「生きづらさ」はゼロにはならない
私がブログで本当に考えたいテーマは「生きづらさの低減」についてです。ずっと念頭にあるのが「どうやったら生きづらさを生きづらさとして受け容れられるのか」という難問です。
生きづらさは決してゼロにはならないと思います。
生きづらさが問題になるのは
(1)「生きづらさ」という感情がいったい何に由来しているのかが分からないこと
(2)生きづらさを強引にゼロにしようとしてがんばってしまうこと
にあると思います。
私たちの生は、社会の価値観や教育によって無意識のうちにある方向へと「条件づけ」られてしまっていますが、生きづらさの正体はそのような仕組まれた条件づけに関係しています。「無意識のうちに負わされた条件づけ」を「意識された条件づけ」に変えること。これが(1)に対する処方箋であると思います。*1
(2)に関しては、とにかく「生きづらさを生きづらさとして経験すること」が重要であると考えます。精神分析の教えるところでは、悲しみを悲しみとして、苦しみを苦しみとして、不幸を不幸として経験できないところから心の病理が始まると言われます。
生きづらさもまったく同じように、生きづらさを生きづらさとして経験できないところから二次的な困難が生じることになり、この困難がさらなる生きづらさを生んでしまう負のスパイラルに陥っていると考えられます。*2
受け容れ可能なものは受容し、受け容れる必要のないものは正しく異議申し立てをする。受け容れ可能か不可能かを判断するためにも、(1)の「何に由来しているのか」という分析が重要であると思います。
「生存学」とは何か
「生きづらさ」について考える際に私が全面的に依拠する学問は「生存学」という考え方です。これはまだ正式な学問分野ではなく、また、ちゃんとした正確な定義づけがなされているわけでもありません。
「生存学」とは社会学者の立岩真也さんが中心となって創立した学問で、本部は「立命館大学 生存学研究センター」にあります。ホームページには以下のような説明があります。
生きて在るを学ぶ
病い、老い、障害とともに生きること。異なりをもつ身体。
それは、福祉や医療の対象である前に、人々が生きていく過程であり、生きる知恵や技法が創出される現場です。人々の経験を集積して考察し、社会との関わりを解析し、これからの生き方を構想し、あるべき世界を実現する手立てを示す──それが「生存学」です。
生の無条件の承認
私がイメージしている生存学の核心教義は「生を無条件に承認する」こと、「人の存在を無条件に肯定する」ことです。
生存学は70年代初めの障害者運動に影響を受けており、なかでも「日本脳性マヒ者協会・青い芝の会」が打ち出した価値観を学問的に捉え直したものが生存学の根本思想であると私は考えています。
反優生思想の立場から、女性問題・障害者問題に取り組んでいる町田ヒューマンネットワーク理事長の堤 愛子さんの文章がとてもわかりやすいので長文ですが引用いたします。*3
… 一般的に労働とは、「生計を維持するため」に行うものだ。私たち障害者を苦しめる「働かざる者、食うべからず」という言葉は、そこから生まれたものと思われる。
しかし、基本的に人間は、「生産力があるか否か」「労働可能か否か」に拠るのではなく、無条件に「生きること」が保障されなければならないはずだ。いい換えれば、「生きるため」に必要な金は、「労働に依って」ではなく、生きているという事実のもとに、無条件に保障されるべきなのだ。その前提のもとで、個々人の能力に応じて、可能なかたちで労働に参加すればいい。本来、「生計を維持するための金」と「労働」とは、切り離されるべきなのだと思う。
私たち障害者は、生産性を求める労働には乗り切れないと開き直った後、ほんとうに自分たちのやりたいこと、必要なことを通して社会参加の場を創り出してきた。そして「生計維持のための金」(この大部分が生活保護であることの是非や、年金額の低さ等、問題は山積みだが)は、別の所から支給されている。
私は、むしろこのかたちが一般社会に広がってほしいと思う。
そしてまた、私たちの「社会参加」を「労働」として位置づけていくためには、「労働」そのものの価値観も変わらなければならない。
現状では、「労働」はほとんど「生産」と同義語だ。農業、工業は「生産」そのものであるし、商業は生産物の流通だ。サービス業にしても、生産者をささえる、育てる等、すべてが「生産」を軸にまわっている。そして生産性を求めるあまり、人々の心に余裕がなくなり、また「役に立つ人間」「役に立たない人間」と、人間の価値にランクづけさえ、されるようになってしまっている。
たしかに「生産」は、人が生きていくうえで必要不可欠なものであるが、しかし、それがすべてではない。家事も育児も、介助も自立のための情報交換も、すべて、人が生きていくうえで必要な、大切なことだ。現状ではそれらは、生産性をささえる「補助的なもの」としてしか価値づけられていない。が、本来それらは、「生産」のためではなく、人々がより良く充実して生き合うために、男女の関わりなく必要不可欠なことなのだ。
私は、現在生きている様々な人々が、互いに生きる営みに関わり合い、ささえ合う、あらゆる行為を「労働」ととらえたい。そして、ゆったりしたペースで「労働」をしたい。そう考えたとき、私たち障害者にも、子どもや高齢者にも、「労働」の可能性は無限に広がってくるだろう。
(のびやかな「自立生活」と「労働」をめざして 障害者が働くこと/障害者介助という労働
『働く/働かない/フェミニズム』p295-7)
すべての生が否定されない社会
引用した堤愛子さんの文章のなかに生存学のアプローチのすべてが詰まっています。
生の無条件の承認とは、すべての人の生を積極的に「すばらしい」と肯定的に価値づけることではなく、すべての人の生を「否定しない」という消極的な承認のことです。倫理学ではそのような消極的義務は完全義務(必ずしなけらばならない義務)として不完全義務(慈善活動のような、することが望ましい義務)とは区別されます。
しかし、現在の日本社会では、ありのままに生きていると自動的に生が否定されてしまう傾向にあります。私たちは、社会に対して積極的に、何かができること、社会に役立つこと、労働能力があること、学力やスポーツ能力があること、容貌の美しさ、健康的で丈夫な身体、若く引き締まった体、明るい性格、コミュニケーション能力…等々を証明できないと社会や他者から自動的に否定されてしまうのです。
そのような社会では無条件に生が承認されるのではなく、ある一定の条件をクリアできた人の生だけが肯定的に評価され、この評価をもって条件つきでその人の生が承認される社会です。これこそが私たちの生を生きづらくしている根源であると思います。
だとしたら、まず出発点に置かれるべき大前提は「すべての生が否定されない社会」です。これこそが生の無条件の承認であり、生存学的なアプローチです。ここから生きづらさの低減を考え、誰もが自らの生の生きづらさを生きづらさとして経験できることが重要なのです。
生きづらさを抱えつつも差異ある人びとがお互いを支え合い、誰もが緩やかに穏やかに共生して生きてゆくことのできる社会をめざすべきです。
【脚注】
*1:「負わされた条件づけ」と「意識された条件づけ」に関して。
… 精神的病いの場合、患者がその原因を教えてもらうだけで治ることがあることはつとに知られている。精神病をその極端な例とする〈文化の病い〉にあっては、徹底的な診断と原因究明こそが肝要である。そのためにも私たちは、あらゆる文化現象に「何故」を辛抱強く問い続けるとともに、確固たる方法論に基づいてその解明にあたる必要があるだろう。
マルクスも「所与のある事態が物象化の所産であり倒錯視であることの指摘は比較的容易であるが、当の物象化が何故いかに生ずるのかの解明こそが困難ではあるが重要である」と言っている。私たちはそのためにも、まずは自らが〈蒙っている条件づけ conditionnement subi〉を〈意識された条件づけ conditionnement conscient〉に変えること(メルロ=ポンティ M.Merleau-Ponty)によって、可能な限り文化のフェティシズムの解明ととり組んでみたい。
(丸山圭三郎『文化のフェティシズム』)
*2:「悲しみを悲しみとして経験できないところから心の病が始まる…」について。
… 人間の心の健康を定義するとき、大きな誤解があるということです。人間の心が健康であることと、いつも満足感があってハッピーであることは決してイコールではありません。つまり、精神分析は、人間の心をいつも楽しく、快適なものにして、苦痛や不幸や悲しみや罪悪感がないような心の状態を目指してつくられていたものではありません。
フロイトに有名な言葉があります。「精神分析の治療の目的は、決して人間を幸福にするためにあるのではない。むしろ人間が生きていくために耐えなければならない必然の苦しみや悲しみというものを、人間が自分のこととして経験することができるようになることが心の正常である」
ノイローゼや精神病はむしろそういう苦痛を経験することからの逃避現象です。ですから精神分析はそういう苦しみや悲しみをなくすためのものではなくて、それを正面きって体験できるようにすることが精神分析だとフロイトは言っているわけです。
…むしろ不幸を不幸として経験できないとか、悲しみを悲しみとして悲しめないとか、苦痛を苦痛として味わえないという心が、まさに心の病理のはじまりであるということです。
*3:「堤愛子さん」について。
堤愛子さんのホームページには以下の興味深い文章などがあります。
どれも非常に考えさせられる内容です。
【引用文献】
働く/働かない/フェミニズム―家事労働と賃労働の呪縛?! (クリティーク叢書)
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