おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「二重の排除」と「マイノリティ」—— 変革者としてのクィア的存在

「意味/無意味」が成り立つためにはホモ・サケル的な第三項排除としての「非意味」が必要になる。同じように、「優者/劣者」という価値序列が成り立つためには、価値評価の対象外(優者にも劣者にもなりえないもの)が必要になる。

「優/劣」のような社会的評価をするためには、「優/劣」を成り立たせるための地平が必要にあり、それは「あたりまえさ=自明性」が担保する。「あたりまえさ=自明性」は「普通さ(ノーマル=ノーム)」によって構成される。

 ノーム(=規範)としての「普通さ」をつくりだすには、「普通ではないもの(=逸脱=異常性)」が必要になる。たとえば、異性愛が規範化される過程では同性愛が病理化され、健常者が普通(=正常)とされる過程では障害者が「普通ではない者(=異常)」とされ、「男性」が人間として普遍化される過程では「女性」が排除される必要があった。

 同じように、ある人種(たとえば白人)を中心化させる過程では有色人種(たとえば黒人)が周縁化され、宗主国の西洋人が特権化されるためには植民地の人々を「野蛮人」として貶め、「人間」を特別な存在(=神聖な存在)と見なすためには「動物」が「人間以下」として扱われた。

 以上をまとめると、つぎのような「二重の排除」——「普通さ」をつくりだすための排除と、その「普通さ」のインチキを隠蔽するための排除 —— がある。つまり、社会的な優劣(階層秩序)をつくりだすために「普通さ」が必要になり、「普通さ」をつくりだすために「普通ではない者」が要請される。

「普通ではない者」として脱社会的に排除されたホモ・サケル的存在は、今度は「社会的劣位者」として社会の中に再度組み込まれる。そうすることによって、でっちあげられた「普通さ」の欺瞞性を隠蔽するのだ。そして、ホモ・サケル的な存在者のうち、社会的劣者として組み込まれない存在はサバルタンとして声なき透明者にされる。

 既存の普通秩序によって特をしている社会的優位者(=マジョリティ)は、普通秩序を成り立たしめている「普通ではない者」を社会的劣位者(=マイノリティ)として位置づける。これによってマイノリティを自己責任化し、みずからの優位性を正当化する。

 マイノリティには「普通ではない者としてのマイノリティ」と、「社会的劣位者としてのマイノリティ」という二重化された意味がある。普通ではないものを「異常」として排除し、この排除した「異常」を「優/劣」の「劣位」に価値変換して社会化=自己責任化するためだ。

 社会は、マイノリティを「劣位者としてのマイノリティ」として位置づけようとし、その位置づけに抵抗するクィア的存在者は社会の中で「普通ではない者としてのマイノリティ」であろうとする。したがって、クィア的存在は「普通/異常」の境界を攪乱し、社会的な「優/劣」を崩壊させる存在者になりえる。

 しかし、マイノリティがクィア的存在者になるには、まずは「劣位者としてのマイノリティ」を引き受けなければならないだろう。社会的変革は「社会の中で、社会と共に」が原則だからだ。社会から一方的に位置づけられた「劣位者としてのマイノリティ」を、その位置づけをいったんは引き受けつつそれに抵抗するかたちで「普通ではない者としてのマイノリティ=クィア的存在」に変革する。

 社会は常に「普通/異常」の問題を「優/劣」の問題に位置づけようとする。そうすることによって「普通さ」の成り立ちを隠蔽する。だからこそ、私たちは「優/劣」の問題の背後に「普通/異常」の問題が隠されていることに敏感にならなければならない。