おんざまゆげ

"感受性マイノリティ男子"がつづる日々の雑記・雑感… 読書、映画、アニメの感想など。

なぜ「恋愛感情」と「セックス」はつながるのか——アセクシュアルからみた「好き」と「ベロベロ」について

セクシュアリティに関しての一つの疑問を考えてみたい。

 疑問とは「なぜ、恋愛感情とセックスは結びつくのか」である。

 まず「恋愛感情を持つ」というレベルにおいて「持たない~持つ」までの間のスペクトル(強弱)がある。次に「セックスしたい」というレベルにおいて「まったくしたくない~すごくしたい」までの間のスペクトルがある。そして、「恋愛感情を持たない」けど「セックスがしたい」~「恋愛感情を持つ」けど「セックスはしたくない」という間のスペクトルがある。

 世の中の「普通=ノーマル」と呼ばれる人たちは「恋愛感情を持つ」というのと「セックスがしたい」と思うのがあたりまえだと考えており、なおかつ「恋愛感情があるからこそセックスがしたい」というふうにごく自然に「恋愛感情」と「セックス」が結びつくと思っている。

 それ以外の人たちはすべて「性的マイノリティ」であると分類される。

 

【分類が複雑化しているセクシュアリティ

 私はおそらく性的マイノリティに分類されると思うのだが、いったいどんなカテゴリーに分類されるのか分からない。

 セクシュアリティの問題を大きく二つに分けると、性自認(心の性と身体の性の不一致)の問題と性的指向(恋愛対象)の問題がある。そのような問題を表すときの「LGBT」という分類法はごく一般的で大雑把な4分類である。(LGBは性的指向、Tは性自認の問題)

 性的指向のカテゴリーをなんだかんだと詳細に細かく分類することも可能で、たとえば「ヘテロロマンティック・デミセクシュアル」というカテゴリーがあったりする。

 まず、「ヘテロ」というのは異性(同性ではない)という意味で、恋愛対象の性別が「男性→女性」「女性→男性」という組み合わせのことを指す。(同性は「ホモ」で男性→男性は「ゲイ」、女性→女性は「レズ」、どちらもOKが「バイ」)

 次に、「性的欲求があるかないか」という軸に応じて、

 (1) 性的欲求のない人を「アセクシュアル(Asexuali)

 (2) 少しだけ性的欲求のある人を「グレーセクシュアル(Graysexual)

 (3) 特別に深く強烈に好きになった人だけに例外的に性的欲求を持つ人が「デミセクシュアル(Demisexual)

 (4) 性的欲求のある人を「セクシュアル(sexuali)」と分類する。

 

 そして、「恋愛的な意味の“好き”という感情(恋愛感情)があるかないか」という軸に応じて、

 (a) 「好き」という恋愛感情を抱かない人を「アロマンティック(Aromantic)

 (b) 特別に深く強烈な関係が築かれた場合にのみ例外的に恋愛感情を抱く人を「デミロマンティック(Demiromantic)

 (c) 好みのタイプだったらごく自然に恋愛感情を抱く人を「ロマンティック(romantic)」と分類する。

 

 たとえば、ヘテロの男性が好みのタイプの女性と「付き合いたいなぁ」みたいに思う(恋愛感情を抱く)と同時に「セックスしたいなぁ」と思う(性的欲求を抱く)とすればその男性は「ヘテロロマンティック・セクシュアル」ということになる。

 世の中にはヘテロロマンティック・セクシュアルの人だけが存在するわけではないが、ドラマや映画で描かれる恋愛はそのほとんどが当然のごとくヘテロロマンティック・セクシュアルである。

 また、一対一の排他的で束縛的な恋愛関係を「モノガミー」、複数の人と同時恋愛可能だとするのが「ポリガミー」といったりする分類もある。

 詳細は省くが、その他に「リスロマンティック(Lithromantic)」、「パンロマンティック(Panromantic)」、「パンセクシュアル(Pansexual)」、「ポリセクシュアル(Polysexual)」、「スコリオセクシュアル(Skoliosexual)」、「クィアプラトニック関係 (queer platonic relation)」などがある。

(参考:同性愛者だけじゃない?日本人が知らなすぎる11のセクシュアリティ - Glocal Life

 おそらく、もっと細かく厳密に分類しようと思えばどこまでも分類可能だろう。

 

【何が問題になっているのか】

 上のややこしい分類は、要するにいったい何を問題にしているのか。ざっくり言うと、「好き」という恋愛感情と「キスしたい」とか「セックスしたい」という性的欲求の「つながり」と「強弱」を問題にしている(その他のファクターも問題になりうるが、厳密さにはこだわらないのでそれらは省くことにする)

 世の中には「好き」という恋愛感情と「キスしたい」とか「セックスしたい」という性的欲求がごく自然につながる人とそうではない人たちがいるのだ。

 私はその問題に小学生のときに躓いた経験を持っている。姉の影響からトレンディドラマ(恋愛ドラマ)を見させられていたときに、私は素朴に疑問に思った。

 なぜ「好き」とか「愛してる」ということになると二人(男女)は決まって「キス」をするの?

 その疑問に姉は次のように答えた…。

好きになったらベロベロなめたいんだよ、あの人たちは!」

「え? 好きになったらどうしてベロベロなめたいの?」

「知らねーよ!」

 

 姉が言った「ベロベロなめたい」というのは、要するに男性側の「性的欲求」のことを小学生ながらに分かりやすく下品な言い方で表現したもので、上品な?大人たちはそれを「愛撫」と表現したりする。(小学生くらいの子どもはおのずと「アセクシュアル」な存在であり、そのようなアセクシュアルな子どもの視点からキスやセックスを見ると「ベロベロなめる」というふうに見えるのかもしれない。)

 子どもながらに私が感じた疑問は、どうして「好き」という恋愛感情が「ベロベロなめたい」という気持ち悪い行為(性的欲求につながるのか、ということだった。

「ベロベロなめたい」などと言語化したら、これは明らかに「気持ち悪い行為」に感じるだろう。しかし、キスとかセックスという行為を客観的に冷静に見れば、そのような言い方をしても言い過ぎではないと思う。 *1

 

【美しく正しい愛のセックス?】

「セックスしたい」という性的欲求のことを「ベロベロなめたり、ベロベロなめられたりしたいこと」などと言い換えたりすると、「ベロベロなめたいだなんて!そんなことではない!」と反発する人がいる。実際に高校生のときにそのように反発する女性に「性愛とはそういうことではない」などと説教されたことがあった。(このときは男性側の性的欲求を「ベロベロなめたい」、女性側の性的欲求を「ベロベロなめられたい」と言ったらKYになって「あんたバカじゃない?」という感じになった…。当然である。)

 もちろん「ベロベロなめたい」というのは単なる例え(愛撫の言い換え)で言っているだけで、セックスという行為を客観的に見たときの「変態な感じ」を分かってもらいたいときにだけ意図的に用いているだけである。

 性的欲求の野蛮性(動物的な本能性)を否定したい人たちが言っている「美しく正しい愛のあるセックス」というのは、たぶんあるのだろう。私はその可能性を否定しない。しかし、人間の性的欲求には「気持ちいいセックスがしたい」という欲求が含まれており、そこには「ベロベロなめたい」(愛撫したい)という欲求も確実に含まれている。

 たとえ「美しく正しい愛のあるセックス」というものがあったとしても、それを堂々とみんなの前で行うことはできない(美しく正しい愛のある行為なのに)。それは心理的に恥ずかしいからできないだけでなく、法的にできないようになっている(犯罪だから)

「美しく正しい愛のあるセックス」だろうが「野蛮なセックス」だろうが、セックスを公衆の面前で行えば犯罪になってしまう。つまり、セックスという行為はひっそりと寝室にて秘め事として行えば合法だが、堂々とみんなの前で行えば違法になる。要は、セックスというのは「やりたいけど見たくないもの」であり、やるときは「ひっそりとやりたい(こっそりとやるべき)」なのである(たとえ美しく正しく愛があったとしても)

 

【「好き」と「ベロベロ」をつなぐもの】

 私はむしろ「愛のないセックス」の方がわかりやすい。好きかどうかなんて関係なく、とにかく「気持ちいいセックスがしたい」がゆえに「ベロベロなめたいんだ」というのならわかる。しかし、「好き」とか「愛してる」という恋愛感情のモードと「ベロベロなめたり、なめられたりしたい」という性的欲求のモードが、どうして如何にして(明らかに性質が異なるのに)その二つがつながるのかがまったくわからない。

 私が思うに、「好き」のモードと「ベロベロ」のモードの間には「好き」とか「愛してる」を超えた「熱情→変性意識→変態」のモードが隠されているのではないだろうか。「好き」とか「愛してる」のレベルがMAXに達すると「熱情沸点」(変性意識)に到達し、ここから恋愛感情は「変態モード」に変化し、「ベロベロなめたい」などといったような「気持ち悪い行為」に走ってしまう…。沸点に達しない平常状態では「ベロベロなめたい」というのは明らかに気持ち悪い行為である。しかし、恋愛感情が熱情変態に達すれば「ベロベロなめたい」がむしろ「愛の行為」に逆転する。これこそが「性愛」と呼ばれる現象ではないか。

 しかし、人間というのは愛がなくてもセックス可能な生き物だ。別に恋愛感情からの熱情変態などを経由せずとも、「気持ちいいことがしたい」という性的欲求のみで気持ちいいセックスを行うことができる。ここでは、気持ちいいことがしたいからこそ気持ち悪いことをあえて行う。ゆえに、恋愛モードから変態モードへの逆転など必要なく、はじめから変態モードだけでいいのだ。

「好き」と「セックス」は分離可能であり、わざわざ二つをつなげる必要はないし、二つがつながる必然性もない。割り切り型のセフレや不倫の方が性愛なんかよりもよほどわかりやすい行為ではないだろうか(と私は思っているのだが…)

 

【性愛的セックスとそうじゃない普通のセックス】

 巷であたりまえのように行われている恋愛や性愛のなかで、はたしてどれだけの割合が恋愛感情からの熱情変態(→性愛的セックス)という流れになっているのだろう。もしかすると、本当は「好き」と「セックス」がつながっていないのに二つは「つながっている」と思いこんで恋愛しているカップルがいるのではないだろうか。

 つまり、恋愛してセックスしているカップルでも、「好き」→「恋愛感情MAX」→「熱情→変態」→「セックス」という「恋愛モードから変態モードへの逆転」が起こる流れ(=恋愛感情とセックスが接続している性愛)と、恋愛モードは恋愛モード、変態モードは変態モードと分離しているのにあたかも二つがつながっているかのように思いこんでいる恋愛(=恋愛感情とセックスが切れているか微弱につながっているだけの恋愛)があるのではないだろうか。

 その二つを分かつのは「熱情」の有無である。同じカップルが毎回セックスするたびごとに熱情を経験するというのは考えにくい。おそらく熱情からの性愛的セックスが可能なのは、はじめの数回だけではないか。それ以降は性愛的セックスではなく、恋愛感情とセックスがつながっていない(あるいは微弱につながっている)普通のセックスをしているだけなのかもしれない。

 もし、気持ちいいセックスがしたいだけなら熱情なんて必要ない(むしろ邪魔)だろうし、毎回同じ人と普通のセックスをするよりも毎回ちがう人と普通のセックスをした方が気持ちいいと思う。不倫需要というのが常に高い割合で存在しているのがその証拠ではないだろうか。

 

【「好き→セックスする」と「好き→結婚する」はあたりまえか?】

 歴史的に考えると、「好き」という恋愛感情がセックスにごく自然に結びつくと思われるようになったのは、14世紀頃にヨーロッパの宮廷恋愛が小説によって大衆化した後からである。日本では諸説あるものの明治以降からではないだろうか。少なくとも恋愛感情とセックスが結びつくのは「自然本性」や「本能」などではない。

 だから、「好き」という恋愛感情がない人、「セックスしたい」という性的欲求がない人、恋愛感情はないけどセックスしたい人、恋愛感情はあるけどセックスしたくない人、恋愛感情もセックスしたい欲求もない人…等々がいてもいいはずである。

 もともと「結婚して子どもを産む」ということも恋愛感情とは分離していた。政略結婚のようなかたちで好きでもない人と結婚させられた挙句、セックスさせられて子どもを産むということが「ごくあたりまえ」の時代がかつはあったのだ。そこまでいかなくても、ムラに住んでいるいい年頃の男女が「好き」という感情がなくてもごく自然に(なかば強引に)結婚してごく自然にセックスして子どもをつくるという時代があった。

 恋愛感情とセックスと結婚(生殖)がごく自然に結びつくと思われるようになったのは、歴史的にはつい最近のことであるにすぎない。特に結婚ついていえば、様々な統計資料などから性欲や恋愛感情などよりも経済的問題(お金)の方が大きな要因になっているということが今ではなかば常識になっている。

 

【まとめ】

  以下の4つは分離可能である。

(1)「好き」という恋愛感情

(2)「セックスしたい」という性的欲求

(3)「ずっと一緒にいたい」という愛情

(4)「子どもが欲しい」という生殖願望

 

 4つが結びつく人とそうじゃない人がいる。ただそれだけのちがいがあるだけだ。

 国が制度的に保障しているのは4つが結びついて結婚するケースのみである。

 これについては〈『男と女の友人主義宣言―恋愛・家族至上主義を超えて』/労働・恋愛結婚・モテ幻想から「男を救う」ために 〉で詳しく論じたのだが、今回は特に(1)と(2)のつながりについてこだわって考えてみた。

 もし「好き」という恋愛感情と「セックスしたい(=ベロベロしたい)」という性的欲求がつながるのなら、そこには隠されたモード(熱情→変性意識→変態)が必要であると思われる。これは美しく愛のある行為なのだろうか。「二人にとって」美しく愛のある行為だと感じられるのなら何をやっても(ベロベロなめようがなめまいが)それでいいと思う。

 でも「好き」と「ベロベロ」は分離可能でもある。好きになった人とはベロベロせず、ベロベロしたいときはベロベロ用の人とつきあうという性的指向もありうる。もしこのような性的指向が「変態」だと言うのであれば、恋愛感情とセックスがつながる性愛的セックスだって(あるいはその方が)「変態」である。実は、あたりまえと思われていることこそが本当はあたりまえではなく、さもありそうなことだと思われていることこそが本当はありそうもないことなのだ。 *2

  

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*1: 動物(特に哺乳類)のペアが仲良くなったときに行う「毛繕い」のような行為を例に出して「好き」と「ベロベロ」のつながりを本能的で自然なことだと言ったりすることがある。しかし、人間のベロベロは性的欲求からくるセックスとダイレクトに結びつくものであり、動物が行う毛繕いは(ベロベロしているように見えるかもしれないが)セックスにつながるものではない。動物が行うセックスは「好き」という感情から行うのではなく発情と密接に関係してる。人間にはそのような発情はない。また、人間の「好き」という恋愛感情と同じような感情が動物にもあるのかも問題になる。

 

*2:人間というのは「動物とは区別された存在(理性を持つ)」としておきながら、人間のセックスが動物的本能性(性欲)と無縁ではない以上、セックスは必然的に変態になる。はなから理性など持たない動物が行うセックスは純粋なセックス(本能的発情)だから変態にはなりえない。