社会学者の上野千鶴子さんは下記のボーヴォワール『老い』を解説している本のなかで「老いる姿を隠すべきではない」と言っている。すごく重要な指摘だとおもう。
社会の一般的な価値観では、老いは醜いもの、恥ずべきもの、忌避すべきものだということになっている。逆に、「若さ」には価値があるとされている。こういう価値観がエイジズムを生みだす。エイジズムはときとしてルッキズムやセクシズムとも関係しており、この三つの差別形態は交差的に絡まり合っている。だからボーヴォワールの書いた『老い』はフェミニストにとって重要文献になっている。
老い衰れた姿をさらけだす「プロレスラー・アントニオ猪木」
昨年10月に男子プロレスラーのアントニオ猪木さんが逝去した。猪木さんは上野さんが言ったように最期まで自分の老いる姿を隠さなかった。病いに冒され、徐々に衰弱していく姿をずっとYouTubeにアップし続けたのだ。
男子プロレスラーの頂点を極めた猪木さんが、プロレスラーらしからぬ衰えた身体を公衆にさらけだすこと——。これには反対の声もあった。そんなことをしたら「プロレスラー・アントニオ猪木」のイメージが壊れてしまう。だから衰えた姿を見せるべきではないと反対する弟子たちもいたようだ。
男子プロレスはマスキュリニティの権化のようなスポーツ・ショーである。しかも、プロレスには芸能的な技芸も必要とされるため、俳優や芸能人が持っているようなキャラクター(偶像)が重視される。よって、衰えた姿をみんなに見せることが「プロレスラー・アントニオ猪木」のイメージを崩してしまうというのは、まさにそのとおりなのだ。ふつうはそんなことはしなくていい。
しかし、アントニオ猪木はそのような「常識」の枠を超えていた。最期の瞬間まで病いと闘った姿をみんなに見てもらう。そのような姿をさらけだすことによって逆に「プロレスラー・アントニオ猪木」は最期までアントニオ猪木として生ききったことになると考えたのだ。「プロレスラー・アントニオ猪木」のイメージを守ることよりも、むしろそっちのほうが重要だった。
そこではすごいことが二つ起こっている。ひとつは、男子プロレスラーの命ともいえるマスキュリニティに対する挑戦。もうひとつは、プロレス的身体(若く健康的で強いボディ)イメージに対する挑戦である。病いに冒され老い衰えていく姿は、その二つの「規範」に反することになる。実際にアントニオ猪木の老い衰えた姿は、その男性プロレス的身体イメージ(身体規範)から大きく逸脱していた。だから、プロレスファンの間でも「猪木がかわいそう」とか「自分はあんなふうになりたくない」と言ったようなエイジズム的な反応があった。
社会のメインストリームの普通の価値観で反応するなら、そのように感じられることは必定だろう。なぜなら、この社会では老いよりも若さに、病気よりも健康に価値を置いているからだ。みんなずっと若くて健康でいたいと思っており、それが「善=幸福」だと考えて永遠にそのような幸福を追い求めようとしているからだ。
全盛期のアントニオ猪木と、老い衰えたアントニオ猪木を比較して、後者が惨めでかわいそうに感じるのはなぜか。この感じ方はまちがっていないだろうか。尊厳に反するのではないか。差別意識はそのような感じ方のレベルにおいて常に訂正され続けなければならないとおもう。
差別社会に抗う
日本は「若さ」を重視するエイジズム社会だ。このような「差別社会」であるかぎり、社会へのパス度(適応度)が高くなればなるほど差別意識をたくさん持つようになる。そのような差別意識から距離をとるためには、社会からもある程度距離をとらざるをえない。なぜなら「差別されたくない」という理由から社会に適応する(=同化する)と、逆に差別社会じたいが強化されてしまうからだ。これでは差別の再生産への加担である。このような差別社会のジレンマに陥らないためには、社会への同化をめざすのではなく、あえて「異なる姿」(異化状態)のまま生きるしかないだろう。老い衰える姿を隠さなかったアントニオ猪木のように。
差別社会の価値観に適合しようとするのではなく、あえて異化状態のまま生きることをえらぶ。こうやって自分を社会に合わせるのではなく、「異なる姿」が受けいれられるように、社会のほうをちょっとずつ少しずつでも変えさせていくしかないとおもう。