おんざまゆげ

@スラッカーの思想

本当に「救われない」と覚悟したとき、逆に救われる気がする —— 死・意味・価値について

「死」について考えるとき、いつもふたつの感慨にとらわれます。ひとつは、「人間はいつか必ず死ぬ。人生は有限である。残された時間は少ない。なのに、自分は今、とてもくだらないことをしている。こんなことをしていていいのだろうか...」という感慨。もうひとつは、「人間はいつか必ず死ぬ。自分が今、やっていることすべては途方もなく無意味なのではないか...」という感慨。

 前者の「残された時間は少ない」という感覚は、人生における優先順位に関係しています。働いたりしているときに「どうせ死んでしまうのに、呑気にこんなことをしていていいのか...もっと大切なことがあるのではないか」と思ったりする。あるいは、寝ようとするときに「どうせ死んでしまうのに、呑気に8時間も寝ている暇なんてあるのか...もっと大切なことをしなければならないのではないか」と考えこんでしまったりする。

 後者の場合はもっと深い絶望的なレイヤーです。人生における無意味さや不条理さに関係しています。ごはんを食べているときに「どうせ死んでしまうのに、“ごはんを食べる意味”なんてあるのだろうか...“死ぬのに食べる”(あるいは“死ぬのに生きる”)って矛盾してるよなぁ...」と思ったりする。これはすべての行為の意味に当てはまる。どうせ死ぬのに「何かをやる意味」ってなくね?というかたちで。

 前者と後者はやることなすことすべてにつきまとってきます。「呑気にそれをやっている場合か?」「それって無意味じゃないのか?」という相反するふたつがすべての実践を問いただすのです。前者は「もっと重要なことがあるはずだ。もっと真剣に生きろ」と迫ってくる。後者は逆に「すべては無意味じゃないか」とひっくり返す。

 

 「死」を自覚的に考えると、後者を経由して前者へと至る。すべてが虚しく無意味化した先に、本当に大切なことをしようと思うようになったりします。すべてがバカバカしくなったあとに、バカバカしくないことが浮かび上がってくるように感じるのです。つまらないどうでもいいことに悩んだりしていた自分がバカらしくなって、そんなどうでもいいことを気にして生きるよりも、もっと大切なことがあるはずだと思うようになる。そうすると、なぜか救われた気がする。

 だからぼくは、もっと深い絶望を感じたい...。本当に「救われない」と覚悟したとき、逆に救われる気がするからです。