おんざまゆげ

@スラッカーの思想

本田由紀『若者の労働と生活世界——彼らはどんな現実を生きているか』/若者が直面するツライ現実

本田由紀さん編集の論文集。

 編集構成は、前半では若者を取り巻く社会環境の変化についての総論的な分析がなされ、それをうけて後半では「若者と労働」、「若者の生活世界」という二つの各論分析がなされている。

 

… 若者が抱える苦しみや豊かさが、“われわれ”と境界のない線分上にあることへの気づきとして開かれるとき、言い換えればそれが「社会的(social)」な問題であると感じられるとき、われわれの前には古くて新しい課題がおぼろげながらその姿を現すことになる——。…

 

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

 

 

目次】

1. 若者を取り巻く社会状況

 序章  若者に見る現実/若者が見る現実 (本田由紀)

 第1章 日本特殊性論の二重の遺産 (高原基彰)

2. 若者と労働 

 第2章 コンビニエンスストア (居郷至伸)

 第3章 ケアワーク (前田拓也/阿部真大)

 第4章 進路選択と支援 (大多和直樹)

 第5章 就職活動 (齋藤拓也)

3. 若者の生活世界

 第6章 ストリートダンスと地元つながり (新谷周平)

 第7章 過食症 (中村英代)

 第8章 援助交際 (仲野由佳理)

 第9章 若者ホームレス (湯浅誠/仁平典宏)

 

「親と同居」がコンビニを支える

 第二章「コンビニエンスストア」では、「コンビニ」というシステムについて詳細に論じられている。今や日常生活には欠くことのできない基礎的インフラとなったコンビニだが、このシステムが成り立つ条件は存外、不安定で不正義なものだ。

 コンビニで働く労働者のほとんどはパート・アルバイトであり、今やコンビニ・システムは非正規の低賃金労働なくして成立しない。非正規労働者が低賃金であるにもかかわらずそれでも生活できるのは、親と同居しているからである。つまり、そのような「親と同居」という条件がコンビニ・システムを支えているということになる。

 オイルショック以降、欧州各国では若者の失業率が急上昇し、企業は雇用システムの変換を迫られた。だが、日本では「主婦パート」という日本独自の雇用システムによって経済の危機を乗りきったと言われている。「男性正社員」に扶養された主婦は103万円以内で働くようになり、必然的にパート・アルバイトの時給は安く設定された。この安めに設定された低賃金労働によって正規社員の雇用を守ったのである。

 バブル経済崩壊以降、そのような安く設定されたパート時給市場にフルタイムで働く新卒労働者が参入する。これが今につながるワーキングプアのはじまりである。「働いても生活できない」賃金体系が改善されることなく続いているのは、それでも「親と同居」といった条件に支えられてギリギリ生活できるからだ。コンビニはそのような条件に便乗しており、その他のチェーン店(牛丼屋やファミレス)もまったく同様である。実は若者が親にパラサイトしているのではなく、経済システムの方が「家族」のストック資産にパラサイトしているということが分かる。

 

介助者の「気づき」は必要か

 第3章『ケアワーク』は、前半の第一節は前田拓也さんが、後半の第二節は阿部真大さんが執筆した共同論文という形式になっている。

 前半では障害者と介助者の関係性の問題(主に介助者の「気づき」)について論じている。介助の際に生じる障害者への過剰な配慮(気づき)は、得てして障害者の意志や主体性を奪うことにつながる。つまり、「いらぬおせっかい」というわけだ。「気づきのケア」と称されるものは障害者の自立生活にとってはむしろ弊害であると著者は述べる。

 では、なぜ「気づきのケア(労働)」は介助や介護の場面でこれほどまでに称揚されてきたのか。後半部分の論考はこの問いに答えるものになっている。

 

「意志の力」という幻想と「評価の暴走」

 第七章の「過食症」では摂食障害過食症や拒食症)について論じられている。ここでは依存症やアディクション嗜癖)の研究(主にベイトソンのアルコホリズム研究)から明らかになった「意志の力」という幻想が問題にされる。

「意志の力」でどうにかなると考える「心身二元論」(精神が身体をコントロールできる)という見方を漠然と信じている人は今でも多い。日本では精神論的マインド(努力信仰)の人気が高い。実は自己責任論が幅をきかせる理由もそのような心身二元論を信じているからである。

 ひと昔前なら「病気」とは私たちの身体の外側からやってくる災厄(自然災害)だという観念があった。しかし、医療技術の発達により、病気は外側からやってくる得体の知れないものではなく、あたかも自己のコントロール(意志の力)によって管理することが可能であるかのようなリスク現象に変化した。ここから「病気」というのは自己管理を怠った結果、身体の内側から発生するものであると観念される。これだと病気すら自己責任の対象になってしまう。

 ベイトソンはそのような「意志の力」は幻想であるどころか依存症やアディクションの要因に加担している主犯だと考える。『アディクションからの離脱をベイトソンは「自己コントロールの放棄・近代的自己の廃棄」に求めている…』。

 アルコール依存症のセルフヘルプ・グループ「AA」(Alcoholics Anonymous)でまず最初に行われるのは「意志の力」の否定である。そして、そのような空間では「評価する/評価される」という「評価のまなざし」から自由になることができる。

 ベイトソンは、AAにおける「ひと」と「ひと」との関係に、近代社会とはまったく異なる原理、いわば近代社会の反転像を見いだした。そこでは、自己のアイデンティティを他者の評価によって支えるという原理がものの見事に否定されていた。査定や評価のない社会空間が発明されていたのである。…(野口祐二『アルコホリズムの社会学―アディクションと近代 』1996:178-9)(270)

 

「評価」という承認によって自己の自尊を保つのは、近代社会の特徴である。前近代社会では身分制によって評価の対象になる人は身分の高い一部の人間にかぎられていた。しかし、近代社会では身分に関係なくすべての人が評価の対象となり、学校教育によってすべての人間の能力が数値化され評価の対象にされてしまう。このような評価ゲームが一つの自尊(自己評価)に結びつき、他者から評価されることが自尊の維持にとって必要不可欠なことになった。

「痩せていることは美しい」という価値観も他者からの「評価」に関係している。「評価」というたった一つの変数を最大化させることは「暴走状態」につながる。しかし、資本主義社会はそもそもそのような「暴走状態」の上に成り立っている。アルコールに依存するのも仕事で評価されたいと「評価」に依存するのもまったく同じ原理である。これが依存症やアディクションを引き起こす主因である。

 西洋文化のさまざまな組織や個人は、程度の差こそあれみないずれも暴走状態にあると考えざるをえなくなる。形はいろいろあるにせよ、「耽溺」こそが、個人個人の生活に至るまで、我々の生きる産業社会のあらゆる側面を特徴づけているのだ。

 

 アルコールに(あるいは食物、ドラッグ、タバコに)依存することも、地位、仕事の実績、社会的影響力、財産などに依存することも、構造的には同じであり、より精巧な爆弾を作ろうという欲求、すべてのものを意識によって支配しようという欲求も、それらと変わらない。

 

特定の変数だけ最大化させるようなシステムはみな、それらの変数を最適化する自然の定常状態を破っているのであり、したがって必然的に暴走状態にあるものとして見なくてはならないのである。(『フェミニズムとアディクション―共依存セラピーを見直す』1997:282)(277-8)

 

「意欲の貧困」問題

 本書で最も重要だと思われる第9章の『若年ホームレス』論文。
 ここではホームレス状態に置かれている若者の「意欲の貧困」問題について論じている。

「意欲の貧困」問題とは何か。

 湯浅誠さんが所属しているNPO法人「もやい」に訪れた田原さん(35歳男性)の例がまさに「意欲の貧困」である。

 田原さんは正規社員としてある会社に勤めていたが、風邪をひいて10日ほど欠勤した後、突如として解雇される。その後、田原さんはハローワークへと通い、三ヶ月の間に産業廃棄物処理場などに計四回採用されるが、彼はそのすべてを一日で退職した。彼の退職理由は「自分についていけるとは思わなかった」というものだった。

 田原さんのような例は特殊ではなく、むしろありふれたものであると言う。従って、もし、田原さんの示唆している問題性を捕捉できなければ、真の貧困問題を論じたことにはならず、解決策も中途半端に終わってしまう。

 そこで著者らは田原さんの事例、つまり「家賃も払えず、食べるお金にもこと欠くような生活困窮状態で、それでもせっかく就いた四回の仕事をいずれも一日で辞めてしまう」問題を、「貧困」の問題として捉え、「意欲の貧困」問題として立論提起する。

 最も個人に属すると思われる「意欲」や「やる気」といった心理的傾向は、個人に帰属するものではなく、社会的諸条件(溜め)に支えられることによってはじめて生起するものだと著者らは述べる。

 

 以上、印象に残った章だけを述べたがそれ以外にも興味深いトピックが並んでいる。今や若者が生きにくい状況へと追い込まれるのは先進国共通の問題になっている。日本では若者の死因第一位がずっと自殺であり、若者が見殺しにされている観がある。少子化傾向も一向に止まらない。これは湯浅誠さんが言うように、社会から「溜め」がなくなっていることが原因であると思う。