おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"が綴る日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想。

「信頼性の罠」=「実際には偶然的な出来事の束でしかないものを必然的な出来事であるかのように思わせ、そうすることによって、個人の出生という偶然事を意味あるものにする」〜『現実の社会的構成』(P.バーガー/T.ルックマン著))

社会的存在=組み込まれる自意識

 誰からも強要された覚えがないのに、毎朝、自分の姿を鏡でチェックし、身だしなみを整えなければならない。それを経由しないと外へは一歩も出られないといった感じだ。これは、社会を生きる人間にとっての最低限のマナーとされている。

 よく人間は社会的存在である、と言われる。端的に言って社会的存在とは、他人から自分はどう思われているか、どう見られているか、ということをたえず気にする存在(=自意識がある)ということだろう。人は思春期あたりから、そのような性質がちらほら現れてくるように思う。

 コミュニケーション=他者の心は謎のまま

 だが、他人が自分をどう思っているか、ということを本気で知りたいと思っても、他人が何を考えているかなんて分かりっこない。つまり、テレパシー的に他人の心が分かってしまうということはありえない。

 他人が自分をどう思っているか、ということを知る術は、他者の言葉、表情、態度、行為といった観察可能な情報から推測するしかない。この推測は当たっているかもしれないし外れているかもしれない。その当否は永遠の謎である。

 だが、それが永遠の謎であったとしても、他者とのコミュニケーションは可能であるし、我々は現に行っている。(苦手な人や何らかの病気や障害によって困難な人はいるが)。本当のところ他人は自分をどう思っているかは分からないが、相手の観察可能な情報をもとにした推測を前提にして、他者とコミュニケーションすることが可能である。

 

他者性=もう一人の自分

 他者の観察可能な情報を解釈し、相手は今こう思っているのでは?という推測を下す過程では、個々人の経験による傾向(バイアス)や価値観を頼りにするしかない。したがって、結局のところ、私が気にしている事柄は眼前の具体的な他者も同じようにそれを気にしているはずだ、と私は思い、私が他者をある傾向で見る(判断する)としたら、同じように他者も私のことをその傾向で見る(判断する)と私は推定(類推)するしかない。

 テレビを観ていて演者の行為(失敗など)をあたかも自分のことのように恥ずかしく思うのは、そのことから説明できる。この場合、「演者(他者)」の部分に「私」が入り込み、「私」が「あの人(演者)」だったら「私」はこう感じる、というふうに「私」と「他者」を置き換えて想像することが可能だからだ。

 

一般化された他者=共同幻想

 ところで、「他者」は私をこう思っているに違いない、と推定するときの「他者」とはいったい誰なのか。それは「鈴木さん」といったような固有名詞ではなく、普通名詞の「他人」のことである。

 また、「~に違いない」という確信は何にもとづいているものなのか。これは、経験的な勘のようなものだと言っていいだろう。個々人の経験にもとづいて練り上げられ作り上げられてきた傾向(バイアス)である。

 そのような個々人の経験による傾向(バイアス)と、社会的な規範や価値観が加味されて「一般化された他者」ができあがる。これができる過程は、自意識の発達過程そのものだといえる。つまり自意識とは、「は私をこう見る(思う)」という意識(「一般化された他者=」から「私」(自己)へと向けられる視線)である。

 コミュニケーションする際の他者の観察可能な情報は、そのような「一般化された他者」を経由して分析される。つまり、他者と私の間には常に「一般化された他者」が介在し、自分が作り上げた「一般化された他者」と、いま眼前にいる具体的な他者(鈴木さん)から発せられた情報を逐次つき合わせながら処理することによって、「鈴木さん」が今どう思っているのかを推測するのではないかと思う。

 個々人が作り上げた「一般化された他者」を共同幻想によって抽象化したものが「世間」(社会)である。人々が他者に出会うとき、眼前にいる具体的な他者は、「鈴木さん」であると同時に「一般化された他者」でもあり「世間」でもあるということである。

 

第一次的社会化=社会的産物としての人間

 以上のような考え方は、『現実の社会的構成―知識社会学論考』(P.バーガー、T.ルックマン著)から得られた知識であるが、この本では、社会的現実を三つの弁証法的関係から理解し《社会は人間の産物である。社会は客観的な現実である。人間は社会の産物である。》と捉える。人間が社会を作り、その作られた社会が人間を作る、という相互性の過程が弁証法的関係である。

 「一般化された他者」が関係するのは、三番目の「人間は社会の産物である」というところであり、これは広義の「教育」のことである。弁証法的過程では、客観化された社会的世界を社会化過程(教育)により内在化(インストール)することであると説明される。これを「第一次的社会化」という。

 

 では、「一般化された他者」とはどのように作られるのか。上記の本から引用する。

 …第一次的社会化は子どもの意識のなかに特定の他者の役割と態度から、役割と態度一般への漸進的な抽象化を生み出す。たとえば規範の内在化過程には、〈ママはいま私を叱っている〉、という把らえ方から、〈スープをこぼすといつもママは私を叱る〉、という把らえ方への進歩が存在する。母親以外の意味ある他者(父親、祖母、姉等々)がさらに加わって、スープをこぼすことに対する母親の否定的態度を支持するようになると、規範の一般性は主観的に拡大されるようになる。決定的な一歩は、スープをこぼすことに対してはすべての人が否定的態度をとるということを子どもが確認し、規範が〈人はスープをこぼさないものだ〉という形にまで一般化されるときにやってくるーーこの場合、〈人〉というのは、それが子どもにとって意味ある人間であるかぎり、原則的には社会のすべての成員を含む、一般性の一部としての自己自身である。具体的な意味ある他者の役割と態度からのこの抽象化は、一般化された他者、と名づけられる。意識のなかにおけるこの一般化された他者の形成は、個人がいまや単に具体的な他者と同一化しているということを意味するだけでなく、他者たちの一般性、つまり社会とも同一化している、ということを意味している。(p201202

 

 以上のように、子どもは親などの「意味ある他者」との人間関係によって、具体的な他者を抽象化し、「一般化された他者」をつくりだす。この「一般化された他者」は他者一般であると同時に「社会」でもある。これが第一次的社会化である。

 

「意味ある他者」の「信頼性の罠」

 第一次的社会化とは、子どもにとっては、親からの全面的な承認過程でもある。しかし、子どもは親を選べない。しかも、この世に生まれてくるということ自体を選べない。この「世界に投げ込まれた(被投性)」という不条理をうまく処理し、社会の成員にする一つの方法として、第一次的社会化(意味ある他者からの全面的承認)は重要な働きをするのである。

 …個人の最初の世界が構成されるのは第一次社会化においてである。その鞏固さという特有の性格は、少なくとも部分的には、その最初の意味ある他者との個人の関係の不可避性によって説明されなければならない。このように、幼年期の世界は、その鮮明な現実性において、意味ある他者という人間そのものに対する信頼をもたらすだけでなく、状況についての彼らの定義に対する信頼をももたらす。幼年期の世界は圧倒的な力をもっており、疑う余地のないものとしてあらわれる。意識の発達のこの段階においては、世界はおそらくはそうしたものとして経験されるより他にないのであろう。人がたとえわずかながらでも物事を疑うという贅沢を味わうことができるのは、それよりもっと後になってからのことである。

 いずれにせよ、幼年期の世界は、彼が〈すべてはうまくいっている〉という確信をもちうる決まりきった構造を個人のなかに確立するような形でーーつまり、おそらくは世の母親たちが泣き叫ぶわが子をあやすときに最も頻繁に用いる文章を繰り返すような形でーー構成されている。人は後になってはじめて〈まったく正しい〉などとはとても言えないような何かがある、ということを発見するのであるが、この発見は、生活環境のあり方次第で、衝撃的なものになることもあれば、さほど衝撃的なものにならない場合もある。p206207

 

 …第一次社会化は社会が個人を陥れる最も重要な信頼性の罠とみられなくもない(もちろんこのことにはあとになって気づくのだが)所業を達成するーーつまり、実際には偶然的な出来事の束でしかないものを必然的な出来事であるかのように思わせ、そうすることによって、個人の出生という偶然事を意味あるものにするのである。p205

  

 社会的産物としての人間は、意味ある他者の「信頼性の罠」によって、出生の不条理(被投性感覚)を忘却させられ、「大人」になる。

 

 

二重の不条理

 第一次社会化が終わったわれわれ大人たちは、今や「この世に生まれてきたことを選べなかった」のではなく「この世に生まれてきたことを選んだ」ことになっている。第一次社会化に失敗した人にとってこれは、二重の不条理である。

 つまり、生まれてくることを選べなかった、という不条理(被投性)を「意味ある他者」の承認(意味付与)によって忘却することに失敗したということは、出生の不条理と承認の失敗という不条理に陥り、この二重の不条理によって自らの人生を肯定することはできないであろう。