おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「雑音」と「鼻」——クレーマーとルッキズムを増大させる感受性の劣化

 江戸時代、日本では「虫売り」という商売があった。スズムシやキリギリスなどのような独特の鳴き声を発する昆虫を観賞用として売るのである。虫の鳴き声を鑑賞する文化は海外ではめずらしく、そういう文化のない国では虫の鳴き声はたんなる「雑音」としてしか聴こえないらしい。これは文化的感受性の驚くべき差異である。

 しかし最近、日本社会ではそのような虫の鳴き声やカエルの鳴き声が「雑音」として告発されるケースがではじめてきた。「カエルの合唱」は田植えシーズンの季節を告げ知らせる“福音”のような心地よい鳴き声のはずだったが、いつしかこの心地よさの音色は「騒音」としてどうどうと「うるさい!」と告発できるような文化が日本社会では生まれてしまっていたのだ。これは深刻な日本的感受性の後退であるとおもう。カエルの鳴き声は訴訟ざたにまでなっている。

 

 

 カエルの鳴き声は〈自然〉に属する。レイチェル・カーソンの主著『沈黙の春』が示すとおり、自然が沈黙する世界は生命圏の終わりを意味する。カエルの鳴き声はわたしたちが属する生命圏の祝祭的歓喜の福音として受容されるはずである。しかしなぜ、それがたんなる「雑音」になってしまったのか。人間の感受性はいとも簡単に変わってしまうのだろう。明らかに日本社会の文脈はある時期を境に激変してしまったのだ。

 これと似た現象がもうひとつある。日本にはニコニコ生放送(ニコ生)というネット・ライブ配信サイトがある。このニコ生にのみ配信者の鼻をマスクや絆創膏で隠す文化が生まれた。なぜか——。それは漫画やアニメ(2次元)の影響が大である。漫画やアニメではある時期から鼻を省略する描き方が主流となり、とくに「萌え絵」のようなアニメでは鼻の形状はほとんど描かれないようになった。これは手塚治虫が鼻を極端に強調して描いたこととは対極である。

 その影響(鼻がない萌え絵)によって「洗脳」されたニコ生リスナーは実物の配信者(生主)の顔を観て、鼻の形状や大きさにたいする違和感をコメントで批判するようになった。〈あれ?「かわいい女の子」には鼻がないのに何でこいつらには変な鼻がついているんだ?〉 ニコ生のリスナーはとにかく配信者の「鼻」をいじる傾向がつよい。こういった「認知バグ」が「男性リスナー」(通称インセル)を中心として増大したのである。

 配信者はその反応を真に受けて防衛的に鼻だけを隠す「鼻マスク」や鼻に絆創膏を貼って鼻の形状をカムフラージュする「鼻絆創膏」をするようになる。この「鼻マスク」や「鼻絆創膏」という文化はニコ生という配信サイトにのみ誕生した独特の風習となった。世界広しといえども、ライブ配信サイトで「鼻マスク」や「鼻絆創膏」をしている配信者がいるのは日本のニコ生だけである。

 2次元の漫画やアニメに影響を受けたネットユーザーが3次元の実在する実物の配信者の顔を観て「なんで鼻があるんだ?」と思わず感じてしまう現象! これも急速な人間の感受性の劣化の例であろう。

 おそらく、これからも虫やカエルの鳴き声を「雑音」だと感受し、実物の人間の顔を観て「鼻」があることに醜悪的な違和感を持つひとたちが増えていくだろうとおもう。これに類似する現象も続々と起こっていくはずだ。

 昔だったら明らかに口にだすのもはばかられるような個人的な「傲慢さ」がネット社会を背景としてどうどうと公言できるようになった。田んぼでカエルが鳴くのも人間に鼻があるのも生物学的「自然」である。が、それがクレーマー的、ルッキズム的に「不自然だ!」と言いうるような社会・文化が生まれている。それが現在の日本社会であり、この感受性の著しい劣化がわたしたちの生きづらさの淵源でもある。