以下の楽曲は『交響曲第1番《HIROSHIMA》』(2003年)。当初、この交響曲は佐村河内守 氏が作曲したとされていたが、のちに「ゴーストライター問題」が発覚。佐村河内氏は「指示書」(原案)を作成しただけで作曲じたいは新垣隆 氏が行っていたことがわかった。いまから約10年前のことである。
のちにこの問題を題材にしたドキュメンタリー映画『FAKE』(2016年)がつくられた。最近の佐村河内氏の動向に関しては以下の記事が参考になる。ゴーストライター問題以降、佐村河内氏は「ペテン師」扱いされ、作曲家としての社会的地位や信用は失墜している。(作曲活動は続けている)
佐村河内氏はどこまで「ウソ」をついているのか、新垣氏とはどのような関係だったのか、どのくらい聴こえているのか……。はっきりいって、わたしはそのようなことにかんしてあまり興味がない。「本当の真実」なんてわからないと思っているからだ。「ウソ」をついていたことは確かだが、そのウソの程度がどのくらいなのかは当事者にしかわからない。映画『FAKE』を観るかぎり、佐村河内氏にかんする「疑惑」の数々には「判断保留」せざるをえないと思っている。
わたしがこの問題で興味をもったのは、まったくそういうことではなかった。真偽のほどよりも、ゴーストライター問題によって『交響曲第1番《HIROSHIMA》』の評価が変わってしまったことが不思議だった。交響曲じたいは何も変わっていないのに、「現代のベートーヴェンたる天才作曲家・佐村河内守が被爆二世の経験をもとにつくった交響曲」という〈物語〉が崩壊したとたん、一気に作品自体の評価も変わってしまったのである。
NHKスペシャル『魂の旋律〜音を失った作曲家〜』(2013年)を観ると、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』を聴いて泣いている聴衆が印象的だった。音楽評論家も絶賛しており、CDセールスもクラシックとしては異例の販売部数を記録した(出荷枚数は累計18万枚)。しかし、ゴーストライター問題が発覚して以降、《日本コロムビアは、この作品のCDの出荷およびネット配信を停止》。《「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」》と評価していた音楽評論家も《佐村河内に騙された》と言ってその評価を撤回している。
交響曲を聴いて泣いていた聴衆の感情じたいは事実だろう。また、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』という作品自体には何の変化もない。しかし「現代のベートーヴェン・天才作曲家」という〈物語〉が虚偽だとわかったなら、聴衆は「だまされた」と思うはずである。そしておそらく、あのときと同じ感動は二度と戻ってこない。
つまり、わたしたちの感じ方、感受性、価値評価というものは〈物語〉という文脈しだいで簡単に変化してしまう。その典型的な事例がゴーストライター問題によって示されたわけである。
「ジャニーズ性加害事件」も同様の問題が起こった。「ジャニーズ」という〈物語〉が前代未聞の性加害事件によって崩壊してしまったからだ。その規模たるや前述のゴーストライター問題の比ではない。これは大変な喪失である。ジャニーズのタレントや楽曲が持っていた〈物語〉は性加害事件によってネガティブに書き換えられてしまった。以前のような輝きは最早ない。タレントや楽曲じたいは何も変化していないのに。
〈物語〉はつねに書き換え可能であり、日々更新されつづけている。「同一性」というたったひとつの真実などそこにはない。〈物語〉という文脈によってわたしたちの人生、あるいは人類の歴史はたえず書き換えられ更新されつづける。それが希望にもなれば絶望にもなる。希望と絶望の根は同じなのだ。これから先、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』やジャニーズの楽曲がかたちを変えて復活するときがくるかもしれない。その可能性は〈物語〉という文脈次第で決まるであろう。
固定された世界、人生はない。真理がどこかに別途存在しているわけでもない。それらは意味という文脈=〈物語〉によってつねに変容可能である。絶望的な状況でもなお、わたしたちは絶望を可能にした〈物語〉の変容可能性に希望を見いだし賭けていくしかないと思うのだ。