おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「青春」はなぜ実在しないのか——「物語り」としての人生

ドミナントな「青春」という呪縛語を破壊しよう!

「青春」という言葉はありふれている。すごく嘘くさい言葉だ。わたしが中学生や高校生のとき、まさかその〈いま・現在〉を「青春時代」だなんて思ったことは一度もなかった。あまりにもつらすぎて早く過ぎ去ってほしいとずっと思っていた。思うに、恵まれたリア充の中高生たちも〈いま・現在〉を「青春時代」だなんて思っていないのではないか。

「青春」とはつねに大人になったあとから《あの時代はわたしの青春だった》と過去形でラベリングされる「思い出」のことを言うのではないだろうか。「青春」とは大人になったあとから想起される中高生時代の物語(=ナラティブ)に貼付されるラベル(意味)にすぎない。過去は記憶であって言葉による虚構である(過去は今どこにも存在しない)。過去が実在しない以上、「青春」も実在しないだろう。

「青春」とは大人になったあとから捏造される「あのときわたしは青春していた」という実在しない物語(フィクション)である。だから、中高生は「青春」を生きることができないし「青春」なんて生きていない。「これぞ青春だ!」と実感しながら生きることができる「青春」なんてそもそも実在しないからだ。

 それにたいして、ドラマや小説では物語構造がメタ的に構成されているために、主人公(あるいは読者や視聴者)が自覚的に「青春」を生きたりすることができる(むろん、これは構成的にフィクションとして経験することができるという意味)。しかし、実際のリアルではそれは不可能だ。「青春」なんて大人になったあとからでしか実感的(あるいは意味的)に理解できないのだから。「青春」というのは、つねにあとから振り返ったときに「あれはわたしの青春時代だった」と過去形でしか語れないものなのである。しかし、ドラマや小説ではそうなっていないため、あたかも「青春」というのが中高生時代に実在しているかのように思われている。そして「中高生は青春を生きている」などと大人たちは形容したりする。実際の中高生は「青春」なんて知るよしもないのに…。

 

 ここで重要なのは、中高生時代に「恋人とデートする」みたいなタスクがあたかも「青春」だと思われており、このタスクが遂行できなかったひとたちは「暗黒の青春時代」だったと勝手にネガってしまう思考癖である。これは端的に言って「青春」を実在化してしまっているからおこってしまう。「青春」という期間(時間)はそもそも実在しない虚構の産物なのだから、そこに過度の意味づけや価値づけをしてしまうのは世間的な慣習に流されてしまっているだけである。この流れに乗る必要はないのだ。

「青春」は単なるラベルにすぎない。そんなラベルを重んじる必要性なんて微塵もない。もしあなたが「青春時代」を謳歌できなかったとしても、それは世間的な慣習のラベルを貼れなかったというだけであって、あなたはそれを気にすることなくこれから「それ」を遂行することは十分可能なのである。そのときに「一生青春」とか「第二の青春を!」とか「青春を取り戻す」などと息巻く必要はない!

 

映画『Blue』(2003年)より