランスジェンダーの困難性(=生きづらさ)である。これはトランスジェンダー内部の「パスできる人/できない人」の見た目上の格差的な問題でもある。

 かつてサンディ・ストーンは、ジャニス・レイモンドの「TERF」論文である『トランスセクシュアル帝国』に批判するかたちで、『帝国の逆襲 ——ポスト・トランスセクシュアル宣言』(1987)を発表した。(『セックス・チェンジズ』所収/作品社,2005)

 内容的にはレイモンドに対する個別的な批判というよりは、トランスジェンダーの新しい生き方を提起する未来へ向けた提言的、創造的な論文になっている。眼目は「パス至上主義」を批判すること、そして「トランスジェンダーはパスするのをやめよう」という“ポスト・トランスセクシュアル宣言”にある。

 ここでサンディ・ストーンがいうところの「パスすることはやめよう」という宣言は、パスしている人があえてカムアウトすることとはちがう。言うなれば、前述の基底的ジェンダー規範である「性の存在形式」に抗うことをみずから選ぶことである。おそらく、サンディ・ストーンは「パスできる人/できない人」という格差問題に敏感だったのではないか...。

 見た目で性別を判断するという「性の存在形式」において、「トランス性」は性別に「パスできなかった人」(あるいはパスしないことを選んだ人)が「性別不明」として認識されるところからはじまる。ここからトランス性を区別する「シス/トランス」という新たなジェンダー区分が持ち込まれ、「シス」の本質化により再度「トランス」が排除される。この二重の排除によって「性の存在形式」としてのジェンダー規範(=性別二元論)は守られることになる。

 以上、「トランスジェンダー差別」には二つの層がある。(1) 見た目上の性別判断にパスできるかどうかによって差別される「性の存在形式」における次元 (2) 本質主義的(概念的)な「シス/トランス」という区別によって差別される次元である。(1)と(2)は連動しており、(1)で差別されたトランスジェンダーは自動的に(2)でも差別され、(1)をパスしたひとであっても今度は(2)で差別される。

 トランスジェンダー差別を問題にするとき、(2)の「シス/トランス」という区別にもとづく差別性を問題化すると同時に、(1)の「パスできる/できない」というパス至上主義にもとづく差別性も問題化すべきである。サンディ・ストーンの“ポスト・トランスセクシュアル宣言”はこの観点から理解され評価されるのだと思っている。

*1: ちなみに、この引用の後半は千田有紀さんの論文『「女」の境界線を引きなおす』(『現代思想』2020年3月臨時増刊号)の「ジェンダー論の第三段階」(p250〜)を先回りして批判しているようにみえる。特に千田論文の《...俗な言葉でいえば、「男も女もないこの時代に、なぜまだ男だ女だなんてそんな古い言葉にしがみついて、自分のせいじゃなくて性別のせいだなんて、文句ばかり言ってるの?」ということだ。》(p251)の部分。