おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「生まれる自由」という幻想

 主観主義の立場に立つかぎり、生む側と生まれる側の非対称性は厳として存在する。しかし、ここから〈生む側には「生む/生まない」の選択肢があるが、生まれる側には「生まれる/生まれない」の選択肢はない。生まれる側は「生まれたい」と思ったわけではないのに勝手に生まれさせられた。このような非対称性は理不尽である。〉というストーリーを制作することはできない

 主観主義で出生を考えるとき、「生む側」と「生まれた側」という二つの異なる視点が存在する。この異なる世界(視点)を同時に「この私」という世界に設定し、「生む私」と「生まれた私」を同じ世界で接続することは論理的に不可能である。なぜなら「私」から「私」が生まれたわけではないからだ。

 客観主義的に「生む側」の視点で「生まれた側」を考えたり、「生まれた側」の視点で「生む側」を考えることはできる。客観主義は生む側と生まれた側の非対称を消去できるからである。しかし、主観主義の立場をとるかぎり、生む側と生まれた側は根本的に〈世界〉が異なっており、それら二つを同時に捉える視点など存在しない。

 したがって、「非対称にもとづく出生の理不尽さ」というストーリーは、客観主義的に生む側と生まれた側の非対称性を消去したうえで、生まれた側の視点で生む側を考えた場合にのみ適用される。このストーリーでは〈この世界に生まれた「この私」は『生まれる/生まれない』を選択できなかった。親の勝手な都合で生まれさせられたのは理不尽である〉ということになる。

 しかし、そのような理不尽なストーリーは出生の主観主義と客観主義を取り違えた間違い(錯覚)なのだ。

 錯覚のストーリーは次のように展開される。

 仮に卵子を1つに固定し、そこを目指している精子数が1億だとすると、「この私」を生みだす精子Xが一番最初に卵子へと飛び込む確率は1億分の1である。したがって「この私」が生まれたのは理不尽だ......となる。

 しかし〈1億の精子の中に「この私」を生みだす精子Xが存在した〉という命題は錯覚だろう。なぜなら「この私」が生まれる以前に〈「この私」を生みだす精子X〉なんて存在しないからだ。精子はどの精子も「誰」を生みだすかなんて予め決まっていない。そもそも「この私」の存在以前に1億の精子を個別に区別する精子Xや精子Y…のような差異は存在しないのだから......

 〈1番最初に飛び込んだ精子によって「この私」は生まれた〉というのはすべての精子に当てはまる事実である。「この私」が誕生した後に、たまたま1番最初に飛び込んだ精子をXと名付け、「精子X=この私」として「精子X」以外の膨大な精子を分母にしながら「精子Xは1億分の1である」という物語をあとから言語的・客観主義的に制作したのである。

 (1)「1億個のボールの中から選ばれた一つのボールに自分の名前を書くこと」と、(2)「自分の名前を書いたボールを元に戻して、1億個のボールの中から自分の名前が書いてあるボールが選ばれること」は違うのである。この場合の「自分の名前を書くこと」とは「“この私”という内在的視点が生まれること」である。「この私」という内在的視点は生まれた後に誕生するのに→(1)、あたかも生まれる前から「この私」が存在していて、その「この私」が親の勝手な生殖によってこの世界に誕生させられた→(2)と考える。「生まれる自由」があったと錯覚するのは(1)から(2)を捏造してしまうからだ。

 そして、その錯覚を維持しながら生む側の「生む/生まない」の選択肢(生む自由)に対応した生まれる側の「生まれる/生まれない」の選択肢(生まれる自由)を錯覚的に導出し、生まれる側には「生まれる自由がなかった(=同意なく強引に生まれさせられた)」という被害の物語をつくってしまうのである。

 出生を主観主義的に考えるなら、そもそも同意可能性がない(同意/不同意という地平そのものがない)のだから出生の不同意(あるいは出生の自由意思)を問題にすることはできないだろう。