おんざまゆげ

@スラッカーの思想

「左翼」や「リベラル」のクソさについて

 1.ほんとうの左翼・リベラルとは...

 ある種の「左翼」、あるいは「リベラル」の欺瞞さ...。ほんとうに苦手だ。昔からそうだった。ぼくが尊敬する「左翼」や「リベラル」は明治期から大正デモクラシー期にかけて活躍した庶民派(=貧しき民の側に立つ)社会主義者で非戦論者である。中江兆民幸徳秋水内村鑑三堺利彦田中正造...とか。こういうひとたちこそがほんとうの意味での日本的な真のリベラルだし左翼であると思っている。それに比べたら戦後の「9条・護憲・平和」は左翼でもリベラルでもない。

2.赤木智弘氏の「希望は戦争」論

「9条・護憲・平和主義」に依拠する左翼・リベラル知識人の偽善と欺瞞を暴いたのが赤木智弘氏の「希望は戦争」論文である。*1

*1「丸山眞男をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は、戦争 」

 赤木氏はロスジェネ世代の論客のひとり。就職氷河期で就職できず非正規雇用で働いている貧しきプレカリアートである。いまでは44歳(当時は31歳だった)になっている。

 ぼくは赤木氏を支持しない。(なぜなら、ジェンダー的な視点や性差別にかんしてほとんど言及しないから。一部のフェミからは“ミソジニー”認定されていたりする)。だけど、「希望は戦争」論文で彼が言いたかったこと、その「気持ち」は理解できる。

 みずからは主流秩序の座席にどっかりと居座っていながら、「弱者を守ろう...差別はよくない...平和は大切だ...」と偽善をとばす左翼・リベラル知識人たち。このひとたちは本当に「ぼくたち」の味方なのか...。赤木氏は「希望は戦争」論文で試してみたのだ。

 主流秩序は固まっている。もはや流動化しない。座席は固定されている。まったく動かない。だったら戦争だ。戦争をすれば秩序は乱れる。座席にすわっていたひとたちも立たざるをえなくなる。そうなれば、みんな貧しくなって平等化するだろう。彼はそういう極論を投げた。

 左翼・リベラル知識人たちのほとんどは彼の投げたトラップに引っかかった。「ダメだよ...戦争はよくないよ...戦争が起こったら君みたいな若者がまっさきに戦場におくられて死んでしまうのだよ...」と上から目線で諭してきたのだ。かれらは赤木氏が極論を言わざるをえない真の動機にはまったく目を向けようとはしなかった。

 これで分かった。左翼・リベラル知識人たちは恵まれた座席をしっかりと死守しながら空疎なポジショントーク(9条・護憲・平和)をしているだけだった。「ぼくたち」の気持ちなんて誰も知ろうとしてくれない。「希望は戦争だ!」と極論をとばさないと見向きもしてくれない。話も聴いてくれない。なんとか対話ができると思ったら、今度は上から目線で説教してくるだけ...。これが左翼・リベラル知識人の欺瞞であり、嫌われる理由である。

3.左翼・リベラルのクソさが「日本会議」を生んだ

 赤木氏が暴いた左翼・リベラルのクソさ。このクソさを誰よりも憎んだひとたちがいた。安倍政権を支える宗教右派団体「日本会議」である。また、朝日新聞が大嫌いな「ネトウヨ」たちも同類に含まれる。

 日本会議を研究した菅野完氏によると、日本会議の実態はからっぽの空洞。中身はゼロ。そこにあるのは「左翼嫌い」という共通点だけである。世代的には裕福な団塊世代の「おっさん」や「おばちゃん」が主体だ。

 そういうひとたちが「左翼嫌い」を共通項として寂しさを紛らわすためにやっているのが“日本会議ごっこ”なのだ。政治運動とは名ばかりの“ごっこ”である。しかし、“ごっこ”だからといってバカにできない。なぜなら、安倍政権を支持しながら国旗国歌法教育基本法改正をやってのけたからだ。本当は“ごっこ”でしかないのに効果的な実態を持ってしまうところが恐ろしい。

 だが、日本会議的、ネトウヨ的なひとたちに左翼・リベラルの「説教」は通じない。むしろ逆に「左翼嫌い」が備給されて活発化し増殖している。ここには循環がある。朝日新聞的な左翼・リベラルは恵まれた座席を守りながらポジショントークをしているだけだから、この循環はずっと続いていくだろう。この循環の基点は、赤木氏が暴いた左翼・リベラルのクソさである。しかし、説教的な左翼・リベラルは今でも自己反省せずに毎日同じことを言っている。そろそろ気づいてほしい。

4.「反天皇制運動」も日本会議と同じ

 即位礼正殿の儀が行われた日(2019年10月22日)、ぼくはまったく興味がなかったので、ネットで「反天皇制デモ」を見ていた。警察の警備に取り囲まれながらリズミカルに「天皇いらない!」と叫んでいる。途中から右翼団体が対抗してきて「反天連は日本から出て行け!」とか言っている。反天皇制デモと右翼と警察がもみくちゃになって三つ巴の様相を呈するが、無事に終了。最終地点までくると、みんな仲良く去っていくのだった。

 これって“ごっこ”だよね?と思った。赤木氏なら何と言っただろう。天皇制? そんなのどうでもいいよ。それよりも俺たちの生活をどうにかしろよ。非正規労働で時給1000円以下でどうやって生活すんの? 何が反天皇制デモ? こっちは貧乏暇なしで働いているんだ。働けなくて苦しんでいる人もいるんだ。生きづらいんだよ。

 日本会議と同じだろう。結局、反天皇制デモをやっているひとたちは高揚してお祭り気分を味わって“ごっこ”しているだけ。「左翼嫌い」が「天皇制嫌い」に変わっただけで、やっていることは日本会議と一緒。寂しさを紛らわしたいだけだ。脳天気で現実を見ていない。

 悪循環も同じ。反天皇制運動をすればするほど右翼団体は活気づく。デモにまで押しかけてくるぐらいに...。

5.「ネトウヨ」も左翼・リベラルのクソさが生んだ

 ぼくは環境活動家・グレタ・トゥーンベリ氏を支持している。彼女の主張は正論であるし、まったくそのとおりだと思った。しかし、彼女を感情的に「好ましい」とは感じない。友達になりたいと思わない。ぼくにはアニマルライツ活動家の知り合いがいるのだが、その人からはいつも動物性製品を使用していないかをチェックされたりしている。こんなひととは友達になりたくないと思った。グレタ氏と友達になりたくない理由もこれと同じ。いろいろチェックされて「正しくない」と批判されそうで怖いのだ。

 ネット上においてグレタ氏はいわゆる「ネトウヨ」系のひとたちに批判されていた。どうでもいいことがほとんどだったが...。一方、グレタ氏を全面的に擁護しているひとたちもいた。環境保護系の左翼・リベラルである。このひとたちは環境問題や気候危機に敏感に反応し、環境保護にかんする意識が非常に高い。人権や倫理を説きながら正義や正しさを普遍主義的に主張するのが特徴である。

 環境保護系の左翼・リベラルには、アニマルライツの活動家やビーガン・ベジタリアンなども含まれる。グレタ氏を叩いた「ネトウヨ」の光景は、反ビーガンを展開した「ネトウヨ」とダブって見える。そういえば赤木氏もビーガンには批判的であり、動物愛護の運動ですら反対していた。

 いや、「ネトウヨ」と一括することはできない。かれらがイラだっているのは、左翼・リベラルの主張する「普遍的な正しさ」の押し付けである。結局、ここにも赤木氏が暴いた「偽善」と「欺瞞」が関係している。

 ビーガン生活はある程度余裕のある裕福なひとにしか実践できないだろう。グレタ氏はiPhoneTweetしている。iPhoneが製造されるまでにどれだけの人間が搾取されただろう。スマホにはレアメタルが使用されている。レアメタルが採掘されるまでにどれだけのひとが犠牲になったのだろう。グレタ氏は先進国の裕福な家庭に生まれた文化資本を持った女性だ。先進国はさんざん温室効果ガスを排出して豊かになった。では、後進国はどうなる? 

 粗を探せばいくらでも出てくる。それでも「正しいこと」をするのは正しい。正義だと思う。そのとおりだ。しかし、なぜそんなに偉そうなんだ。なぜそんなに「正しさ」を臆面もなく主張できるのだ。

 グレタ氏を擁護しているような環境保護系の左翼・リベラルのTwitterアカウントのTLを見ると、本当に「正しい」ことしか主張していないことに驚く。上から下までずらっと「正しさ」や「〜するべき」が踊っている。そして、こういうひとたちは「普遍的な正しさ」を主張しながらも自分の言っていることが「偽善」や「欺瞞」であることに自覚的でもある。だから「私は寄付しています」というアピールもかかさない。どこまでも「正しい」のである。息が詰まるほどに...。

「普遍的な正しさ」を主張すること——。これも「余裕」があるがゆえに言えることではないか。主流秩序の座席にどっかりと居座っていられるから言えることだろう。「ぼくたち」は主流秩序の座席から排除されている。余裕もないし文化資本もない。「普遍的な正しさ」が重要なことは分かる。でも、それを言える「権能」(エンタイトルメント)がそもそも付与されていない。ケイパビリティがないのだ。

 それなのに、なぜ、「あなたたちは正しくない」と上から目線で言われなくてはならないのか! これは赤木氏を説教した「9条・護憲・平和主義」のポジショントークと同じ構造なのではないか。

 かくして、「ネトウヨ」は生まれたのだ。

(以上の流れは、米国において超リベラル派のヒラリー・クリントンではなくトランプが大統領になってしまっという事実にも深く関係している。ちなみに、リベラル嫌いで有名な『アメリカン・サイコ』の作者であるブレット・イーストン・エリスは《衣食住を確保することで頭がいっぱいの大多数にしてみれば、男女別トイレの廃止の議論なんて不快なだけだ。》と述べている。これは赤木氏が言いたかったことと本質的に同じことを言っていると思われる。)