おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「裸の大将」はなぜ消えたのか —— 「居場所」なき「無能な者たち」

 TVドラマ「裸の大将」とは《画家の山下清をモデルに描いた人間ドラマ》である。(裸の大将放浪記)。1980年〜97年までフジTV系列で放映され、主演の芦屋雁之助の熱演(はまり役)もあって人気ドラマであった。ダ・カーポが歌う主題歌『野に咲く花のように』が流れると「裸の大将」を思い出すひとも多いのではないか。(その後、2007年、08年に、お笑い芸人 塚地武雅バージョンで2度放映されている。)

 連続ドラマではなく単発で、1話54分で終わるコンパクトな内容だ「裸の大将」ドラマデータベース。パターンもある程度決まっている。毎回、放浪癖のある山下清が施設を抜けだし、どこかの村や町で人間ドラマを展開する。最後に「山下清」であることがみんなにバレて、「あなたはあの山下清さんですか?」とみんなに驚かれる。有縁化(=有能化)を嫌う山下清は自分の正体がバレると、一目散にその場から去っていく...。

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放浪する山下清

 わたしがいまでも覚えているのはドラマ版ではなく、深夜にやっていたお笑い番組のパロディ版(ショートコント)の方だ。いかにも「これから“裸の大将”が始まりますよ!」という演出がなされたあと、いきなり「ランニングを着た変なおじさんがいます!」と女性に通報されてしまう...。警察に連れて行かれて一瞬で終了するというオチだった。これは志村けんの「変なおじさん」のパロディでもあるのだが、今にして思うと一種の社会風刺にもなっている。

 ある時期以降、「裸の大将」は「通報案件」になってしまったのだ。バブル期崩壊以前(90年代頃)までは、「裸の大将≒変なおじさん」ではあったが「まあ、そういう人もいるだろう...」という寛容な態度で受容されていた。この寛容な態度が共通感覚(歓待の精神)となり、ドラマ享受の前提を成していた。だからこそ人気ドラマにもなっていたのだ。

 しかし、00年代以降、「裸の大将=変なおじさん」は警察に通報されて即終了する。かくして、ドラマの前提条件(共通感覚)は消え、「裸の大将」の存在基盤が崩壊する。気づけばわたしたちの「裸の大将」はもはやどこにもいないのである。

「裸の大将」の存在基盤が消え去ったことと、わたしたちの「生きづらさ」が増大したこと——。これは無関係ではないだろう。「裸の大将」は「無能(無縁)な者たち」の表象であり、社会のルーズさの隙間を自由に生き延びる代表的存在だった。社会の隙間すらもジェントリフィケーション(社会的排除)されたとき、「裸の大将=無能な者たち」の存在は突如として「取り締まり」の対象になった。多様性(複数性)が画一化され、いまや社会成員全体が「取り締まり」の対象である。

 しかし、いまでも「裸の大将」の存在基盤は、ホットスポット的に日本のどこかに点在しているのかもしれない。「裸の大将」がいまでもふらっと立ち寄れる場所。そこが「無能な者たち」の「居場所」になるはずだ。