おんざまゆげ

@スラッカーの思想

社会問題を「教養」と捉えるひとたち

 ブログを読んだりするのが昔から好きで、はてなブログでは書評系ブロガーなどを毎日チェックしている。
 
 そのなかで「公務員」という肩書きのブログがわたしの読書傾向とほぼ合致するので、ある時期までそのブログを頻繁に注意深く読んでいた。

 だが、ある日気がついた。このブロガーはわたしの問題意識とはまったくちがう…。社会で「貧困問題」が話題になっているとき(年越し派遣村がニュースになったとき)、そのブログでは貧困にかんする本が多く書評されていた。わたしも貧困問題に関心があるので食い入るようにそのブログを読んだ。

 そのブロガーは意識の高いひとだった。環境問題が話題になっているときはそのような本が書評され、LGBTQが話題になっているときもそれに関する本が取り上げられていた。斎藤幸平さんの本がベストセラーになったときはその本が、そして佐藤優さんや池上彰さんの本がつづいていた。

 そのへんまで読んでやっと気づいた。このひとはわたしと読書傾向が似ているけど、日本の社会問題を「教養を身につける」みたいに捉えて本を読んでいるんだなと。今、日本ではどのようなニュースがトレンドなのか。その傾向をつかみ、本屋に行って平積みなっているような本をチョイスして社会問題をたんなる「知識」として収集することがその「公務員ブロガー」の読書の目的なのだ。

 そういえばそのブログの文章は大学のレポート論文のように手堅くあたりさわりのない文章だった。大学受験の小論文の解答のようだった。書き手の実存がまったく感じられないのだ。なぜその社会問題にコミットしているのか、なぜその社会問題を「問題」と思っているのか、その社会問題で苦しんでいるひとたちは自分とどのように関係しているのか…。そういった実存的な関係性が皆無なのである。

 わたしが社会問題に関心があるのは、その社会問題と「わたしの生きづらさ」が関係しているからだ。わたしの生きづらさとその社会問題の構造が関係していると思うからである。しかし、その公務員ブロガーには実存的な生きづらさの吐露がまったくなかった。社会問題に関する本を読むことは「教養」となり、あたかも知識を持っていることが周囲からの「このひとは頭がいい」みたいな評価につながるかぎりでのスノッブ的な読書感想文を書いていただけだった。

 偏差値の高い大学に行って官僚になったひとたちがなぜ反社会的なミーイズムに陥るのか。偏差値が高いこと、官僚エリートになること、知識が豊富なこと、教養があること、知能が高くて頭が良いこと、社会問題に関する意識が高いこと…。こういう傾向のあるひとが実際に社会問題に苦しんでいるひとたちのことまで考えていると言えるか? こたえはノーである。

 ある社会問題に苦しんでいるひとのことをまったく考えなくても、その社会問題に通暁している専門家がアカデミアにはたくさんいる。その社会問題に関心があるのは、その社会問題に関する論文を書くことによって自分の業績となるからである。ある社会問題のツイートをすれば「いいね」がたくさんあつまるからその社会問題をツイートしているひとがたくさんいるように。

 いっけん同じ社会問題に関心があるようでまったくそうではない現象。ある社会問題についての知識は持っているが、その社会問題によって苦しんでいるひとたちにはまったく興味のないひとたち。そういうひとたちは「模範解答」は持っているが自分の価値観にもとづいた意見は持っていない。「世の中ではこういうふうなニュースが問題になっていて、その問題には次のような解答をするのがよい」というチャート式な受験解答パターンを記憶しているだけのひとたち。

 わたしはそういうひとたちを「ディレッタント」とよんで批判している。ディレッタント文化資本にアクセスできる恵まれたひとたちであるが、その幸運を自分の承認欲求や見栄や出世や趣味・知的満足のためにだけ消費しているからだ。

 ほんとうに社会問題に関心があるのか、それともたんなるディレッタントなのか。このちがいを見抜くのは意外とむずかしい。たとえば、ナチスホロコーストを問題だと思っているひとと、たんなる歴史オタク(ホロコーストの歴史にやたら詳しいだけのひと)。西洋哲学を自分の生き方と関係づけて理解しようとしているひとと、たんなる哲学オタク。自分はクリスチャンだと称するひとが信仰心よりも聖書やキリスト教神学の知識ばかりひけらかしたりするひと…。

 ディレッタントを見破るすべは、そこに「自分の生きづらさ」があるかどうかにあると思う。生きづらさを吐露しない官僚的な無味乾燥な受験解答のような意見なら、そこにはそのひとの「生きづらさ」がないのである。同じ社会問題に興味があるようでいて、まったくその問題意識はちがっている。かたや自分の教養のため、かたやその問題に苦しんでいる(生きづらさを感じている)ひとたちのため。そのちがいに敏感でいたい。