おんざまゆげ

@スラッカーの思想

怠惰と堕落のちがい——「怠惰の倫理」は堕落主義を拒絶する

 このへんではっきりさせておきたいから書く。わたしは堕落主義者に与したくない。怠惰は推奨するが堕落は拒絶する。

 堕落とは自分の利益や幸福のことしか考えない非政治的でシニカルな心の習慣である。一方、怠惰(スラッカー)とは堕落傾向を阻止するために勤労主義から脱する心の習慣である。勤労主義は堕落主義に陥る。だからこそ、怠惰が必要なのだ。アーレントも労働(=勤労)と活動(=政治)を区別し、労働主義と全体主義の相関性を示している。*1

 わたしは「働かないニート」を肯定しているが、それはそのニートが政治的であるかぎりにおいてだ。ニートは最低限、政治的であるべきだと思っている。だから、ニートが自己満足的にニート生活を謳歌しているだけならわたしはそのニートを支持しないし、むしろ逆に堕落主義者として批判の対象となる。

 

 べつに「すべてのニートは政治的発言をすべきだ」と言っているわけではない。問題は「非政治的でシニカルな心の習慣」にある。どんなひとも社会的存在である以上、政治的にならざるをえないはずだ。なのに、あえて非政治的スタンスをとりつづける。この傾向と態度を支えているのがシニシズムである。さらに「自分さえよければ」というミーイズムがシニシズムの底にへばりついている。

 ネットにはインフルエンサーのようになったニートがいたりするが、こういった余裕のあるニートにかぎって非政治的だったりする。そんなに影響力があるなら、ボットでいいから政治的な発言をしてほしいと願っているが、パブリックな問題や政治的なことについては関心がないようだ。自分の生存戦略や趣味のことばかり発信している。

 

 ネットには「ナマポ系ニート」とよばれる一群も存在する。「働くよりも生活保護をゲットしたほうがコスパがいい」とYouTubeSNSで発信しながら「生活保護で悠々自適に生活してます」と憚ることなく言ってのける。これもインフルエンサーニートの亜種であり、いかに自分の生存戦略が長けているかを誇ったり、晴耕雨読的な人生をたんに自慢したりしている。「ナマポ系ニート」は、時間的・精神的にある程度の余裕があり、自分の生活が生活保護で満たされていればそれでいいと考えているようだ。

 

 そんなひとたち(堕落主義者)を肯定することはできない。自分の人生が楽になればそれでいいのだろうか。自分さえ幸福になれば不幸で苦しんでいるひとたちなんてどうでもいいということか。ニートが最低限、政治的でなければ「労働者は税金を収めているから偉い」というロジックには永遠に対抗できないだろう。それでいいのか。

 

 とはいえ、次のような危惧もある。ニート的堕落主義者が政治に目覚めたとして、そのニートネトウヨに変化してしまうなら、もとの堕落主義者のままでよかったのではないか——。これは「バカは目覚めないでくれ。バカが目覚めるとかえって社会はわるくなる」というエリート主義者からの危惧である。民主主義である以上、こういう「バカたちよ、目覚めるな」という愚民論はなくならないだろう。ちなみにわたしは勤労主義的堕落主義者よりも、ニート的堕落主義者のほうが勤労という規範から自由になっているぶんだけ「安全」だと思っているが......。

 

 わたしは労働や労働者を否定しない。否定するのは勤労主義である。同様に、働いていないひとやニートを否定しない。しかし、労働者や無職者やニートが堕落主義者なら、このひとたちを肯定することはできない。そもそも勤労主義を批判するのは、社会の生きづらさを減らしたいと思うからだ。減らしたいと思う生きづらさは「わたしの生きづらさ」ではなく「わたしたちの生きづらさ」である。「わたしの生きづらさ」を減らし、わたしだけがハッピーになったとして、このわたしの人生にいったい何の価値があるというのだろう。自分ひとりが生きづらい世の中から一抜けしたとして、その人生にいったい何の意味があるのか。