「健康」≒「健常」
以前、「差別意識」とコノテーションという記事で、「障害者を差別してはいけない」と言うことと、「健康はよいことだ」と思っていることは矛盾しているという主旨のことを書きました。一言で要約すると、「健康はよい」ということは、コノテーションとして「病気」や「障害」はできれば避けたいということになるので、「健康」という価値に重きをおく社会では結果的に「病気」や「障害」を忌避(差別)することになってしまうということです。
そのときに僕が注目するのは「健康」という言葉の意味や価値についてですが、これと似た言葉の「健常」という言葉も実は非常に「曲者」なのです。
まず、「健常」という言葉の意味は、わざわざ語源を遡らなくても(読んで字のごとし)、「正常で、異常がなく、どこも悪いところがなく、健やかで健康」という意味です。見れば見るほど「健」も「常」も自己主張が強い「漢字」ですね。英語で言えば「able-bodied」(健康で丈夫な」という意味になります。
従って、国語辞典レベル言うなら「健常」は「健康」という言葉とほとんど同じということになります。(学問的な概念レベルになると「健康」と「健常」は違うのかもしれませんが、あくまでここでは日常会話レベルの話を対象に言っています。)
「健常者」という言葉
「健常」という言葉は日常会話レベルではほとんど登場しません。というより、そもそも文章レベルでも「健常」という言葉が単独で使用されることはまれであり、そのほとんどが「健常者」という言葉として登場します。( *1 )
しかも「健常者」という言葉は、「障害」や「障害者」が問題になっているときに「障害者ではない人」という意味としてしか登場しません。
従って、「健常」という言葉は「健常者」という言葉として登場し、「健常者」という言葉は「障害者」という言葉の反対の意味としてしか登場しないのです。
そもそも「健常者」は存在しない
以上のことを分かりやすく例えるなら、道路で通行人を観察している時に「あの人は障害者だ!」という意識や「指し示し」は日常的にありふれているのに対し、「あの人は健常者だ!」という意識や「指し示し」はほとんどありません。
あるいは、部屋の中に「ある人(男)」が一人いたとして、この人を指し示して「男が一人いる」と言うかもしれませんが、わざわざ「健常者が一人いる」とは言いません。しかし、部屋の中に何らかの障害をもった人(男)が一人いたとしたら、この人を指し示して「男が一人いる」と言うのと同時に「障害者が一人いる」と言ったりするのです。
そして、そのような障害者が一人だけ存在する部屋の中に「ある人(女)」が入ってきたときに、この人を指し示して「女が入ってきた」と言うのと同時に先ほどの「障害者」を念頭に置きながら「この人には障害がない(障害者ではない)」という指し示しを行い、このときの「障害者ではない者」という指し示しの対象に「健常者」という呼び名を与えます。
つまり、ある空間の中に「障害者」がまったくいない場合、この世界には「健常者」などという人はそもそも存在しないのですが、この空間の中にたった一人でも「障害者」と指し示される人が現われれば、その瞬間に今まで存在していなかった「健常者」がいきなり世界の中に突如として現れるのです。
「健康」と「健常」という言葉
以上、「健常」という言葉の意味について考えました。
ここで僕が解せないのは、「健常」という言葉はほとんど日常では使用されていないのに、この言葉とほとんど同じ意味である「健康」という言葉は日常のいろんな場面で伸び伸びと積極的に使用されている点です。
もし、「健常(者)はすばらしい!」と積極的に言ったりしたら、その言葉は障害者を差別しているのではないか、という批判が必ず出てくると思います。しかし、その「健常」とほとんど同じ意味である「健康」という言葉を使って「健康はすばらしい」と言ったりしても「障害者を差別している」とは言われないでしょう。「健康的ですね」というのは褒め言葉としても使用されています。
そもそも「障害者」は存在しない
僕が言っているコノテーションの問題は、あくまでも「日常会話」レベルで使用されている「健康」という意味や価値に注目します。
分かりやすく箇条書きにすると、次のようになります。
・「障害」と「病気」の意味は違う。
・「健康」と「健常」の意味はほぼ同じ。
・「病気」の反対は「健康」(≒健常)
・「障害」の反対は「健常」(≒健康)
以上のことから「健康はよい」ということは「健常はよい」と言っているに等しいわけです。つまり、「健康」という言葉の意味や価値は、「健常」や「健全」といった言葉を包摂したかたちで社会の価値観のなかに大きく浸透しています。
「健康はよい」という価値に重きが置かれた社会のなかから、「健康(健常)ではない」という否定されたかたちで現れてくるのが「障害」という言葉です。
先ほどの例えで説明すれば、通行人の中からわざわざ「あの人は障害者だ」と指し示すのは、「健康(健常)はよい」という価値によって炙り出された「そうではない者」に対して「障害者」とわざわざ名指すからです。まず、社会の側の方に「健康(健常)はよい」という価値、あるいは「健康(健常)はあたりまえ」という見方(価値観)があって、この見方から生まれてくるのが「そうではない者」「あたりまえではない者」という観念です。そして、「そうではない者」という観念に対して「障害者」という呼び名を付けるのです。
従って、もし、われわれの社会に「健康(健常)はよい」という価値観がまったくなければ、世界には「障害者」などという人はそもそも存在していません。
だから、もし、世界の中に「健康(健常)はよい」という価値観がまったくない場合、この世界には「障害者」などという人はそもそも存在しないのです。しかし、この世界の中に「健康(健常)はよい」という価値観が生まれた瞬間、「健康(健常)ではない者」という否定された存在として「障害者」という存在が世界の中に突如として現れます。そして「障害者」という存在が現れた瞬間、「健常者」という存在も同時に現れるのです。
社会の価値は「そうではない者」を炙り出し、「否定の否定」によって自らを肯定する
以上のことをざっくりまとめると、次のようなイメージになります。
まず、「健康」(健常)という社会的価値によって「そうではない者」を炙り出し、このように否定された存在として現れる「そうではない者」を「障害者」と呼ぶ。
次に、今度はその「否定された存在である障害者」ではない者としての「健常者」という存在を出現させ、「障害者ではない者」を「健常者」の中に回収するのです。従って、社会的価値から否定されて現れるのが「障害者」であり、その否定の否定によって現れるのが「健常者」ということになります。
「否定の否定」という機能に隠されているのは、「承認」や「肯定」という感覚です。つまり、「あの人は“そうではない者”だけど、私たちは“そうではない”」という「否定の否定」の意識を持つことによって自らを肯定できるのです。そして、この「否定の否定」によって肯定されるのは「私たち」だけではなく、「私たち」の抱いている「価値観」であり「社会」でもあります。
そのような「否定の否定による肯定」という現象は、世に蔓延っている「弱者探し」「弱者叩き」「弱者が更なる弱者を探し叩く」という現象を説明できますが、「障害者」という存在もその中に巻き込まれしまっているのではないかと思うわけです。
「健康」と「健常」はほぼ同じ意味なのにどうして使われ方が違うのか…。
「価値」としての「健康」(健常)、この価値の否定としての「障害」、この否定の否定(つまり肯定されるもの)としての「健常」。
こういうメカニズムが働いているからであると推測できます。
そして、社会に「障害者/健常者」が存在するのは、私たちが「健康(健常)」を望むからなのです。