社会権は自由権に優先する
わたしは「すべては生存権保障からはじまる」と思っている。これを一口でいうなら〈近代的な立憲民主主義の自由主義思想において、人権保障の大前提は(個人の幸福追求権を含めた)市民的自由権よりも、生存権を含めた社会権のほうをより優先する〉と考える。
そのように主張するひとのほとんどは、富の再分配(主に国家による累進課税の強制によって生存権を保障する枠組=福祉国家)を支持する。国家が強制的に個人の自由(所有権)を制限し、資源の分配の割合を事後的に是正することによってシビル・ミニマム(生存に必要な基礎的ニーズ=生存権)を無条件に保障するのである。
だが、「小さな政府」を支持するネオリベラリズムやリバタリアニズムだけではなく、「国民国家体制」そのものを批判的にとらえる極左やアナキズムもそのような福祉国家を否定しようとする。とくに資本主義を革命しようとする極左の主張は、福祉国家が主導する再分配政策はかえって「国家独占資本主義」を強化する(あるいは増進する)と考える。
「国民国家=戦争機械」「福祉国家=優生思想」
もともと「国民国家」という枠組は、戦争に勝つために編みだされたものだった(19世紀のナポレオン戦争時代)。要は、国家にとって「国民」は第一義的には「兵士」(=健常な男性)であり、戦争に勝つための富国強兵の目標を果たすためにナショナリズムを都合よく利用する目的で国民国家は歴史的につくられたのである。
「福祉国家」という枠組も所詮は国民国家の付随物であり、戦時に国民が安心して兵士になって戦場に行けるように「福祉」という制度を国家が都合よく画策したのがそのはじまりとなっている。たとえば、日本の「厚生省」が内務省から分離して誕生したのは戦時中(1938年)であり、この頃から日本政府は国民の健康管理に介入する体制となった。富国強兵政策によって「健常な強い兵士=国民」をつくりだすためだ。この流れは戦後に制定された優生保護法(1948年〜1996年)にまで引き継がれている。
つまり、福祉国家は国民国家を前提とし、国民国家は「兵士養成マシーン=戦争機械」を前提としている。国民国家が想定する「兵士」は「健常な強い男性」のことであり、それ以外の国民(女性・子ども・障害者・病者など)は必然的に排除の対象となる。
実は、現在では「社会的弱者」を支援するように見える福祉国家の体制は、歴史的には優生思想を前提に生みだされたものだった。たとえば、現在は成熟した福祉国家と評価されている北欧の国々(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク)では現在も徴兵制の義務が課されており、かつては断種法が存在していた(デンマーク[1929年]、スウェーデンとノルウェー[1934年]、フィンランド[1935年])。
国民国家が想定している「国民」は、戦時では兵士であり平時では労働者となる。国民国家が戦争を前提としたシステム(=戦争機械)である以上、国民を第一義的に兵士と想定することは避けられず、日本国憲法が明示的に国民に「勤労義務」を課しているのは「兵役義務」と同等の効果を担保するためである。国家にとって「有能な労働者」は「有能な兵士」の別名となる。
勤労主義は平和主義と両立しない
したがって、勤労主義のマインドは容易に戦争翼賛体制へと結びつく。「新しい戦前」と呼ばれ始めた今このとき、国民国家と戦争、あるいは労働者の勤労主義(人間は働くべきであるという規範)と生産性で人間の存在価値を評価しようとする能力主義(優生思想)を批判的に捉え直す視点が必要とされている。
優生思想や能力主義の差別性を是正するために生存権保障を主張することはジレンマに陥る。なぜなら、生存権保障は国家が主導する再分配政策を要請し、再分配政策を強制する国民国家は優生思想を前提とする福祉国家体制を前提するからである。
しかし、そのような歴史的・思想史的な流れとはべつに、福祉国家体制は生存の危機に瀕している。グローバル経済の市場原理主義(=ネオリベラリズム)の浸透によって、民主主義による再分配政策が困難になっているからだ。資本主義経済は国境を越えて世界全域に拡大しているのに、国民国家は国家の領域に閉塞しながら政治的には民主主義を実行せざるをえない。日本のような「国家独占資本主義」の強い国では、当然のことながら自民党の「弱者切り捨て」の既得権益保護の政策は一部の団体動員的な民主主義(=経団連や医師会など)によって正当化され続けている。
しかし、わたしはそれでも生存権保障を訴える道しか残されていないと信じている。もし福祉国家体制が「戦争機械=国民国家」につながっていると危惧するなら、小さな政府(国家の権限の縮小)をめざしつつ生存権を保障する道(リバタリアン左派)という道もある。北欧の国々を参照しながら、優生思想を否定する福祉国家の道も可能だろう。
重要なのは「国民国家」の歴史と習性を自覚したうえで、安易な勤労主義を否定し労働規範が「強い兵士の養成」を暗黙に前提としていることを理解することだ。平和主義と勤労主義は両立しないのである。
わたしたちはむしろ、行き詰まったグローバル資本主義を逆手にとって勤労主義を拒絶しつつ国家に対しては「生きさせろ!」と生存権(=抵抗権)を行使することができる。これは不可能な要請ではない。
国家はわたしたちの生存を低く設定しつつ軍事費を増額した。この流れを許してはならない。「新しい戦前」を防ぐためにも「兵士=労働者」とは無関連の生存権保障(=生存の自由)を堂々と主張するべきである。勤労主義とは無縁の生存の自由は、戦争と優生思想の対極にある。